エピローグ-60
イサは静かに微笑んで、コルク抜きが刺さったままのボトルを使って前方の関東平野を指し示す。
「Pネットという居心地の良いゆりかごの中から、あれだけの人々が自らの意思で出てきたのだもの。きっと、彼らは力を併せて、何か素晴らしいことを成し遂げるはず」
そうだね、とミハイルは頷いた。それから無理してもう一口ワインを口に含んで飲み下した。
「しかし、彼らは何を成し遂げるのだろう?」ミハイルは眉間にしわを寄せて考え込むふりをした。それから、何かを今思いついたという体を装って言った。「あっ。ひょっとして、彼らは東京を復興するんじゃないかな?」
「なるほど。それは考えつかなかったわ」イサはにっこりと笑った。「最初の水爆に起因する残留放射能がほとんど無視できるくらいに減衰した後も東京が復興されなかったのは、何もない東京で協力して生きていけるだけの人数が揃わなかったせいだものね。その点、あれだけの人数が揃えば、問題は解決されたも同然よね。……それで、よかったら、どうやって復興するのか教えてくれる?」
「彼らのほとんどは、Pネットに移住する前に、Dゲートを介して現実世界における自分の財産のほとんどを一緒に持ち込んで、それ以来ずっとそれらを貯蓄しているはずだろう。個々人がそれを元手にして、皆で東京に家を建て、道路と水を引き、店や学校を作るんだよ」
「良い考えね。でも、それぞれが好き勝手に行動したら後から問題が山ほど持ち上がって破綻するのは目に見えているわ。誰か指導者が必要ね……」
「本来は日本大統領であるリューが指揮するのがいいんだろうけど、ただでさえここしばらく国民を放ったらかしにしているんだから、彼はそろそろ京都に戻らないと。東京だけが日本じゃないんだから。となると、やっぱり一番のカリスマであるタイマか」
「わからないわよ。Pネットではデイタの人気も根強いというし、それに、現・日本一の企業の社長であるナギサが主導となってもうまくいきそうね。会社経営が上手いなら、都市経営だって上手そうじゃない。……待てよ。それとも、案外アルカちゃんをトップに据えたら、人々の心も和んで争い事もなくなるかもしれないわね」
イサは口元に笑みを浮かべて、隣のベンチでこんこんと眠り続けるアルカをちらりと見た。ミハイルは最後のはどうかな、と眉を傾けたが、こう言った。
「何だ、誰が指導者になったってうまくいきそうじゃないか」
「ええ。私たちが元の世界に帰っても、彼らさえいればこの世界は安泰ね」
全てに満足しきったような顔で三本目のワインを飲み干して、空っぽのボトルを足下に置く。短時間のうちにこれだけの量のワインを飲むなど、もはや一般人だったら昏倒してそのままPネット送りになってしまうところであるが、イサにそんな常識は通用しない。すぐさま四本目のコルクを抜く。
「……カイトだけは、指導者には向いていなさそうね」
イサはぽつんとそう言った。
「あいつときたら、自分のことしか考えてないし。一度ひとつのことに熱中し始めると、他のことなんて何も見えなくなるし。全然、指導者って器じゃないわ。あなたもそう思わない?」
イサは突然身体を傾けてミハイルに寄りかかったので、ミハイルは体勢を崩して危うくベンチから落下しそうになった。
「何を考えているんだい君は。身長差を考えてくれ」
「何言ってるの。男が甘えるんじゃないわよ」
「流石に三本飲めば酔い始めるんだなあ」ミハイルはイサを強引に押し返そうとしたが、途中で気を変えて優しく元の体勢に戻してやった。「カイトのことが気になっているんだね」
「うん。うん。大好きなカイト。会いたいなあ」
イサは地団駄を踏んで、それから四本目のワインをきゅっと喉に流し込んだ。
「これじゃまるでやけ酒じゃないか。もうよした方がいい」ミハイルは逡巡の後、イサがワインをベンチの上に置いた隙を見計らってワインを取り上げた。「可哀相に。心の底ではずっと彼に会いたくてたまらなかったんだな」
PDAに密かにシャークを隠したタイマを説得に向かわせ、シャークの復讐心を利用して《灰色之者》を殺させるというミハイルの計画に、イサはずっと賛同していた。しかし今思えば、大賢者としての使命のためとはいえ、愛する者を騙して利用してきたイサの心の痛みはいかほどのものだっただろうか。ミハイルは黙ってボトルを傾け、一本目のボトルを空にした。
「会いたいよう。もう会えない理由なんてないじゃないのよ」
イサが再び嘆きの声を上げた。ミハイルにはこの状況でどう振る舞えばよいのかわからない。カイトが生きていると信じて露ほども疑っていないイサに、あのときPDAの電源を切っていたシャークがまだ生きている可能性は限りなく低いと伝えればよいのか。それとも、宇宙船の中でイサから聞いた理屈をオウム返しのように伝えて言い聞かせてやればよいのか。
今更会ったらカイトが人生を棒に振ってまで成し遂げた復讐を否定することになる。こちらとしても併せる顔がない。それにこちらはやがて元の世界へ帰ってしまう身だ。だから二度と会わない方がお互いのためになるのだ――
「どうすればいいと思う? ……お嬢さん」ミハイルは二本目のコルクを引き抜きながら、隣のベンチに寝ているアルカを見た。「起きているんだろう。大丈夫、危害を加えはしないよ。だから、彼女にどうすればいいか教えてやってくれよ」
疲れた口調でそう言うと、アルカがベンチからゆっくりと身体を起こした。
「何から何まで、私にはよくわからないんだけど……」まだ手足に力が入らないのか、目は半開きだし、動作がひどくゆっくりだ。「警戒してしばらく寝たふりしていたのが馬鹿らしくなるくらい、二人とも良い人みたいね。私の印象は良く当たるのよ」
「ああ、今の僕は良い人だ」ミハイルは照れくさそうに頷いた。「先月は散々追い回して済まなかったね。あれは《灰色之者》の決定的な信用を得るためであり、君たちに生死の淵を経験させることでこの現実世界への執着を喚起するためでもあり、シャークの復讐心を改めて誘発するためでもあり、僕がPDAコーポレーションの社員だと巧妙に暴露して人々の反抗心を誘導するためでもあり……君に言っても仕様がないか。とにかく全ての行動に理由があったんだよ。本当は、あの核施設でネタばらしをして、PDAの電源を切った君たちと、《灰色之者》の監視を決して受けることのない状況で、今後の対PDAコーポレーション作戦を伝えるつもりだったんだ。飛行機がやって来てその計画は邪魔されてしまったのだけど……。
いや、こんな言い訳で許してもらえるとは思っていない。君たちをひどく脅かした上、いいように利用しようとしていたことには違いないんだから」
「……やはり、よくわからないなあ」
アルカは胡散臭そうな目でミハイルをじろじろ見た。それでも、歩いてきてイサとミハイルの間に腰を下ろした。途端に、イサがアルカの肩に腕を回してもたれかかった。
「アルカちゃんじゃないの。ほら、飲みなさい。今コルクを抜いてあげるから」
「おいおい。睡眠薬を盛った上に酒なんか飲ませたら、本当に死んでしまうぞ」
「えっ、私に睡眠薬なんか飲ませたの? 信じられないわ。どうりでこんなに頭が重いわけね」
「……謝罪の言葉もない」
ミハイルは情けなさそうに目を伏せる。アルカはため息をついてから、麓のDゲート群を見下ろした。「あっ綺麗」と感動詞を発する。
「……後で最初から最後まで説明してもらうからね。今私にわかるのは、イサさんがカイトさんって人に会いたい、けど会えないと思ってること。それなら、話は簡単よ」
アルカはイサを押し返すどころか、彼女の肩に手を回し返した。それから、もう片方の腕を高らかに掲げ、びしっと晴天の空を指さした。
「はっきり言って、会わないなんて選択肢はないわ!」
「……さては君も酔ってるね。睡眠薬で」
ミハイルがぼそっと言ったが、アルカは無視した。
「私もね、五十年くらい前にタイマと大喧嘩して、一年くらい口を利かなかったことがあるの。だけどね、寂しくてこれ以上は耐えきれないって頃になって、タイマのところへ謝りに行ったら、十分で仲直りが済んで、一年前と何ら変わらない関係を取り戻せたよ。男女の仲なんてね、そんなものなのよ。どんな事情があろうとも、二人一緒に時を過ごす幸福に比べたらちっぽけなもの。大事なのは、その幸福に向けて踏み出す勇気だよ」
「……そう、なのかしら」
「私の言葉に、間違いはない」
「……カイトは、私を許してくれるかしら」
「カイトさんにとって、あなたがかけがえのない存在である限り、必ず」
「……アルカちゃんは、いい子ね」イサは両方の腕でアルカをぎゅっと抱きしめた。「それなら、あなた自身も、自分がやるべきことをわかっているわね。あなた自身の幸福を、早く掴まなくては」
イサは銀色の瞳に涙を浮かべ、足下に置かれていた二本のワインボトルを拾い上げ、それらをアルカに押しつけた。
「行ってあげなさい、タイマの元へ」
アルカは決意や覚悟を込めるように、真摯な表情でゆっくりと頷いた。立ち上がるときに少しふらついたので、イサは慌てて彼女を支える。アルカは数歩踏み出して、それから二人の方へ振り返った。
「私ね、タイマと一緒にお姉ちゃんを探す旅に出るんだ。現実世界に来たばかりの頃、そう約束したんだもの」
「そう」これ以上こらえきれなかった。イサの頬を大粒の涙がぽろぽろと伝った。「旅は、いいわよ。気をつけて」
一筋の風が吹き抜けて、イサとアルカの豊かな髪をはためかせる。その爽やかな流れの中に、イサは幸せなふたりを幻視した。
いつか、どこかの草原にぽつんと停まったキャンピングカーの傍らで、即席の食卓を囲んで笑いさざめく、どこまでも、どこまでも幸せなふたりを。
「ああ、カイト。大好きなカイト」
そうだ。私も幸せだったのだ。私が生きてきた永劫の時と比べると、火花のような、瞬きのような時間でしかなかったけれど。
あの一瞬さえ。あの一瞬の想い出さえあれば、私はいつまででも生きていける。たとえ、どんなに辛くて苦しい未来が待っていたとしても。
思わず、幸あれ、とイサは呟いていた。水爆が落ちてもなお、かくも美しく在り続ける世界に生きる、全ての人間たちに幸あれ、と。
アルカの姿がPネットへと消えてしまっても、イサは祈り続けた。神にではなく、もっと根源的なものに。
「行ってしまったね」
ミハイルが静かに言った。
「ええ、行ってしまったわね」イサは少しだけ微笑んで、頷いた。「さようなら」
そして……あなたもいつか、良い旅を。
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