第一章-3
Pネットには、疲れや眠気というものがない。三人は延々と続く青一色の単調な道を、無駄話をしながら小走りに駆け抜け、何の苦労もなく指定された場所にたどり着いた。
そこで待っていたのは、毒々しい緑に髪を染めた見知らぬ若い男だった。ただでさえポケットの多い黒い服に、十字架だの髑髏だのと必要以上のアクセサリーを付けて、その上から紫の派手なウインドブレーカーを羽織っている。Aスーツのデザインはその気になったらいくらでも変えられるとはいえ、これは度を超している。
念のため無関心を装いながら近づいていくと、壁にもたれて座っていたその男は急に立ち上がった。三人は思わず立ち止まり、場所を間違えているのではあるまいかと皆でPDAの画面上の地図をのぞき込んだ。
「よっ」
男は軽く手を上げた。タイマはびっくりして顔を上げた。目が合うと、男は一瞬身じろぎをしたように見えたが、すぐにそれは人懐っこい笑みに変わった。
「良く来たな。まずは中に入れよ。話はそれからだ」
男は壁に取り付けられたコントロールパネルに手を押しつけた。すると、そのパネルの側方の壁が、絵に水を垂らしたときのようにようにみるみる脱色し、やがて長方形の透明な自動ドアが現れた。
男はそのまま中に入っていき、三人もおずおずとそれに続いた。
設置されて間もないのだから当然と言えば当然だが、タイマたちが案内されたコミュニティは殺風景だった。部屋全体が白一色で、個人領域も二人分しか使われていない。家具といえばテーブルといくつかの椅子だけ。そのうちのひとつに、タイマの旧友は腰掛けて待っていた。
「おお、タイマ」リューは手を上げかけて途中でやめ、その体勢のままぎこちなく挨拶した。六十七年ぶりの再会に際して、どのように振る舞えばいいのかわからないのだろう。「久しぶりだな。前と少しも変わってない」
確かにそうだ。タイマは永遠の十九歳。Pネットに年月はないのだから、それは至極当然のことだ。だが……。
「おまえも、思ったほど変わってないんだな」
タイマは心底驚いていた。
目の前のリューは文系出身の癖に、理系の研究者のような白衣を着ていた。どうやら同居人であるらしいシャークと比べるまでもなく、相当素朴な格好である。そういうファッションなど少しも気にしないところも、確かに前と変わっていない。
だが、そんなことは些末な事柄に過ぎない。
それより、現実世界で六十七年の歳月という荒波にもまれてきたはずのリューの見た目が、せいぜい三十前後にしか見えないのは何事か。
手入れすることなく適当に伸ばした髪に少し白髪が増えているのははっきりわかるし、心なしか顔つき、特に目つきに貫禄が出たような印象もある。だが、タイマにはそれ以外の外見的変化を見つけることができなかった。
「てっきり、もうよぼよぼの爺さんになっているもんだと思ってたのに」
「ああ、これか?」リューは笑って、耳にかかった髪を指に巻き付けた。「あまり現実世界を侮らない方がいい。SRT、カルクタ遺伝子、高次的病原遺伝子置換術に、サブナノ生理活性物質濃度調整法……。知っているか? ゲノム創薬、ナノテクノロジー、代替医療や遺伝子操作に至るまで、あらゆる医療技術を駆使することによって、現代の我々は二百年でも三百年でも生きることができる。少なくともおそらくそうだろうと見積もられている」
ただし、恒常的にそういった延齢処置を受けられるのはまだ世界人口の十%に過ぎないがな、とリューは付け加えた。
そうだとしても、まさか自分たちの知らないところで不老技術がいつの間にか確立していたとは。タイマは目を丸くして仲間たちの方に向き直り、同じ表情をしていたアルカと無言で驚きを分かち合った。しかし、デイタの方は軽く頷くにとどまった。
「そういえば聞いたことがある。Pネットの中の人々が現実世界に出られなくなり、現実世界では出生率がゼロになったあの年の、ついぞ一年前に、一斉に臨床試験が終了した技術なんだってね」デイタは僅かに口角を上げて思わせぶりなことを言った。「昔タイマたちに話したら、単なる噂話だって笑われてしまったけど」
「え? そんな話したっけ。覚えてるか、アルカ」
アルカはきょとんと首をかしげた。
「ぜんぜん。お話を全部記憶してたら、今頃は頭がパンクしちゃうもの」
そこで、タイマたちを出迎えた緑髪の男が会話に乱入した。
「頭がパンクなのは、どっちかっつうと俺により近いな。あくまで一般人のイメージに沿えばの話であって、厳密には俺のスタイルはパンクじゃないんだが。……ところでお嬢さん、そんなとこ立ってないでこちらへ。俺の椅子だけど、嫌じゃなかったら座ってくれ」
「あ、ありがとう」
アルカがにこりと笑って席に着くと、男はタイマとデイタに向き直った。
「椅子、二つしかないんだよなあ。本当はお客さんを立たせてるリューを放り出して座ってもらいたいところだけど、男二人のうち一人を優遇するわけにもいかないし。済まないな」
男は頭を下げた。服装はひどいが悪い人ではなさそうだ、とタイマは思った。
「そっちはタイマとデイタ、そしてアルカだろ。俺はシャークだ。よろしくな」
シャークはデイタと握手した後、タイマにも右手を差し出した。タイマがそれを握ると、何となく懐かしい感覚が身体を駆け巡った。その感覚は、シャークがぱっと手を離し、身を引いた後もしばらく続いた。
この人に、昔会ったことがある。
誰だ? タイマは記憶をまさぐったが、思い当たる人はいない。こんなぶっ飛んだ服装の奴に会ったら、確実に記憶しているはずなのに。自分の頭は、もしかして本当にパンクしてしまったのか? だとすれば、長く生き過ぎたせいか?
「あー、悩んでいるところ悪いが、ちょっと聞いてくれ」リューが怪訝そうな目でタイマを見た。「そちらにもいろいろ話したいことはあるだろうが、実は、俺にはあまり時間がない」
タイマは思考を中断してリューの言葉に耳を傾けた。昔からリューの声には人を惹き付ける何かがあった。時間が無尽蔵なPネット内で、時間がないとはこれいかに。
「メールで言っていたことか? その……PDAコーポレーションの、現実世界をPネットに入れる計画に対して、人々が賛成と反対で迷ってるから、早い内に人々を導いて味方につけなければならない……とかいう」
デイタとアルカには、道中でリューからのメールについては説明しておいていた。結局、三人で相談してもメールの真意はつかめないままだったが。
「いかにもそのことだ」リューは神妙に頷いた。「だが、大衆の意向を決定づけるには、俺でさえ力不足だ。だからおまえに協力してほしいというんだ、タイマ」
タイマはびしっと指さされ、悠久の昔、先生に居眠りから起こされたような気分になって思わず立ちすくんだ。
「い、いや。おまえができないことを、どうして俺ができると」
「何を言っているんだ。おまえは核戦争を永久に阻止した男だろうが」
タイマは押し黙った。
あの事件のときはただ無我夢中だっただけだ。むちゃくちゃに動いていたら、いつの間にか何もかも終わっていた。そしていつの間にか英雄として担ぎ出されていた。だからといって、一度たりとも自分は偉いなどと思ったことはない。英雄扱いが鬱陶しくなって、気心の知れた親友たちと一緒に現実世界に背を向けてからは尚更だ。今の自分は、だらだらと消費に生きる一市民に過ぎない。
タイマがそんな考えでいることも知らず、自信たっぷりな様子のリューに、タイマは次第にいらだちを感じてきた。
「つまり、英雄である俺を立てれば大衆がついてくると、俺にはそういう影響力があると言いたいのか?」
「全くもってその通りだ。ただし、さしあたっておまえに説得してもらうのは国連会議に出席する各国の首脳たちだ」
「だから、何度も言うように、俺には無理だって。だいたいおまえは俺を過大評価している。この際言っておくが、核兵器を捨てろだなんて演説したのも、お偉方に上から目線で接せる滅多にないチャンスなのだから少し説教してやろうなんて稚気でやったことで、実現されたのは奇跡みたいなものなんだ。二度目の奇跡はない」
「いや、二度目だからこそおまえの成功は確実なんだ」リューの確信に満ちた態度は、タイマ本人の否定によっても少しも揺らぎはしなかったようだ。「さっき、延齢処置を恒常的に受けられるのは十%程度だと言ったのを覚えているな。国連会議に出席するような連中が、十%に含まれていないと思うか? 言っておくが、かつておまえの演説を耳にした連中のうちの多くは、いまだに国家首脳の座に残っているんだ」
「とんでもない独裁政治じゃねーか」
タイマが目を丸くして指摘すると、リューは一瞬決まり悪げな顔をしたが、結局「そんなことは今はどうでもいい」と吐き捨てた。
「ともかくだ。そんな連中が、六十七年ぶりに帰還した伝説の英雄の演説を一笑に付すなんてことがあると思うか? つまり、そういうことなんだ」
ふむ、とタイマは考え込んだ。リューの言うことには納得できる部分もある。あのときと同じ顔ぶれの政治家が今も多く残っているという彼の言葉が正しければ、現在もなおタイマには現実世界における発言力が残っていたとしても、確かに不思議ではない。しかし、そう思うからこそ、タイマは自分を頼りにしてこんなところにまでやってきたリューに対して哀れみの念を禁じ得なかった。Pネットの中でそれができるものならば、ひょっとすると落涙していたかもしれない。
「リュー、おまえはひょっとしなくても知らないんだな。いったんPネットに入ったら、もう二度と出られはしないんだ」
リューはそんな無慈悲な告知を聞いても顔色ひとつ変えなかった。それどころか、くすくす笑い始めた。
「バカさ加減は変わっていないな。俺が何のためにDゲートを一切使わずに何十年も過ごしてきたと思っている? それくらい知っているさ。それでも今日、あえてここへ来たのは、おまえを現実世界に連れ出せるあてができたからだ」
「そんなことは無理だ。PDAのDゲートを呼び出すアイコンは四十一年前のあの日にグレーアウトして、それ以来一人も現実世界に戻った者はいない」
「そうか。それで、おまえは現実世界に戻ろうとどれだけ努力した?」
痛いところを突かれた。現実世界に戻れないなんて、よく考えれば大問題だ。だが、タイマを含む一般人たちは、そのうちPDAコーポレーションが対策を取るだろう、などと期待して、とくに行動を起こしはしなかった。PDAコーポレーションには対策を取る気などはなっからないということを皆が悟った頃になっても、状況は変わらなかった。醜悪な些事にまみれた現実世界に戻るより、Pネットで何不自由ない暮らしを送る方が遙かに幸福であるということに、その頃までには誰もが気付いていたからだ。
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