第88話 脅迫

 男が指定した路地裏に来るとムスタクはすでに待っていた。男はこの商人が前に見たときより痩せていると思った。食事が喉を通らないのだろう。まあ無理もない。


「約束通り来たな」


 ムスタクの顔は青ざめている。


「娘は無事なんだろうな!?」


「安心しろ。ピンピンしているさ」


「会わせてくれ」


 商人の目は充血し、呼吸は荒い。


「あっちを見ろ」


 川を挟んだ反対側に別の男がいる。子供が反対側を向いて立っている。男が子供に何か耳打ちしている。子供がゆっくりとこちら側に振り返る。


「ああ! デイジ!」


 ムスタクは今にも泣きそうだ。


「大声出すんじゃねえ」


 娘のほうも声を出さないように言われているはずだ。黙ったまま父親をみている。その顔は恐怖と緊張で固まり、体は小さく震えている。男が顎をしゃくると、それを合図に子供が連れていかれる。


「ああ! 連れていかないでくれ! 話をさせてくれ!」


「だめだ! 娘が無事なのはわかっただろう。仕事を果たしたら傷つけず返してやる」


 男が小さな薬瓶を取り出す。


「これだ。これを葡萄酒に混ぜて国母に飲ませろ」


 男が毒薬をムスタクに差し出す。


「わかっているな? もし明後日まで国母が生きていたら、お前の子を殺すぞ」


 ムスタクは震える手で毒薬を受け取る。


「これはお前にとっても悪い話じゃないんだ。うまくやればオゾマ様は必ず報いて下さる。オゾマ様の世になればお前は閣下の庇護を受けタナティアで一番の商人になれるさ。安心しろ。この毒は遅効性だ。半日経ってから効果があらわれる。葡萄酒が原因だと特定することはできないさ。お前が疑われる心配はない」


***


 ムスタクの屋敷の厨房で、瀟洒なゴブレットに葡萄酒が注がれる。ムスタクは人目を盗んで葡萄酒に薬を混ぜた。そして召使いに命じてノイエダに運ばせた。ムスタクは後ろからついていく。いま、国母に毒見役がいないのは知っている。


 葡萄酒が運ばれてくる。部屋には国母とジェイエン、数人の護衛を務める兵士がいる。ムスタクがノイエダに声を掛ける。


「国母様、葡萄酒をお持ちしました」


 声が震えたが、ノイエダに気にする様子はなく、「ありがとう」と召使いからゴブレットを受け取る。そして葡萄酒を口に含み、飲み込んだ。


 しばらくして国母がせき込み出した。はじめは誰も気に留めなかったが、せきが激しくなると、ジェイエンが「大丈夫ですか、国母様」と背中をさする。


 だがせきはさらに酷くなり、国母はうめき声をあげて倒れた。部屋の中は大騒ぎになり、侍医が呼ばれてくる。侍医が国母を介抱する。ジェイエンがうろたえた様子で事態を見守っている。


「おそらく毒です。この葡萄酒に毒が含まれていたのでしょう。治療しますので、全員、部屋から出てください」


 侍医に促されて、国母と侍医を残して廊下に出た。憔悴した様子のジェイエンが口を開く。


「あの葡萄酒を用意した者と運んだ者は誰だ?」


 召使いが答える。


「運んだのは私です。……用意されたのはムスタク様です」

 

 ムスタクは何も言葉を発せず呆然とした様子で立ちつくしていた。


「ムスタク……まさかとは思うが……この召使いとムスタクを拘束せよ」


 ジェイエンが命じ、ムスタクと召使いは若者に拘束され、連れていかれた。


 若者たちが噂する。


――きっとオゾマのしわざだ


――この場所に国母様が匿われていることがばれていたんだ


 部屋の中では侍医が国母の治療にあたっているはずだ。ユージンは気が気でなく、うろうろと歩きまわっていた。侍医が出てくる。そして首を横に振った。


「即効性の強力な毒です。すでに手の施しようがありませんでした」


 ユージンたちは崩れ落ちた。ジェイエンがうなだれる。


***


 ユージンにノイエダが死んだことを教えられると、ムスタクは消え入りそうな声でぽつりぽつりと話した。


「召使いは関係ありません。酒を運んだだけで、何も知らないのです。彼女は解放してやってください。私が毒を入れたのです」


 ユージンはジェイエンの古い友人であるムスタクがこんなことをすることが信じ難かった。


「誰の指図だったのだ?」


 ユージンが商人に問うが、それには黙ったまま答えない。そこへ別の若者がやってきてムスタクに告げる。


「お前の娘、デイジの遺体が街はずれで発見されたそうだ。お前のやったことと何か関係があるのか?」


 ムスタクはこれには大きな衝撃を受けたようで、愕然とし、うなだれた。そしてしばらくして、虚ろな目をしながら話しはじめた。


「数日前、娘が誘拐され、人質に取られました。誘拐した男はオゾマの指図で動いていると言っていました。娘を殺すと脅され、国母様の葡萄酒に毒を入れるように言われました」


「やはりオゾマか」


「私は言われた通り毒を葡萄酒に入れました。遅効性の毒であり、私の仕業だとはばれないと言われていましたが、嘘だったようです」


 ムスタクは涙声になりながら訴えた。


「連中は私を騙し、そして娘の命も奪ったのです! 私は処刑されてかまいません。ですから、必ず首謀者も罰してください」

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