第73話 暗雲


「毛玉っ!クララを見ていないかっ!?」


 獣はクララを探していた。約束していた筈の朝の鍛錬にやって来なかったからだ。


「銀狼の獣か、遅かったな」


 老人はパイプで紫煙を燻らせていた。


「ぐおっ、なんだこの煙は……!いや、何か知っているのか!」


「パイプも知らぬか……ああ、そうか……この時代には無かったな……確か」


「そんな話は聞いていない!」


「小娘供は昨晩の内に、帝国へ向かった。置き手紙もあるぞ」


 獣に手渡したのは短い文章が書かれた紙切れ。


"作戦の為、帝国へ向かう。開戦は予定通りに。あと毛玉の本体よ、代役は任せるので万事よろしく。獣よ、手出し無用だからな"


「これだけか?」


「そのようだ。しかし、我に名指しで面倒ごとを押しつけるとは、身の程知らずにも程がある……む、なんだどうした?」


「同じ轍を踏む訳には……今からまだ間に合うか……?」


 焦点も定まらないままに、出て行こうとする獣。


「……なあ、いつまでも手元に置いておけるものでもあるまいよ」


「そう言う話をしているのではない!」


「落ち着けよ小僧。そんなにアイツらが信用できないか?ええ?」


 老人は紳士然とした体勢を崩した。


「な、何だ急に……?」


「いつも通り、馬鹿のような口調が良いのか?」


「いや、分かりやすくていい。ボケ老人を相手にするよりかは、な」


「それは結構。体裁ってモノがあるからな」


「何でもいい、なにが言いたい」


「何処までも守ってやるのが保護者の役目ではないだろうよ」


「だが……」


「信じろ、あの小娘を。離れて見守るのも時として必要だ……何故、人ならざる我が、人の理を語らねばならんのだ、馬鹿馬鹿しい……それにな」


「なんだ?」


「民を騙して先導するような役、あの馬鹿正直な娘にできる訳なかろう?それを含めて我の出番という訳だ」


 老人は液体のように溶ける。


「──頼むぞ?"獣さん"よ?」


 そして、クララと瓜二つの姿に変わった。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 濁りきった風が吹く。


 曇天の空、そして瘴気は帝国の中心へ近くなるほどに濃さを増していく。


 行く道は不気味なくらいに静かだった。


「……で、毎日剣を振り回して終わったと言うのであってるかの?」


 腕を組んだアトラは呆れたような顔をした。


「そうです!少し強くなった気がしますよ!」


「……だめだこいつ……早くなんとかしないと……」


「何がダメだったんですか?」


「獣の奴を誘うと言って、わざわざどこに行ったらいいか聞いてきたのは誰かの?」


「や、その……それはですね」


「はぁー、また手引きが必要か?」


「それに……あまり思い出を増やし過ぎても……後が辛くなるでしょう?」


「この馬鹿者。シャレにならん言い訳を使いおって。しかし、もう良いのか?」


 アトラは少し俯く。


「……はい。約束なんてしたら、縁起が悪いでしょう?だから、全部終わった時でいいんです」


 こうする他ないのだから、私はそうするだけだ。


「はぁー、そこはだな、必要以上になんか言っておけば反転していい感じになるものなのだぞ?」


「本当ですかそれ?」


「なんなら今、言っておくか?余はこの戦争が終わったらパインケーキを山ほど焼いてだな……知り合いの結婚式に出て、ああ、そうだ。余の髪留めをクララに渡して、ついでにこの特性の剣の鞘をくれてやろう」


「えぇ……?」


「その鞘は魔力の通りを良くした一品で、魔術の負担も減るという優れもの。髪留めは……まあ大したものではない、こんなものかの。ここまで積み上げれば、余は間違いなく生き残るだろう」


「……仕方ないので、信じてあげましょう」


「安心しろ余の作戦は完璧だからの!」


 何故か妙に機嫌が良さそうに笑うアトラ。


 その一言が、一番縁起が悪いとは流石に言えなかった。

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