第8話 癒し系主婦が、始めて包丁を握った日
温室育ちのお嬢様だ。箱入り娘として、何不自由なく育てられた。
大学の文学部で今の夫と知り合い、親が決めた婚約者を捨ててこの街へ。
けれど文章への愛が捨てきれず、ライターを副業にした。
「この副業はね、お料理の練習も兼ねてたの。小説だと、どんなにおいしそうなお料理が出てきても、イメージしかできないでしょ? だから視覚化できる実用的なお仕事を探して、ムリヤリ練習したんだぁ」
毎週届く食材を、強引に料理する。
そうして、若き頃の多喜子さんは、料理の腕を磨いたのだ。
夫に喜んでもらうため。
「最初は変なお料理作って、困らせたなー。何だったと思う?」
「なんだろう? フォアグラとか?」
元お嬢様だったら、ありえそうだ。
「クマさんの手」
カレーを盛大に吹き出す。
多喜子さんが包丁で、クマの手と格闘する姿を想像するだけでもう笑いが止まらない。
「ヤバいウケル」
「煮込みにするらしくて、画像見るとおいしそうだったの! でも、ダメだった。これは作れないやーって悟って」
なんとか作れたが、イメージしていた味とかけ離れていた。
「そうして無難なお料理からやり直して、今に至ります」
素人のアレンジ料理は、食えた物ではない。
その言葉は、多喜子さんの自戒によるモノだった。
癒やし系主婦の意外な過去を知り、葉那はますます惚れ直してしまう。
「すっごい。かなわないや」
だからこそ、好きなのだが。
「それだけ、自立したかったの。誰の手も借りず、二人でさ、幸せになりたかったんだよね」
多喜子さんが、二杯目のカレーを平らげる。
「けどさ、葉那ちゃんが現れて、ああ、わたしって一人ぼっちじゃないんだって思えた。すごく救われた」
「私が、多喜子さんを助けていた?」
「はじめてわたしたちがこの街に来たとき、すぐに駆けつけてくれたよね?」
「ああ、迷ってたっぽいから、道案内をしましたね?」
下校中、同じ所をウロウロしている車を発見し、道を教えたのである。
それが、多喜子さんとの出会い。
「そうそう! それでピンときたんだ! あなたとは、仲良くなれるって!」
若い夫婦は、人目を避けて生活しようと考えていたのだとか。
が、葉那と出会って、そんな気持ちを改めたと。
「葉那ちゃんを見てるとさ、世界はなにも、わたしたち二人だけで回ってるんじゃない。意地を張らなくていいんだって、やっと気づいた。ありがとう、葉那ちゃん。わたし、ようやくさ、人の助けを借りられるよ」
多喜子さんから贈られる、感謝の言葉を、葉那は素直に飲み込めずにいた。
水という形で、感情が頬を伝う。
「どうしたの、葉那ちゃん?」
「いえ、その。うれしくて」
「わたし、あそこまで人に頼ったの、葉那ちゃんくらいだよ。なんか、甘えちゃって悪いなーって思ってたの。それで、愛想を尽かされたのかなって思ってたから」
「とんでもありません。いつでも頼ってください!」
胸にドンと手を当てて、葉那が席を立つ。
「ありがと、葉那ちゃん。さ、食べよっか」
「まだ食べるんですか?」
一杯目だけでも結構、腹がいっぱいだが。
多喜子さんのスマホが鳴る。
「あ、ゴメン電話……お母さん!?」
心臓が締め付けられる気持ちになった。
こんな所まで探し当てたんだ。
「どうしてここが……いいからニュースを見ろですって? 何を言って」
多喜子さんが、電話の相手と軽く言い争いをしている。
あまり居心地のいい風景ではなかった。
葉那は断りを入れて、テレビの電源を入れる。
痩せこけた長身の男が、警察に連行されている映像だった。
「あ、この人」
この男が、多喜子さんの元婚約者だったらしい。
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