第三話 ハイジ、犬を連れ出す
わたしが真正面からタロの無理筋を叩きのめしたことで、タロは完全に意気消沈してしまった。ちょっと言い過ぎたかな。でも、タロがもしわたしの立場だったら、きっと同じことを言うと思うよ。
さあ、一番大事な提案を切り出そう。タイミングを外してタロにわたしの作戦を見破られると、本当にここを出られなくなる。そしたら一巻の終わりだ。タロの鼻先にぐっと顔を突き出して、視線をがっつり捕まえる。
「ねえ、タロ」
「ああ」
「ここにいる限りタロは神様で、神様としてしか振る舞えない。そうでしょ?」
「……ああ」
「じゃあ、ここを出ない?」
わたしの提言は、タロにとっては驚天動地だったみたい。真後ろに飛び退った。
「そ、そんな……」
「いい? わたしはここに閉じ込められている限り、タロの求婚は絶対に受け入れないよ。逃げられないようにして一方的に迫るのは龍神と全く同じじゃん。冗談じゃない!」
「う……うう」
「でもね、ここを出てわたしにきっちり男らしいところを見せてくれるなら、前向きに考えてもいい」
タロは真っ青になった。神家を出たら、神様としての力は二度と使えなくなるのかもしれない。でも神家の中に居続ければ、わたしみたいな女と出会えるチャンスはもうないと思う。究極の二択だろなあ。固唾を飲んで見守っていたら、じっと考え込んでいたタロが勢いよく顔を上げた。
「わかった。ここを出る。ノリについていく」
まあ、なんと申しますか。桃太郎にきびだんごで釣られたわんこみたいだ。でも、タロに大きな決断をさせることになる。わたしもいい加減には考えたくない。
「じゃあ、行動しよう。もうすぐわたしを乗せてくれた漁師さんたちが応援の船を連れて戻ってくると思うから、わたしを岩礁の外に出して」
「俺は?」
「わたしが偶然遭難者を見つけて救助してたっていう話をでっち上げる。実際、状況はそれに近いと思うよ」
「ふむ……」
「タロは記憶喪失ってことにする。覚えてるのは自分の名前だけね。名前は、さっきの代称をそのまま苗字ってことにしよう。犬神家太郎ね」
「うむ。悪くないな」
タロにとって、神格を表す苗字が使えるのはまんざらでもないらしい。
「問題は衣装と髪型だなあ。遭難者を装うにはその古風な格好がどうにも……」
「ああ、それならなんとかなる」
そう言って、タロが突然姿を消した。
「げ……」
やっぱり、ぞっとしちゃう。ちんけな端神だって言っても、やっぱり神様なんだなあって。
再びタロが現れた時には、薄汚れたボーダー柄のシャツと色が褪せたライトブルーのマリンパンツっていう姿になってた。さっきまでだぼだぼの服に隠れていた手足がはっきり見える。筋肉質ではないけど、すらっとしてスタイルがいいなあ。両側に結い上げていた長い髪を下ろして、後ろで束ねてる。ぱっと見には、ちゃらそうなサーファーのイメージだ。波の穏やかな瀬戸内にはそぐわないけどね。でも、わたしの想定以上にかっこいい。これで犬っぽい神様じゃなければ、即オチしちゃうかも。とりあえず、タロの気分をしっかり盛り上げておこう。
「わあお! すっごい似合うじゃん」
「うむ」
タロがにやけ顔で照れてる。もしわんこの姿だったら、ぱたぱた尻尾を振ってるんじゃないかな。
「ねえ、その服どこから手に入れたの?」
「海流の関係で、いろいろ流れ着くんだ」
「そうかあ。遭難者ならぬ遭難物ってわけね」
「こんな上等なものを放るとはな。なんとも勿体ないことだ」
わたしたちの消費社会をちくっと皮肉ったタロ。わたしは反論できなくて、思わず苦笑いしちゃった。さて。あとはさっきでっち上げたシナリオを、わたしとタロとの間できちんとすり合わせておかないと。
「タロ。間違ってもみんなの前で神様面したらだめだよ。もしぼろを出しちゃったら、わたしもタロもすっごいしんどくなる。記憶喪失になった遭難者……わたしは徹底的にその台本に沿って押すから」
「わかった」
実際ここでの記憶がいくらあっても、わたしたちのところでは一切通用しないだろう。本当に記憶喪失みたいなものなんだ。そこはあまり心配しなくても済むんじゃないかな。ダイバーウオッチを見て、時間を確認する。もうすぐ一時間経過。そろそろ船が戻って来るはずだ。岩礁の外をじっと見ていたら、複数の船影が近づいてきた。
「船が着いてから外に出たら、怪しまれちゃう。今のうちに出よう」
「……ああ」
まだどこかに気後れがあったんだろう。俯いていたまま数秒間固まっていたタロは、何かを思い切るようにしてさっと右手を上げた。
「あっ」
次の瞬間、わたしは船から転げ落ちたあたりにぷかぷか浮かんでいた。岩礁の内から外へ。それはほんの小さな景色の変化にすぎない。でも、わたしを取り巻く世界が劇的に変化したのは間違いなかった。
タロは……ふりではなく本当に気を失っていた。タロの頭が水中に沈まないよう必死に支えながら、わたしは船に向かって思い切り手を振った。
「おーいっ! おおーいっ! こっちーっ!」
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