第7話 狼の系譜は受け継がれる
言うまでもないが、アントニウスの立場はローマの将軍である。当然、ローマの国益を守る義務がある。
だが、この男はそれを全く無視しているかのようだった。
クレオパトラとの結婚にあたり、アントニウスはオリエント諸地方の統治権を彼女に譲渡すると宣言したのだ。これは将軍の持つ権限を大きく逸脱しているのは言うまでもない。
それでなくとも、貞淑な妻オクタヴィアを捨て、異国の女を選んだと非難されているところへ、この暴挙だ。ローマ元老院のみならず、市民からも激しい非難の声が巻き起こったのも当然である。
「アントニウスの公的な地位を全て剥奪する」
ガイウスの提案は元老院の全会一致で認められ、アントニウスは一私人に貶された。
替わってローマの
ガイウスは厳粛な表情でその命令を受けた。
☆
どうやら妊娠したらしい、とオクタヴィアから告げられたガイウスとアグリッパは対照的な反応を見せた。
「そ、そそ、それは俺との子ですよね。ね、ね」
「落ち着けアグリッパ。その頃は、お前はずっと僕と一緒に戦場にいただろ」
う、ううー、と泣き顔で呻くアグリッパ。
「おめでとうございます、姉さん」
ガイウスはそう言うと、すっと目を伏せた。
ふと、その表情に違和感を覚えたアグリッパは、もう一度、彼の顔に目をやった。だがその穏やかな表情には、先程感じた翳りはもうどこにも無かった。
彼らは一緒に夕食を摂り、そのままオクタヴィアの邸に泊まることになった。
(あの冷たい目だ)
深更、アグリッパはその違和感の正体に気付いた。戦場においてさえガイウスが見せた事のない冷酷な視線。それをガイウスは姉のオクタヴィアに向けていたのだ。
月明かりで室内は明るい。寝台から降りた彼はマントを羽織り、腰のベルトにローマ伝統の
オクタヴィアの寝室の前まで来ると、その場に座る。
それから間もなくだった。近付いてくる人影に、アグリッパは顔をあげた。
「何しに来た、ガイウス」
「きっと君がいるだろうと思ってね」
蒼白い月光に照らされたガイウスは端正な顔で微かに笑った。
「アントニウスの子供だからか」
抑えた声でアグリッパは訊く。
「違うね。狼の子供かもしれないからさ」
「狼の……?」
アグリッパにはガイウスの言う意味が分からない。
「心配するな。僕だって姉さんを手に掛けようとは思っていない」
だから、とガイウスはアグリッパを見た。
「君に頼みがある」
「生れてくる子が女ならいいが、男の子なら……君が殺してくれないか」
ガイウスは静かな口調で言った。
☆
アントニウスはローマでの風評など気にも留めず、パルティア遠征を企てる。
クラッススが惨敗を喫し、カエサルさえ果たせなかったこの戦役を成功させ、再びローマの第一人者に返り咲く事を、彼は疑っていなかった。
アントニウスが率いてきたローマ軍団兵は殆どが彼のもとを去っていた。総司令官の余りの愚劣さに愛想を尽かしたというのが本当であろう。
だが、長年ともに戦ってきた直属の兵たちは、まだその多くが残っている。
今回はそのアントニウス親衛軍に、エジプト軍を加えた大軍でパルティアに侵攻するのだった。
「必ず、勝つ。そうすれば、お前は東方世界の女王だ」
アントニウスはクレオパトラを抱き、耳元にささやいた。
「ええ。二人で世界を統べましょう」
結果的には今回のパルティア遠征も失敗に終わった。
序盤こそ兵力差に物を言わせ圧倒したアントニウス軍だったが、砂漠地帯に深入りしたところで逆襲に遭ったのだ。
ローマ式重装歩兵軍団は、パルティアの騎馬弓兵の波状攻撃の前に、なす術なく討ち減らされていった。
さらに、後方を襲われ兵糧を奪われたことで、決定的に継戦能力を失ったアントニウス軍は撤退するほかなかった。
「姉上。あんな穀潰しなど放り出しましょう!」
今日もまた、プトレマイオス少年王は激怒している。
パルティアから敗走してきたアントニウスは、それからずっと宮廷にこもって酒ばかり飲んでいる。
「何ですかあれは。ブクブクに太って、ほとんど豚じゃないですか」
連日、美食と酒に溺れるアントニウスに、ローマの勇将の面影は残っていなかった。
ただ無様に寄食するだけの彼をプトレマイオスは厳しく指弾した。
「だけど、どこか放っておけないのよねー」
クレオパトラは優しい目で、寝そべりながら料理を頬張る男を見遣る。
「やっぱり、あれかな。出来が悪い子ほど可愛いっていう……」
図らずもオクタヴィアと同じ台詞だった。
どこか母性本能をくすぐる男だったのかもしれない。
☆
ガイウスはアグリッパを自分の部屋に招き入れた。
「ローマという国が、オオカミに育てられたロムルスによって始まったのは知っているだろう?」
国民に膾炙しているローマ建国伝説だ。もちろんアグリッパも知っている。
「では、その王となる者には、オオカミの紋章が顕れるというのも知っているか」
「知らない。紋章だと?」
ガイウスは頷くと、いきなり
「ちょつと、何をするんだ。ガイウス?」
アグリッパは、お尻丸出しになったガイウスから目を背ける。
「俺は、男の尻なんか見たくないぞ。いや、でもしかし……」
もしかしたら、オクタヴィアさんのお尻もこんな感じなのかも。アグリッパは思わず心がときめいた。
「おいアグリッパ。何を考えている」
「え? いや、きれいなお尻だなぁ、と」
「違う。見て欲しいのはもっと上だ」
おおう、アグリッパは声をあげた。
腰と背中の境あたりに、青白く光る三角形の紋章が浮かび上がっていた。
「これがその紋章なのか、ガイウス」
「ああ。姉さんから分け与えられたものだ」
「どうやって」
その質問には、ガイウスは口をつぐんだ。
「……つまり、姉さんの産んだ子が王の紋章を持っていたら困るんだ。僕の後継ぎになる可能性もあるけれど。それにしても、あの男の息子では、ね」
「だから殺せというのか」
ガイウスは黙って頷いた。
オクタヴィアに男子が生まれたという記録は残っていない。ただ、二人の女児を生んだ事だけが史書には残されている。二人はアントニウスの娘ということで、どちらもアントニアと呼ばれた。
後の事になるが、妹の小アントニアの系統からは三代目ローマ皇帝カリグラと四代目皇帝クラウディウス、姉の大アントニアの系統からは五代目皇帝になったネロが出ている。
やはり人狼の系譜は受け継がれたというべきだろう。
☆
ガイウスは高らかにエジプト進攻を宣言した。
迎え撃つエジプト王国は、ローマ軍を上回る大軍を招集し、いち早くギリシャへ軍を進めローマ軍を待ち受けているとの情報が入ってきた。
ガイウスはアグリッパと共に海軍を率いて進発する。
まずは海戦でエジプト軍を叩き、その後に陸戦で決着をつける計画だった。立案したのはもちろんアグリッパである。
「よし。いいだろう。任せるよ、アグリッパ」
結局ガイウスが行ったのは、アグリッパの作戦計画を承認することだけだった。
「じゃあ、僕は体調が悪いから」
青い顔でそう言うと、また船室に戻って行く。どうやら今度は本当らしい。仔猫ちゃんも連れ込んでいないようだ。
まあ、下手に口出しされるよりはいいのだけれども。
アグリッパは肩をすくめた。
こうして、ギリシャ北西部のアクティウム沖において、ローマ、ギリシャの両海軍は激突することになる。
後の世にいう『アクティウムの海戦』の火蓋がきられたのである。
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