沙希と離れて十二年、そして
結婚したといっても、生活が大きく変わるわけではなかった。住まいを変えるでもなく、仕事も続けることにしたのだから、当たり前といえば当たり前だ。めぼしい変化は、苗字が井口から
より大きな変化は、沙希との交流を絶ったことだった。おかげで、彼氏がどうとか単位がどうとかいう長電話に時間を取られることはなくなったし、話の途中で差し挟まれる高飛車な態度をやり過ごす必要もなくなった。結果としてはとても楽になって、こんなに楽になるならもっと早く沙希と縁を切っておくんだった、と思った。
母と電話で話すことがあっても、沙希のことは話題にのぼらない。単にあれっきり沙希からの連絡がないのか、それとも私に気を遣って触れないようにしているだけか。どちらなのか知らないが、別に知りたくもなかった。沙希は沙希で、勝手に生きればいいのだ――私に迷惑が掛からない範囲で。
夫婦仲は良好だった。これまで通り、時には私から仕掛けて夫婦喧嘩が勃発することはあるが、長引かず、深刻な事態にも至らず解決する。沙希と縁を切ったことで精神状態が安定したのか、喧嘩を仕掛けること自体、結婚前よりはずっと少なくなった。
唯一にして最大の問題、それは――子供ができないことだった。
正確にいうと、子供はできる――妊娠はする――のだが、お腹の中で育たないのだ。いわゆる子づくりを解禁してから二年足らずの間に三度、流産した。初めて妊娠した時は嬉しくて、心拍が確認できてすぐに母子手帳をもらいに行ったが、その次の健診で赤ちゃんの心臓がもう動いていないと言われて、処置を受けた。
その経験はつらくなかったといえば嘘になるが、こういうのはよくあることで、誰もが一回は経験することだから、と極力軽く考えてやりすごした。しかし、二度三度と同じくらいの週数、同じような状況で赤ちゃんが駄目になってしまうことが続くと、そんな余裕は消え失せた。「流産 繰り返す」といったキーワードでネット検索をして、何度も流産する理由や取りうる治療法について調べたが、いろいろ試した挙句、子供は絶対に望めないとわかったらもう立ち直れないのではないかと恐ろしくて、専門外来を受診することはできなかった。
私も諒太も、子供に関しては「自然に任せて、できなかったらそれはそれでいいんじゃない」という感じで、どうしてもほしいとは考えていなかったが、いざ「子供ができない」という状態に置かれてみるとなんとしても子供をこの手に抱きたくなってきてしまって、どうしようもなかった。きっとどこかで、いつか子供はできるもの、いつか母親になるものと決め込んでいたのだ。
「ウチは苗字が珍しいっていうだけで、別に継ぐようなものがあるような珍しい家じゃあないのよ」
結婚前、諒太の「彼女」として初めて訪問した頃から、義母はそんなことを折に触れて言って笑うが、そうはいっても纐纈家の墓というものはあるわけだし、私が子供を産むことをきっと期待しているのだろうに、私はそれに応えられない。その事実も、苦しかった。
諒太は私に子供ができなくても構わないとしても、結婚している以上、二人がそれでよければよいという問題でもない。義両親は口には出さないだけで、私たち夫婦のところに子供が生まれるのを今か今かと待ちわびているに違いないのだ。嫁いだ義姉のところには子供が二人いるが、きっとそれだけでは駄目で、娘夫婦には孫ができたから次は息子夫婦の番、と考えているに決まっている――いくら諒太に宥められても、こういったことをぐるぐると考え始めてしまうと、もう駄目だった。
そして、思い出すのだ。
沙希は三回、子供を堕ろしたのだ――と。
陳腐な表現になるが、本当にほしい人のもとには子供は生まれてこない。一方で、何度も妊娠しては、できた子を簡単に処分してしまう女もいる――沙希みたいに。
連絡が途絶えていてよかった。私はきっと、自分に子供ができないことに思い悩むあまり、入籍を知らせた時の沙希と同じようなことを、沙希に言ってしまっただろうから。
「私は二年で三回も流産したのに、あんたはできては堕ろして。一体何なの? どうして子供が要らないあんたが何度も妊娠するの? 要らないならその子ちょうだいよっ!」
――さしずめ、こんなふうに。
もちろん、私に子供ができないことと沙希が何度も妊娠したことの間には何の関係もないし、よしんば沙希が自分にできた子を産んで譲ってくれたとしても、そんなものが自分の子の代わりになろうはずもない。そう、理屈の上では認識していても、頭に血が上ってしまったら、理屈なんか吹っ飛んでひどい言葉で沙希を詰ってしまうかもしれない。そんなふうに想像すると、ますます、沙希と縁を切っていてよかったと思う。同時に私が入籍すると知らせた時の沙希も、わかっていたけどつい言ってしまったのかな、とも想像して、少しだけ――本当に少しだけだが、あの時の私はちょっと怒りすぎたかもしれないな、なんて後悔してみたりもした。だからといって、自分から声を掛けて仲直りしようなどとは思わないが。
諒太が根回しでもしたのだろうか、義両親をはじめとする彼の家族に子供の予定について尋ねられることはなかった。気を遣わせていると思うと申し訳ない気もしたが、外野からああだこうだ言われることのない身の上は気楽でもあり、三十歳を過ぎる頃には、こうなったら子供のいない夫婦二人だけの人生を思う存分楽しもう――と、気持ちを切り替えることができた。
食べ歩きとか旅行とか、子連れではなかなかしにくくてちょっとお金の掛かることを二人で楽しみ、その様子をブログにアップするとそれなりに反響があり、面白かった。SNSを通して、交流が途絶えていた友人知人と改めてつながることもできた。帯広の獣医学部に進学したっきり、ろくに帰省せず連絡も寄越さなかった滝口とは、SNSがなければずっと没交渉だったことだろう。
インターネットのコミュニティで遊んでいて、ふと思い立って沙希のフルネームで検索してみることもたまにあったが、実名登録を推奨するFacebookにも、その他のSNSにも、沙希のものらしいページは見付からなかった。沙希の使いそうなハンドルネームの見当なんか付かなくて、実名でSNSをやっていないのならばお手上げだった。
どうせ今回も見付からないとわかっていてもネット検索で沙希の居所を探してしまうことは年に二、三回はあって、そんなことをしている自分が、自分でもちょっと気持ち悪かった。沙希のことが気になるなら、母に訊けばよい。そうする方がずっと簡単だし確実なのにこっそり沙希の居場所を探ろうとするなんて陰湿だしどこか屈折している――そう思うのに、検索するのをやめることは、できなかった。
どこかで沙希のことを気に掛けながら、それでも連絡を取ろうとまでは思いきれずにいるうちに、結婚十二周年を迎えた。私たちは二月二十九日に入籍したから、結婚記念日といえる日は四年に一度しか来ない。だから、十二周年といういささか中途半端な節目の年を、強く意識することにする。
結婚十二周年ということはつまり、沙希と縁を切ってから十二年が経ったということだ。あの時抱いた強い怒りは色褪せていて、もういいかな――という気分だった。十二年も経っているのだから沙希だって変わっているかもしれない、とも思った。
でも、私から連絡を取るにしても今更だし、連絡を取ったところで何を話せばよいのだろう。あの時は怒りすぎてごめん――とでも、切り出せばよいのだろうか。いくら考えても、沙希と自然に話せる気がしなかった。連絡を絶った期間が、長すぎたのだ。
どうしよう。もう一生このままなのかな。
そんな漠然とした悩みを一人で抱えているうちに季節は一巡し、冬が来た。
そして迎えた十二月、札幌の不動産屋の店舗で大規模な爆発が起こったというニュースが大きく報じられた。原因は不明で死者が出ている模様だが詳しい状況はわからないという段階で、父から連絡があった。
「お前、札幌の事故のニュース知ってるな。あの現場には、沙希がいて――」
その知らせを聞いた時、どう受け答えをしたのか覚えていない。諒太にどう説明したのかも。わかったのは、沙希とはもう二度と話せないということ。それだけだった。
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