16~17 Side 蒼樹 01話
秋斗先輩と森林浴から帰ってきた翠葉は、どう見ても様子がおかしかった。
いつもなら、楽しかったことや嬉しかったことをすぐに話してくれる。寝る時間になっても、「あのね、それでね」と全部話し終えるまでは目をキラキラさせながら話すのがいつものこと。
けど、昨日に限ってそれがなかった。
十二時間以上の外出に疲れているだけかとも思ったけれど、洋服も着替えずにベッドに横になるなんて、翠葉らしくない。
いつもなら、せめてルームウェアには着替える。
心配になって、何かあったのかと訊いてみたけど、答えは得られなかった。
――「何があったのか、どうしたのか、わからないの……。だから、何も話せない」。
そう、困惑した顔で口にした。
無理に聞き出すものじゃない――
以前、湊さんに言われた言葉を思い出し、それ以上は追求しなかった。
森林浴へ行って心行くまで写真を撮ってきたはずだし、帰りはウィステリアホテルで特注のディナーを食べてきたはず。
そのあたりで、先輩が何かとちるようなことはないと思う。
気になるのは、八時過ぎに突如頻拍し始めた翠葉の脈――
それだけがひどく引っかかる。
電話をかけようか悩んでいたら秋斗先輩から連絡があり、帰りが少し遅くなると言われた。
間違いなく、「何か」はあったのだろう。
それが何であるのかはわからない。
まさか、秋斗先輩が翠葉に手を出したとは思いたくないが、否定しきれるわけでもない。
翠葉のあの顔――明らかに許容量を越えた出来事があったはず。
「何があった……?」
翠葉のことが気がかりで、なかなか寝付けなかった。
ベッドに横になり、スマホを見ては天井を見る、の繰り返し。
けど、それでよかったと思う。
翠葉の熱が急に上がり始め、一時間と経たないうちに三十九度を突破した。
様子を見にいけば、帰ってきた服装のまま、布団にも入らずベッドに横になっていた。
体温以外に異常を示すものはなく、少しほっとする。
「知恵熱、かな……」
起こすのがかわいそうだったから、自分の部屋に戻って毛布を持って下りた。
五月という、比較的に気候が穏やかな季節でよかったと思う。
これが寒い季節だったら知恵熱に輪をかけて、風邪をひいていただろう。
毛布をかけ、熱い額に冷却シートを貼っても翠葉は起きない。
しばらく同じ部屋で様子を見ていたけれど、ちょっとやそっとのことでは起きそうになかったから、俺は自室へ戻ることにした。
時刻は四時を回っていた。
翠葉をひとりにするのは不安があるし、
「今日は、走りに行くのはやめておこう……」
少し仮眠をとって、栞さんが来たら大学へ行くか……。
片付けなくちゃいけないレポートもいくつかあるし、午後からは講義で抜けられなくなる。
昼休みには秋斗先輩を訪ねよう。
何があったのか、吐いてもらう――
高校へ向かうと、開校記念日ということもあり、人気は思ったよりも少なかった。今日来ているのは部活動がある生徒のみなのだろう。
図書室に入ると真っ直ぐ部屋の突き当たりまで進み、数々のセキュリティをパスする。
ドアを開けると、いつもと変わらず仕事をしている秋斗先輩がいた。
入り口左にあるカウンターでは、司もパソコンに向かっている。
黒いノートパソコンを使っているところを見ると、秋斗先輩の仕事を手伝っているのだろう。
開校記念日で休みだというのに、ご苦労なことだ。
「あれ? 蒼樹、こんな時間にどうしたの?」
不思議がられるのも当然のこと。
通常、俺は大学が終わったあとにしか顔を出さない。
「今日は来る予定じゃなかったんですけど、ちょっと気になることがありまして」
「何? 昨日のこと?」
すでに何を訊きにきたのかわかっているような口ぶりだ。
「えぇ……。願わくば、昨日何があったのかぜひともお聞かせ願いたい」
笑顔で返せば、秋斗先輩も笑顔を返してくる。
司も気になったのか、こちらを振り返った。
「でも、蒼樹がここに来たっていうことは、翠葉ちゃんが話してくれなかったってことでしょう? それを俺が話してもいいのかな?」
「……当人、あまりにもいっぱいいっぱいになってるもので」
「相変わらず過保護だな」
先輩は軽くあしらいつつ、
「理由はふたつあると思うけど……。俺が絡んでるほうだけ教えてやるよ」
ふたつのうち、ひとつ……?
「俺、翠葉ちゃんに告白したから。っていうか、お試しで付き合ってみないか提案中」
「「はっ!?」」
思わず口にした言葉が見事に司と重なる。
ふたりして顔を見合わせたものの、それどころではない。
「秋斗先輩、翠葉には手を出さないでくださいっ」
「秋兄が相手にしてきた女とは人種が違うだろっ!?」
司と俺が同じ意図のもと口にした言葉が面白かったのか、先輩はひとりくつくつと笑っている。
「秋兄っ!?」
俺よりも先に痺れを切らした司が、先輩にどういうことなのか話せとせっつく。
「安心していいよ。遊びのつもりはないから」
その一言をどう捉えたらいいのかがわからなかった。
真意が見えない。
先輩はいつだって核心めいたことには触れずに話す。だから、本気なのか冗談なのかが読み取れない。
厄介な――
「蒼樹、そんな怖い顔しなくていいよ。はい、これ。昨日解約してきた俺のスマホ。中、見るならどうぞ」
そう言って差し出されたスマホに飛びついたのは司だった。
「御園生さんは知ってるかわかりませんが、こっちのスマホは女の連絡先しか入ってないんです」
あぁ……確か、先輩はふたつのスマホを使い分けている。
ひとつは仕事回線と言っていた気がするけれど、もうひとつは女回線だったのか……。
げんなりとする俺の傍らで、
「秋兄、これ――」
「うん。もういらないから解約した。一応個人情報の宝庫だったから、端末は初期化してある」
「……本気、なんですか?」
「そのスマホ以外にどうやったらそれを証明できるかな? なんだったらこっちのノートも調べる?」
先輩が差し出したのは、プライベート用のノートパソコン。
学生のころから、プライベート用のノートパソコンだけは誰にも触らせたことがない。
そのパソコンをこちらに向けられる。
「かまわないよ? 中に入っている連絡先に関しては、訊かれればすべて明白にできる」
後ろ暗いことは何もないとでも言うような物言いに、呆気に取られたものの、先輩なりの真剣さが見えた気がした。
司はよほど衝撃的だったのか、珍しくも整った顔を固まらせている。
俺はひとつため息をつき、
「ただ理解できないのは、なんでお試しで付き合うなんて話に?」
どうしても納得のいかない部分を説明してもらいたい。
先輩なら好きだと思えば「付き合おう」と言うのではないだろうか。
それをなぜ――
「その理由は言えないけど、翠葉ちゃんは人を好きになるっていうことがどういうことかわかってないみたいだから、あとに引ける状態を用意しただけ。翠葉ちゃんにはクーリングオフ期間を設けるって話したけどね」
余裕の笑みで言われる。
「それって……先輩があとに引けるっていう意味じゃないですよね?」
わかってはいるつもりだけど、確認せずにはいられない。
「心外だな。純粋に翠葉ちゃんが俺からいつでも手を引けるように、と思ったまでだよ。年の差もある。加えて翠葉ちゃんは、恋や愛がどんなものかわかっていないからね。俺からしたら『恋愛ごっこ』だけど、それでもいいかなって思えたんだ。翠葉ちゃんが側にいてくれるなら、それでいいかな、って」
「――本気ってこと?」
やっと司が口を開いたかと思えば、その声はわずかに震えていた。
「そうだな……。もうほかの女が要らないと思える程度にはね」
こんな答え方をするのは秋斗先輩の癖だろう。
「……なんで翠だった?」
司の目が泳いで見えた。
その様に、「動揺」という言葉が脳裏に浮かぶ。
「……どうして、か。難しいな……。けど、あの子はそこらの女と違って駆け引きをしないしずるくもない。それに、『藤宮』という家をまったく意識していない。何より、彼女が笑うと嬉しいと思う。衝撃的だったよ……。ずっとその笑顔を見ていたいなんてさ。あとは、時々言ってくれるわがままがひどく愛しいと思う。人を好きになるってこういうことなんだ、って思えた」
屈託なく笑う先輩は、嘘をついているようには見えなかった。
何かを含んだ物言いでもなく、ただ純粋に翠葉を好いてくれているように思えた。
――それならいい。あとは翠葉の気持ちしだいだ。
いくら兄バカとは言え、翠葉が好きになる相手にまでどうこう言うつもりはない。
そして、その相手の本気が見えるなら、俺がしゃしゃり出ていく必要はないし、何を言える立場でもなくなる。
ふと、隣に立つ司に視線をやるも、茫然自失といった様子だった。
「司……?」
司ははっとした表情をすぐに改め、
「……午後から部活だから」
と、仕事部屋を出ていった。
その姿を目で追うと、
「蒼樹も気づいた?」
後ろから声をかけられ、先輩を振り返る。
「たぶんだけど、司も翠葉ちゃんのことを好きだと思うよ。あいつがそれに気づいているのか気づいていないのかはわからない。でも、気づいているのだとしたら、昨日のアレを見られたのは失敗だったな」
「……え?」
昨日の、アレ……?
「昨日、帰りの時間を少し遅らせてもらっただろ?」
「はい。……それと司が何か関係あるんですか?」
「それがもうひとつの理由。司がどこぞの令嬢をエスコートしてホテルにいた。双方両親が揃っているところを見ると、見合いだったかもしれない。そんな噂を聞かなかったわけでもないし、まだ裏は取れてないけどね。あとで湊ちゃんにでも訊いてみる」
それでなんで帰宅時間が遅くなった……?
……もしかして、昨夜翠葉の脈拍が忙しくなったのは、司を見て動揺したから?
「蒼樹の察しどおりだよ。翠葉ちゃんは司を見て動揺した。そういうの隠せる子じゃないしね。もしかしたら司を好きなのかもしれない。だから、司の前では言わなかった」
「それは翠葉を思って? それとも――」
「後者のほうが濃厚。ただ、司に知られたくなかった。……翠葉ちゃんがあれだけ動揺する相手に、嫉妬したってところかな」
この秋斗先輩が嫉妬なんて――
座り心地のよさそうな、大きな椅子に身体を預ける先輩をまじまじと見てしまう。
「そういうところ、兄妹そっくりな?」
「あー……すみません。嫉妬してる先輩なんて想像できなかったもので」
素直に謝ると、
「そうだね。今まで人に対して嫉妬なんてしたことなかったよ。自分、割となんでもできる要領のいい人間だし、人が欲するものはたいてい最初から手の内にある。だから、俺にとっては初めての感情――思ったよりも、ぞっこんみたい」
先輩はまるで他人事のように話す。
「翠葉が傷つくようなことだけはしないでください。それだけは――」
「……心得てるよ。何があっても彼女が傷つくようなことはしない。実のところ、結婚を考えちゃうくらいには本気だから。婚約するまではキス以上のことはしないと約束する」
それはつまり――
「だから、キスまでは許せ……ですか?」
「ま、そういうことかな?」
「……わかりました。あとは翠葉しだいなので……。俺、大学に戻ります」
来たときよりは幾分か軽くなった足取りで部屋を出る。
初めて見た秋斗先輩の本気。
自分の従弟であり、九歳も年下の男に嫉妬したという先輩。
正直、意外すぎて信じられない。でも――もし翠葉が先輩を選んだとしても、大きな不安はない。
先輩が本気なら、なんの問題もない。
ただ、司と翠葉の気持ちが気にはなるけど……。
司は自分の気持ちに気づいているのだろうか……。
翠葉は昨日の動揺を、どう消化するのだろう。
起きた出来事を知りすぎるというのも、問題かもしれない。
さすがに翠葉の感情にまで、口を出す筋合いはない。
それでも気になるのは、どこまでもかわいい妹だから。
これはしばらく堪えて堪えて静観を決め込まなくていけなさそうだ。
果たして、俺にそんな忍耐力があるのだろうか……。
情けなくも、少し不安になる。
「翠葉のこととなるとだめだな……」
そんな自分を笑いながら、大学へと続く桜香苑を歩いた。
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