09~10 Side 司 02話

 図書棟を出たところにある自販機でコーヒーを買うと、翠はミネラルウォーターを購入した。

 本当に、自販機で飲めるのはミネラルウォーターだけなんだな、と思いながら見ていると、

「どうせなら、桜香苑に行きませんか?」

「よくあそこにいるけど、どうして桜香苑?」

 昨日不思議に思ったことを訊いてみると、

「森林浴が趣味なんです」

 言われて思い出す程度ではあるが、その情報は自分の中にあった。それは御園生さんからもたらされた一情報として。

「ふーん……変わってる」

 御園生さんから聞いたときにも変な趣味、という印象だった。けど、翠という人間に実際会ってみると、その趣味が妙にしっくりくるから不思議だ。

「外は外でも緑の中で風を感じたり、葉っぱ同士の擦れる音が聞こえるほうが気持ちよくありませんか?」

「それには同感」

 あまりにも邪気のない顔で話すものだから、気づけば自分も本音を話していたし、自然と表情筋が緩むのを感じていた。

 リスの石造があるベンチにたどり着くと、翠は迷わず芝生へ腰を下ろした。

「いつも床とかに座るけど、なんで?」

「椅子に座っているのもつらいというか……。一番楽な体勢が寝ていることだとしたら、次はこれなんです」

「あぁ……椅子に座ってるだけでも血が下がって、血液が心臓に戻ってこないのか」

 なんとも翠の体質らしい答えだった。

 昨日から、翠には質問ばかりしている気がする。そして、疑問に答えをもらうたびに、満足感を覚えているのは確かで……。

 勉強と同じようなものだろうか? パズルのピースみたいに、欠けている情報が一つひとつ埋まっていくような感覚。

 いつもと違うのは、これは勉強ではなく「対人」であるということ。今まで人に対して、ここまで関心を示すことはなかった。

 いつもとは違う動きをする心に気づきつつ、翠が何を見ているのかに意識を移す。

 翠は遠くの芝生を見て、眩しそうに目を細めていた。

 小道の向こうにはスプリンクラーが回っていて、水に光が反射していた。そして水を浴びた芝生もまた、キラキラと光って見える。

 それをどうしてこんなに嬉しそうな顔で眺めるのか。

 不思議に思いつつ、この場にある和やかな空気を心地よく感じていた。

 他人と同じ空間にいて、目障りだとも不快だとも思わないことが、ことのほか意外だった。


 会話のないのどかな時間を遮ったのは、自身のスマホ。

 ディスプレイを見れば母さんからの電話だった。

「ちょっと悪い」

 翠に断りを入れ、少し離れたところで通話に応じる。

「はい」

『司? 明日の夜、会食に付き合ってもらえるかしら?』

「明日?」

『えぇ、急で悪いのだけど……。柏木さんの件、妹の桜さんの夏休みの家庭教師で落ち着きそうなの』

「あぁ、その件……。夏休みの間だけなら。――ただし、場所と日程はこっちで指定させてもらうから」

『それは先方にお伝えしてあるわ』

「わかった。あとは帰ってから聞く」

 面倒だとは思いつつ、これで事態が丸く収まるのなら、兄さんと父さんに恩を売っておくのも悪くない。

 そう思いながら翠のもとへ戻ると、翠が首を傾げて俺の顔を見上げていた。

「何?」

「……眉間にしわ」

 翠の細い指が、俺の眉間を指している。

「あぁ……」

 翠はぼーっとしているように見えて、存外観察力はあるのかもしれない。

「明日、何かあるんですか?」

「家絡みの付き合いみたいなもの」

「……なんだか大変なんですね」

「別に」

 詳しく話すつもりはなかったけれど、もう少し自分に関心を示してほしい気はする。

 そのまま、何を話すでもなく翠が言うところの森林浴を満喫した。

 翠はただ、陽を浴びているだけだというのに、えらくご機嫌だ。

 たかが森林浴で、なんでそんな満たされたような顔をする?

 これも訊いたら答えてもらえるのだろうか。

 そんなことを考えていると、桜香苑に続く小道から、御園生さんが現れた。

「翠葉、もう帰れるのか?」

「うん! でも、荷物は図書室にあるの」

「じゃ、一度図書室へ行こう」

 三人揃って図書室へ戻る途中、俺はふたりから少し離れ、仲のいい兄妹を眺めていた。

 年齢差がある割に仲がいいというか、年が離れているから仲がいいのか……。

 何にせよ、うちとは全然違うし、知らない人間が見たら兄妹には見えないかもしれない。まるで恋人同士が歩いているようにも見える。

 兄妹だと知っているのに、そんな錯覚を起こすほどに仲睦まじい。

「明日は? 早いの?」

「秋斗さんが夜に会議って言っていたから、それが終わる時間しだいで出発の時間を決めようって。だから、まだ決まってないの。たぶん、寝る前にはわかると思う」

「そうか」

 なんの話……?

「明日、秋兄とどこかに行くの?」

 背後から声をかけると、顔だけをこちらに向けた翠が笑顔で答える。

「明日、森林浴に連れていってもらえるんです」

 それは初耳。

「……あ、そう」

 なんでもないふうを装って答えたものの、面白くない。どうしてか、ものすごく面白くない。

 俺は明日、面倒な会食に行かなくてはいけないのに、なんで秋兄が翠とふたりで出かける?

 さっきだってスマホが鳴らなければもう少し――

 ……もう少し、何? 今、何を考えた?

 ――ふたりの時間を満喫できたのに……?

 これじゃまるで、俺が翠を好きみたいじゃないか――


 図書棟に戻ると、秋兄が出かけるところだった。

 この時期だと経営計画会議だろう。

 俺も御園生さんも完全スルーで、

「翠葉ちゃん、夜に連絡入れるから」

 秋兄は足早に出ていく。

「あの人、今絶対俺のこと視界に入ってなかった自信があるんだけど……。翠葉、どう思う?」

「どう思うも何も、急いでいただけでしょう?」

 翠に視線で同意を求められたから、「さあね」と答えて図書室へ入った。

 実際はどうなのか――

 あの秋兄が普通に恋愛をするとは思えないし、その相手に翠を選ぶとも思えない。

 そんなわけはない――そうであってほしくない。

 次々と湧いてくる自分の感情が理解できなかった。

 明日、ふたりが出かけようと知ったことじゃないしかまわない。俺にはなんの関係もない。

 そう思おうとしても、気になって仕方がない自分が前面へ出てくる。

 翠が視界に入らなければこんな考えに囚われることはないだろう。翠はすぐに帰る。

 そう思っていると、

「あ……先輩、お手伝い……」

 背後から翠に声をかけられた。

 そうだった……。課題を終わらせたら手伝えと言ったのは自分だった。

「来週からでいい。テスト前、午前授業になるから午後になったらここに来て」

 もともと手伝ってほしいと思っていたわけじゃない。咄嗟に口をついた交換条件のようなものだった。

 でも――手伝いに来れば一緒にいる時間が取れるだろうか。

「え? 何、翠葉ちゃん手伝ってくれるの!?」

 会長が翠に声をかける。

 でも、とくに何を思うわけでもなかった。

「はい。今日、里見先輩と司先輩に英語を教えていただいたので、そのお礼にお手伝いです。少しは役に立てるといいんですけど……」

「大丈夫! 翠葉ちゃんは写真を見る目があるから」

 会長はかなり翠のセンスを買っている。

 そんな話は先月からよく耳にしていた。

「正直、猫の手を借りたいくらいに大変だから、助かるよ」

 朝陽が声をかけ、嵐は「目が疲れた」とテーブルに突っ伏す。

 このメンバーが翠に声をかける分にはなんとも思わないのに、なぜ秋兄だと気になるのか――

 ……俺は何をそんなに気にしている?

 そこへ御園生さんの間の抜けた声が聞こえてきた。……というよりも、「翠葉」という響きに反応しただけのような気もする。

 御園生さんの「未履修分野の課題、全部終わった?」という問いに、翠は「うん、やっと終わった」とにこりと答えた。

 突如、テーブルに突っ伏していた優太と嵐が起き上がる。

「えっ!? 翠葉ちゃん、未履修分野の課題って、あの全十二冊のやつ!?」

 優太が訊くと、

「……はい、そうですけど……?」

「ちょっと待ってっ!? 優太、今日何日っ!?」

 嵐がスマホのディスプレイで日付の確認をする。

「五月八日って……あり得なくない!?」

 優太と嵐が顔を見合わせた。

 俺の隣では、茜先輩が不敵な光を目に宿している。

「私たちも外部生だから、あの課題の大変さはよぉっく知ってるけど――かつて、一ヵ月半かからずに終わらせた人間いないって話よっ!?」

「俺なんて、二ヶ月ぎりぎりだったけど!?」

 驚愕するふたりに、

「計算スピードはずば抜けているそうよ? ね? うちに欲しいでしょう?」

 茜先輩はにこりと笑って見せた。

「それってそんなにすごいことなの?」

 朝陽が要領を得ない顔で訊いてきたから、テーブルに置かれたままの問題集を手に取り、

「これが全教科十二冊」

「あらま……。外部生は最初の二ヶ月が大変って話は聞いていたけど……。翠葉ちゃん、すごいね?」

 珍しく朝陽の表情から笑みが消えた。

「蒼兄……」

 こういう状況に陥ると、御園生さんに逃げるのは翠の癖なのだろうか。入学式の日もそうだった。

「いや、すごいことだと思うよ。俺も一ヵ月半はかかったからね」

「でもそれは、部活をしていたからでしょう? 私は週に一度しか部活ないもの……」

 翠の謙虚さは時にいやみのように思える。なのに、そこに計算も何もないから性質が悪い。

「毒になりそうな純粋さ」――ふとそんな言葉が頭をよぎった。

「翠葉ちゃん、過去にも翠葉ちゃんみたいに週一の部活にしか入っていない生徒もいたけど、それでも一ヵ月半を切る記録はないよ? 久しぶりに記録更新!」

 会長が嬉々として記録更新を喜ぶ。

「テストはいつ受けるんだ?」

 御園生さんが訊けば、みんなが興味津々で返答を待つ。

「中間考査の午後に先生の時間をいただけたら……」

 その言葉に茜先輩が立ち上がった。

「すごい突破の仕方!」

 ……本当にどうかしてる。

 普通、中間考査になんてかぶせないだろ?

 そうは思うが、

「前代未聞だけど合理的」

 翠が合理性を重視しているのかは別として。

「……いるんだねぇ、こういう子」

 次々と声をかけられる翠を見ていて、自分の気持ちを認めざるを得ないところまできていた。

 こんなに他人が気になったことも、目を離せないと思ったことも、今まで一度もなかった。

 明らかに翠を意識している自分がいる。

 この感情を分類するなら、「好意」というものなのだろう。

 他人に対して「好意」を抱いたことが初めてで、この感情にどう対処したらいいのかがわからない。

 ただ、耐え難い不快感はない。

 これが「恋愛感情」?

 まだそこまではっきりとした「想い」を感じることはできない。

 ただ、ものすごく気になるし、秋兄とふたりで出かけることがいやだと思う。できることなら、自分の手の届く場所に、目の届く場所にいてほしい。

 ――自分がこんな感情を抱くことになるとは……。

 他人に興味を持てない自分は、生涯独身で過ごすのだと思っていた。

 最近ちらほらとくる見合い話も、片っ端から断っている。

 明日の会食の相手だって、家庭教師の契約期間が過ぎれば会うつもりなど毛頭ない。

 でも翠は――

 手に入れたいもの、ってこういうことを言うのか……?

「司、気づいた?」

 隣でレモンティーの入ったペットボトルを、両手で持つ茜先輩にたずねられる。

「自分の気持ちに、気づいた?」

 にこりと笑われ、先日の会話を思い出す。

 この人は俺にこう言ったのだ。

 ――「司、あの子はただ見守ってるだけじゃ気づかないわ。言葉にして伝えても怪しいかもしれないわね」と。

 あのときは意味がわからなったが、今ならわかる。

 ため息をつくと、

「やっと気づいたみたいね? もうライバルは動いてるかもしれないわよ?」

「……ライバルって?」

「あら、そっちは気づいてないの? 秋斗先生のことよ」

 周囲の人間にはそう見えるのか? 秋兄がそういう目で翠を見ているからこそ、俺は秋兄を意識したのか?

 何せ初めてのことで、判断材料が心許なさ過ぎる。

「そう、思いますか?」

「まだなんとも言えないけど、司が惹かれたのと同様、秋斗先生が惹かれる要素は持っている気がするわ」

 明日、翠は秋兄と出かける。

 それだけが気がかりだが、明日でどうこうなるとは思えない。

 何しろ相手は翠だから。

 気まぐれな風に乗って俺の心に迷い込んだ一片の葉を、俺は捕らえることができるのだろうか――

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