21話

 昨日は蒼兄が迎えに来てくれるまで、ずっと写真の選別作業を手伝っていたため、秋斗さんの仕事部屋に顔を出すことなく帰ることができた。

 昨日までの作業で、何枚あったのかすらわからない写真が二〇〇〇枚ほどに絞れたらしい。それをさらに減らしていく作業が続くというのだから、道のりは長い。

 ただ、ある程度の選定が済んだこととテスト前ということもあり、今日からの作業は一時から三時までとのことだった。

 それでも、テスト前の貴重な時間を割いてその作業をするのだから、感心する。

 私はというと、昨日の作業で先日英語を見てもらったお返しは済んだよう。

 現実問題、テスト勉強もしなくちゃいけないし、未履修分野のテスト勉強も並行させているだけに、お手伝いを続ける余裕はなかった。

 まずは職員室へ行って学年主任の先生におうかがいを立てなくてはいけない。

 私はすべての課題を持って職員室へ向かった。

「課題がすべて終わりましたので、提出に来ました」

「お、御園生が一番のりだな。テストはいつにする?」

「もし先生の都合がつくようでしたら、中間考査の午後にお時間をいただけないでしょうか」

「中間考査の午後? いや、こっちはかまわんが……。でも、御園生は大丈夫なのか? どちらにせよ九十点以上採れないとパスはできんぞ?」

「正直、古典あたりはとても怪しいんですけど……。でも早く終わらせたいので、よろしければお願いします」

「……じゃ、何からやる? テストは三日間あるだろ?」

「二日目に物理、英語、世界史、古典。ほかはすべて一日目に」

「……ちょっと待て。御園生、早まるな」

「早まったつもりはないのですが……」

「じゃあ何か? 一日目に八教科受けるつもりか? おいおい、午後に時間が取れるとはいえ、八時間は取ってやれんぞ?」

 心なし、という域を超えて刈谷先生の顔が引きつる。

「えぇと、三時間くらいならいただけますか?」

「そのくらいなら大丈夫だ。だから三教科が限度だろう?」

「いえ、もしできるのなら八教科で……」

「……とりあえず、無理なら無理でかまわないから。一応八教科分は用意しておく。時間切れになったら翌日に回そう。それでいいな?」

「はい、かまいません。お時間いただいてしまってすみません」

「いや、いいよ。でも、単純計算で一教科二十二分だぞ?」

「できるところまでチャレンジで……」

「うーん、選択権は御園生にあるしな……。生徒会からの打診もきてるんだから、くれぐれも中間考査に響かないように気をつけなさい」

「はい。失礼します」

 よし、予定はついた。あとは受けるだけ――


 職員室を出ると、十二時半を回っていた。

 今日はどこでお弁当を食べよう?

 あまりにもいいお天気すぎて少し暑い。

「桜香苑はやめておこうかな……」

 空を見上げれば雲ひとつない。

「五月晴れ?」

 結局は日陰のテーブルを選んでニ階テラスで食べることにした。

 あ、そうだ。ここでお勉強すればいいんじゃないかな?

 周りにも友達と勉強会を開いている人たちがちらほらいる。でも、私みたいにお弁当を食べている人はいないので、そう長くはいないのかもしれない。

「あら、翠葉ちゃん。こんなところでひとりでお弁当?」

 声をかけてくれたのは里見先輩と荒川先輩だった。

「はい。先輩たちはこれから図書室ですか?」

「そう。一緒に行く?」

 里見先輩が誘ってくれたけれど、さすがにみんなが作業している中、ひとり勉強するわけにはいかない。

「いえ……。いい加減勉強しないと危険なので」

「じゃ、私たちもここで食べようか」

 里見先輩が荒川先輩に訊くと、荒川先輩は「賛成!」と元気よく手をあげた。

 私は広げていたルーズリーフをしまい、テーブルを片付ける。

「今見てたの古典?」

 荒川先輩に訊かれる。

「はい。大の苦手なんです……。友達が作ってくれた活用表を必死に覚えている最中で」

「翠葉ちゃんは理系なのよね」

 里見先輩に言われ、「どちらかと言えば……」と答えた。

「じゃ、うちの生徒会が今一番欲してる人材なわけだ」

 荒川先輩がサンドイッチを摘みながら言う。

「そうなんですか?」

 訊けばふたりが頷いた。

 生徒会にいるくらいだから、みんな相応に全教科をこなすのだろう。けれど、やっぱり得意分野として理系文系に分かれるようだ。

 現時点で理系は春日先輩と司先輩だけらしい。

「だから、予算を組むときにはどうしてもふたりにウェイトが傾くのよね」

 と、里見先輩。

「でも、里見先輩も学年で主席って――」

「うちは誰もが成績優秀だから時間さえあればどんなことでもできるわ。ただ、計算の速さとかそういうのは持って生まれたものもあるから。私は与えられた時間内に満点になる答えを出せる人。司や優太は必要最低限の時間で正解を導ける人」

 なるほど、と思った。

「翠葉ちゃんもそっちよね?」

「どちらかと言われたら……?」

 もとのやり取りに会話が戻ってしまい、三人揃って声を立てて笑った。


 一時を回るとふたりはテラスをあとにした。

 そういえば、このテーブルは球技大会のときに加納先輩に寝顔を撮られたテーブルだ。

 ……あれ?

 それは、秋斗さんの仕事部屋から見える場所、ということにならないだろうか。

 ふと思い出し、先ほどまで荒川先輩が座っていた席の方を見ると――

 バッチリと合ってしまった。仕事部屋に立つ秋斗さんの目と……。

 図書室の窓はUV加工が施してあるため、窓が開いていない限りは部屋の中が見えない。けれど、空調やエアコンを入れていても、いつもわずかに窓を開けているのが秋斗さんで、その三十センチほどの隙間に秋斗さんが立っていた。

 思い切り顔を逸らしてしまったけど、このあと私はどうしたらいいものか……。

 次の行動をとれずにテーブルに突っ伏していると、ポケットの中でスマホが震えた。

 電話だったらどうしよう……。

 恐る恐るスマホを手に取ると、メールであることがわかる。

 ただ、問題なのはその差出人である。

 差出人はしっかりと、「藤宮秋斗」と表示されていた。



件名 :こっちにおいで

本文 :そんなところで勉強せずにここへおいで。

   誰も取って食いやしませんよ。

   なんだったら仮眠室に篭ってもいい。

   僕が迎えに行こうか?



 さて、これにはなんと返事をしよう……。

 というかこれは、行かなかったらお迎えに来られてしまうのでは……?

 もう一度メールに目を通す。

 いえ、別に取って食われると思っているわけではなくて、ただ、ちょっと会いづらいかなと思ったくらいで、別に避けてるわけでは――

 頭の中で必死に言い訳を考えている自分が、もはや救いようのない状態であることに気づく。

「翠葉ちゃん、迎えに来たよ」

「きゃっ」

 声にびっくりして席を立つ。

 突如襲う眩暈は、ここ最近で一番のひどさだった。

 秋斗さんが、「危ない」と叫んだ気がした。次の瞬間には身体に衝撃が走る。けれど、思ったよりも痛くなかった。

 頬にぬくもりが、耳に人の鼓動が伝う。

 間違いなく秋斗さんが受け止めてくれたのだろう。

「……すみません」

「気にしなくていいから」

 ほっとしたような声が耳元に聞こえた。

 視界は回復しないし、こめかみから肩のあたりまで血の気が引いているのがわかる。

 意識も手足の感覚もあるけれど、それらがテラスの熱いタイルに接している感触はない。

 右足はかろうじて地に着いている気がするけれど、はたしてどんな状況なのか。

 体重のほとんどを秋斗さんが引き受けてくれている気がして、早く体勢を整えたかった。

 無理に足に力を入れようとすると、

「無理しなくていいから。もう少し待ちなさい」

 諭すように言われて、少し叱られた気分だ。

 徐々に視界が戻ってくると、やっぱり右頬を秋斗さんの胸につける形で、ほぼ横抱きに近い状態で抱えられていた。

「すみません……」

「いいよ。僕は役得だと思っておく」

 不意に顔が近づいてきて、こめかみに柔く生あたたかいものが触れた。

「え……?」

「僕を避けていた報復ってところかな」

 耳元でクスリと笑われる。

「あの……今の……」

 秋斗さんの顔を見ると、秋斗さんはにこりと笑って、

「キスしたよ」

 とびきり甘い声が言葉を紡ぐ。

「……き、す……?」

 おうむ返しのように口にすると、「そう、キス」といたずらっぽく笑われた。

 言葉の意味を理解した途端、身体中が熱くなる。

「翠葉ちゃんは本当にかわいいね」

 秋斗さんは私を立たせると、テーブルに出してあったノート類をきれいに片付け始め、

「さ、あっちへ行こう?」

 まとめたものとかばんを持って、仕事部屋を指差す。

「あれ? まだ再起不能?」

 いつものように顔を覗き込まれ、その動作にすら反応した私は、反射的に後ずさる。と、腕を掴まれ制された。

「返事はゆっくりでいい。でも、避けるのはやめて? さすがにそれは堪える」

 少し悲しそうな顔をされて、胸がぎゅっとなる。

 今のはどんな意味の、「ぎゅ」だろう……。

「あのっ……避けていたつもりはなくて、いやとか嫌いとかでもなくて――ただ、少し会いづらかっただけなんです」

「うん、わかってる。でもね、これは覚えておいたほうがいいかもよ?」

 え……?

「逃げられると男は追いたくなるんだ。基本、狩猟本能が備わってる生き物だからね」

 言っていることはとんでもないのに、表情はいつもと変わらない穏やかな笑顔だった。

 そんな顔すら魅力的な人だから困る。

 こんなの、いつになったら慣れるんだろう……。

「あの、わがままをひとついいですか?」

 秋斗さんを下から見上げると、

「なんだろう?」

「お願いだから普通にしてくださいっ」

「これが僕の普通なんだけどな」

「近くでその笑顔見せられると心臓に悪いんですっ」

 顔が熱いのはわかっていた。だから、途中で顔を逸らした。

「それは光栄、かな? 少しは異性として意識してもらえてるわけでしょう?」

 私は困ると言っているのに、秋斗さんは嬉しそうに笑うから、もっと困る。

 そのあとは観念して、秋斗さんの仕事部屋にお邪魔することにした。

 だって、これ以上そこであがいても無意味な気がしたから……。

 どうしても気になって勉強ができないようなら、仮眠室に篭らせてもらおうと思う。

 司先輩、あの部屋は、やっぱり篭るためにある部屋な気がするの――

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