07話

 先輩が仮眠室のドアを開けると、仕事部屋の照明がひどく眩しく感じた。

 反射的に目を細める。と、

「暗闇の世界から生還おめでとう」

 秋斗さんの明るい声に出迎えられた。

「司、翠葉のこと泣かせただろ……」

 ダイニングのスツールに座っている蒼兄が、少しむっとした顔をしていた。

 普段見られない表情なだけに、なんとも新鮮だ。

 先輩はというと、まったくたじろぐ様子もなく、

「無事生還したってことでチャラで」

 さらりとかわす。

「翠葉、大丈夫か?」

「うん、大丈夫。司先輩が珍しく優しかったから、なんだか得した気分だった」

「……翠葉ちゃん、司の呼び方変わった?」

 秋斗さんに指摘され、

「はい。本当は同い年だから先輩をつけて呼んでほしくないって言われたんですけど、それだとほかの人にも留年しているの悟られちゃうので、司先輩で妥協してもらうことになりました」

「そっか……。司、どさくさに紛れて距離縮めたな」

「さあ、なんのことだか……。俺、生徒会の仕事に戻るから」

 先輩は足早に仕事部屋から出ていった。

「翠葉ちゃん、お詫びにお茶淹れ直すよ」

 秋斗さんの申し出に甘え、私と蒼兄はお茶を飲んでから帰ることになった。

 帰る間際、

「今日は本当にごめんね」

 またしても秋斗さんに謝られる。

「いえ、もとはと言えば私がいけなかったので、もう謝らないでください。――あ、次に謝ったらペナルティつけますよ?」

 今しがた、司先輩に言われたばかりの言葉を使うと、

「それ、もしかして司に言われた?」

 あっさり出所を突き止められてしまう。

 返事はせずに苦笑を返すと、秋斗さんはおかしそうにクスクスと笑った。


 秋斗さんの部屋を出ると、生徒会メンバーも帰りの支度をしているところだった。

 図書室はまだ写真だらけの状態で、しばらくはこの状態が続くんだろうな、と想像ができる。

 あちこちに置かれた写真を見ていると、同じように蒼兄も写真を眺めていた。

「翠葉、お前ずいぶん撮られたなぁ……」

「私もびっくりして腰抜かしちゃった……。でもね、司先輩と桃華さんたちが念書を集めてくれたから」

 ダンボールを指差すと、蒼兄もその箱を目で確認した。

「司、手間かけて悪い。ありがとな」

 パソコンをシャットダウンさせていた先輩がこちらを向き、

「仕事だからかまいません」

 先輩の表情が心なしか柔らかかった気がして、なんだか嬉しかった。


 車に乗ると、

「司、いいやつだろ?」

「うん。時々怖いけど、今日はとても優しかった」

「格好いいけど意地悪な人、って印象は変わった?」

 入学して間もないころの会話を思い出す。

「そうだなぁ……。今日は優しかったし、もともと優しい人なのかもしれない。でも、基本は格好いいけど意地悪な人、かな? 次に、『藤宮先輩』って呼んだらペナルティつけるって言われちゃった。そのあたりは意地悪でしょう?」

「司らしいって言ってやってよ」

 蒼兄はおかしそうにクスクスと笑う。

「そういえば、来週の日曜日、秋斗さんと森林浴に出かけることになったよ」

「あ、お詫びって言ってたやつ?」

「そう。すっかり忘れてたのだけど、本当に連れて行ってもらえるみたい」

「秋斗先輩と一緒なら安心だな。……いや、ちょっと待てよ? それは安心していいのか? なんか騙されてる気が……。いや、でもあの人に限って……そうだよ、相手はこの翠葉だし……」

「蒼兄、何を言ってるの?」

 訊くと、蒼兄は取り繕うように笑顔を作った。


 家に着くと七時を回っていて、栞さんに「遅かったわね」と声をかけられる。

「今日は一日秋斗くんのところで課題だったのでしょう? 話してばかりで課題なんか終わらなかったんじゃない?」

 夕飯をテーブルに運びながら栞さんに訊かれる。

 今日はきのこの和風スパゲティ。

 バター醤油は蒼兄の好きな味付けで、週に一度はバター醤油味のおかずが食卓に並ぶ。

「そんなこともなかったですよ? テキストも全部終わらせてきたし。秋斗さんはお仕事も電話も、なんだかとても忙しそうでした。なんでも、会議にお見合いがついてくるとか?」

 電話の内容を思い出しながら話すと、

「あぁ、きっと重役に無理やりお見合いの場をセッティングされたか何かね」

 栞さんは苦い笑みを漏らした。

「そういえば、楓くんもお見合いを断ったって話を聞いたわねぇ……。そっちは病院の、大手取引先の社長令嬢って言ってたかしら?」

「楓さんって、司先輩のお兄さんで湊先生の弟さんの……?」

「そうよ。翠葉ちゃん、病院で会ったことない?」

 病院で楓さんって――え……?

「あの……麻酔科の楓先生ですか?」

「そうよ」

「嘘……」

「あら、知らなかったの?」

 コクコクと頷く。

「名前は知っていたけれど、まさか同一人物とは思っていませんでした」

「そうね、湊と司くんはそっくりだけど、楓くんだけちょっと顔のタイプが違うものね。湊と司くんはお父さん似なのよ。で、楓くんはお母さん似」

 湊先生と司先輩のご両親はどれほど美形なのだろう……。

 お父さん似、ということは、あの顔がもうひとつあるということ?

 それはなんて心臓に悪い環境だろうか……。いや、もしかしたら目の保養し放題、かな……。

 言われてみると、楓先生と秋斗先生はよく似ている。

 顔の系統が秋斗さんと海斗くんと同じ……。

 物腰が柔らかいのは三人に言えることだけど、楓先生はより穏やかな印象で、「物静かな人」というのがしっくりくる。

 そうこう考えていると、匂いにつられて蒼兄が二階から下りてきた。

「そういえば、今はなんともないみたいだけど、夕方ごろに一度体温が下がったでしょう? 何かあった?」

 栞さんに顔を覗き込まれ、

「実は、桜香苑でうっかりうたた寝をしてしまって……」

「なるほど、それであんなに体温が下がったのね? びっくりして電話しようかと思ったら、秋斗くんから自分が行くからってメールが届いたのよ」

 栞さんはそのときのメールを見せてくれる。



件名:バイタルチェック

本文:俺が行く



 とても短いメールが複数のアドレスに送信されていた。

 蒼兄の説明によると、バイタルが表示されている画面からモニタリングしている人たちへ、一斉にメールを送ることができるらしく、ほかにも消防署へのワンタッチコールなんて機能も備わっているという。

 なんだかすごいな……。

 私はモニタリングされるだけで、そのシステムがどのようなものかは知らされていなかったのだ。

 聞けば聞くほど、痒いところまで手が届くシステムに驚かされる。

「俺もびっくりしてGPSで場所を確認するところだったんだ。そしたらアクセスしている最中に、秋斗先輩からメールが届いた」

 本当にごめんなさい……と、心の中で平謝り。

「ま、数値変動があれば心配はするのだけど、このアプリのおかげで前ほど不安にはならなくなったわ。本当に便利よね」

 栞さんがフォークにパスタを巻きつけながら言う。

「確かに……。何かあったときにすぐ手を打てるっていうのは本当に助かる」

 それは、いいのかな……。悪いのかな……。

 自分のバイタルで周りの人が一挙一動しているかと思うと、いらぬ気を遣わせているんじゃないかと思ってしまう。

「翠葉ちゃん、そんな顔しないの。私はこれを作ってくれた秋斗くんに感謝してるわよ?」

「俺も。ないよりは断然あったほうがいい」

 ふたりにじっと顔を見られ、

「また、どうしようもないことを考えてないか?」

 うかがうように蒼兄にたずねられ、私は左手で頬をさすりながら苦笑を返す。

 感情が駄々漏れらしいこの顔は、どうにかならないものだろうか……。

 このままいたら、何を考えていたのか追求されそうだったから、

「そ、そういえばっ、司先輩にバイタルチェックしてるの知られちゃいましたっ」

 ほんの少し、話の方向転換をしたかっただけ。でも、これはちょっと強引すぎただろうか。

 栞さんへ振った話だったけれど、蒼兄が気になって恐る恐るうかがい見る。と、「仕方がないな」って顔で小さくため息をつかれた。

「どうして司くんが知ることになったの?」

 栞さんにたずねられ、慌ててそちらへ向き直る。

「秋斗さんが桜香苑に迎えにきてくれたとき、パソコンにバイタルチェックのウィンドウを開いたままだったらしくて、それを司先輩に見られてしまったんです」

「あら……」

「俺が翠葉を迎えに図書室に入ったら射殺さんばかりの目で見られて、俺何かしたかと思いましたよ。で、仕事部屋へ入ったら入ったで翠葉が泣きついてくるし……」

「あらあらあら……」

「そのあと、翠葉が仮眠室に篭ること一時間半ですよ? 結果的には司に懐柔されて出てきたんですけど」

 懐柔……。私、懐柔されたのかな?

 疑問に思っていると、栞さんは私以上にきょとんとした顔をしていた。

「栞さん?」

「司くんが、懐柔……?」

「懐柔というか……最初は電話をかけてきてくれて、でも、私出られなくて、そしたらメールをくれました。ものすごく先輩らしいメールを」

 栞さんはきょとんとしたまま「メール……」と口にして、私のスマホに釘付けになっていた。

「……見ますか?」

 スマホを操作すると、栞さんと蒼兄がディスプレイを覗き込む。

「本当だ、司らしい文章」

「そうね……」

 同意して見せるけど、栞さんはまだ首を傾げている。そのままの体勢で、

「それで翠葉ちゃんはどうしたの?」

「えぇと、ちゃんとお話しなくちゃいけない気がして、すぐに電話をかけなおしました。でも、何を話したらいいのか、何から話したらいいのかがわからなくて、気づけば司先輩だけが話してました」

 そのときの会話内容をかいつまんで話すと、

「え? 司くんが気になるって言ったの?」

 それはそれは驚いた様子でたずねられる。

「はい。私、体調を気にされるだけなんだって思ったら何も言えなくなってしまって……。そしたら、勘違されてる気がするから顔を見て話したいって言われて……」

 蒼兄が納得したように、

「それで仮眠室で話そうって話になったんだ?」

「そうなの。そしたらね、ひとりの人として興味があるって。びっくりしたのだけど、なんだかとっても嬉しかった」

 思わず口元が緩んでしまう。

「翠葉、それって――」

「蒼くん、だめよ」

 蒼兄が何かを言おうとしたのを栞さんがにこりと微笑んで制した。

 蒼兄は、「あぁ、そうか」って顔で口を噤む。

「あとは?」

 栞さんに先を促され、

「えと、バイタルチェックのことをほかの人から聞くのは癪だから、できるなら話してほしいって言われました」

「……話せたの?」

 栞さんは心配そうな顔でたずねてくる。

「ちゃんと伝わるように話せたかはわかりません。でも、わかってもらえた気はします。なんで話すのが怖かったのかもたずねられて、それも話せました」

「これは興味本位なんだけど、司くん、なんて答えたのかしら」

「えぇと、もし私に自殺願望があったとしても、何も変わらないからって言ってくれました。死んでほしくはないし、生きていてほしい。もっと自分を大切にしてくれ、って。あと、桃華さんに話しても、自分の対応とさして変わりはしないだろう、って」

「そう……」

 栞さんはどこか嬉しそうにふわりと笑う。

「確かに、簾条さんは司とそう変わらない反応だろうな」

「うん……だからね、中間考査が終わったら話そうかなって思ってる。約束もしているし……」

 司先輩と蒼兄の太鼓判があっても、桃華さんに話す不安がまったくなくなるわけではない。

 その不安を感じれば、視線は自然と落ちてしまう。すると、

「がんばりな」

 蒼兄から労わるように声をかけられ顔を上げると、優しく笑う蒼兄と栞さんの笑顔があって、なんだか少しほっとした。

 人の笑顔はすごい。

 ただ笑ってくれるだけで、元気を分けてもらった気になるから――

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