02話

 今日からみんなはキャンプ。私はいつもと変わらず蒼兄と登校。

 車から、流れゆく外の景色を眺めていると、

「バングルつけてから、朝の支度に時間がとれるようになったな?」

 そう言われてみれば――

「基礎体温はつけているけれど、血圧を測ったり脈をみてもらうことがなくなったから、朝ご飯がゆっくり食べられるようになったかも?」

 つい先日、秋斗さんが改良してくれていたソフトが完成して、スマホからもバイタルのチェックができるようになったのだ。

 今では栞さんもスマホから数値を見てくれているため、朝恒例のバイタルチェックがなくなった。

 お父さんとお母さんも、仕事の合間を縫って秋斗さんに会いに行き、今ではスマホとパソコンの両方からバイタルを確認しているという。

「秋斗さんにはどれだけお礼を言っても足りないね?」

「本当に……。俺、秋斗先輩のお願いごとはもう無下にできそうにないよ」

 駐車場に車を停めると、蒼兄はハンドルに向かって項垂れる。

「でも、これだけは別っ! 翠葉、秋斗先輩の毒牙にはかかるなよっ?」

「秋斗さん、毒牙なんて持っているの……?」

「持ってるの! とにかく色々気をつけて!」

 蒼兄が何を危惧しているのかは察することができなかったけれど、私は勢いに負けて頷いた。


 上履きに履き替えると真っ直ぐ図書棟へ向かう。すると、図書棟の入り口で秋斗さんが待っていてくれた。

「おはようございます」

「おはよう。翠葉ちゃん、二日間よろしくね」

 そんな挨拶をしつつ、秋斗さんの仕事部屋に通してもらう。

 始業チャイムが鳴ると私は課題を広げ、秋斗さんはワイヤレスのイヤホンマイクを装着してパソコンを立ち上げる。

 パラパラとテキストをめくってみるものの、難易度はさほど高くない気がした。

 ただ問題数だけは異様に多いから、半日で終えるのは無理だとしても、今日一日かければ終わらせられるかな。

 シャーペーンを持ち計算に着手した途端、背後からすさまじい速さのタイピング音が聞こえてきた。

 打鍵音がうるさいというわけではなく、タイピング速度が常人それとは違いすぎる。

 蒼兄も私も、それなりにタイピングは速いほうだと思っていたけれど、秋斗さんのそれとは比にならない。

 こんなに速く打てる人がいるんだ、と感心していると、秋斗さんは通話を始めた。けれど、タイピング速度が緩まることはない。

 えぇと……。今している仕事と電話の用件は、関連性があったりするのかな……。もしまったく関係のない仕事なのだとしたら、どんなふうに頭を使えばふたつのことを同時進行できるのだろう。

 疑問に思いながら見ていると、通話が終わったらしい秋斗さんが私の視線に気づく。

「どうかした?」

 その言葉と共に、タイピング音が止んだ。

「あ、えと……すごくタイピングが速いんだな、と思って……」

「あぁ、そうだね。タイピングは速いかも? うるさかった?」

「いえっ――そういうことではなくて……」

「ん?」

「お電話しててもタイピング速度遅くならなかったな、と思って」

「まあ、パソコン仕事のほうは呼吸するみたいな感覚だからね」

 それたぶん、常人にはよくわからない感覚だと思います……。

 すると、新たに通信が入ったらしく、秋斗さんは「ごめんね」と手を合わせて電話に意識を戻した。

 問題を解いていると、テキストに影が差し、秋斗さんがすぐ近くに立っていることに気づく。

 秋斗さんは手に大き目のビーズクッションを持っていて、

「床にそのまま座るのは冷えるから」

 と、私にビーズクッションの上に座るよう促す。

「ありがとうございます……」

 海斗くんの言うとおり、本当にフェミニストなんだなぁ……。

 さらにはハーブティーを差し入れてくれたり色々と気遣ってくれるものだから、自分が仕事の邪魔をしている気がしてきてしまう。

「あの、私……ここにいて大丈夫ですか? お邪魔でしたら隣へ移ります」

「全然邪魔じゃないよ。むしろ癒し……そこにいて?」

 本当にいいのだろうか……。

 そうは思ったけれど、ビーズクッションも用意してもらったし、と私はその場に留まることにした。


「翠葉ちゃん、お昼だよ」

 肩を叩かれて気づく。

「もうそんな時間ですか?」

「うん。チャイムもとっくに鳴ってる」

「え……?」

 驚くと、秋斗さんに笑われた。

「その集中力はすごいね」

「……ただ、夢中になっちゃうだけなんです」

 夢中になると周りが見えなくなるのはいつものことで、蒼兄に注意されることもしばしば。けれど、それをどうにかできたことはない。

 秋斗さんは私のテキストを手に取ると、ペラペラとページをめくり、

「驚いたな……。もう半分は終わってるんじゃない? これ、二日分でしょ?」

「はい。終わったら未履修分野の課題をやろうと思って……」

「なるほど、数学を選んだのは確信犯ってわけだ。でも、とりあえずお昼を食べようね」

「はい」

 ランチバッグを持ってダイニングテーブルに着くと、秋斗さんはコンビニのレジ袋からパンふたつを取り出した。

 少し意外だった。ご飯はちゃんと食べる人なのかと思っていたから。

「何? きょとんとした顔して」

「え? あ、わ、ごめんなさいっ」

「翠葉ちゃんは謝らなくちゃいけないようなことを考えていたの?」

 秋斗さんはちょっと意地悪な笑みを浮かべている。

「そういうわけでは……」

「じゃ、何を考えていたのか教えてくれる?」

「えと……ご飯はきちんと食べる人だと勝手に思い込んでいて、だから、コンビニのパンだけなことに驚いてました」

 秋斗さんはパンの袋を開けながら苦笑を浮かべ、

「期待を裏切るようで申し訳ないんだけど、その辺あまり頓着なくてね。割と不摂生してます」

 どうやら自覚はあるらしい。

「身長あるのに、それで足りちゃうんですか?」

「んー……基本は座り仕事だし、食べ過ぎたら太っちゃうよ。僕は蒼樹みたいに毎朝走ったりしないから」

 言われて納得。

 蒼兄は細身だけど、かなりしっかりとご飯を食べる人。

 でも、そっか……。それだけ運動をしているからなのね。

「僕より問題なのは、翠葉ちゃんでしょう?」

「え?」

「お弁当、小さすぎない? もう少し食べたほうがいいのに」

「これ以上はちょっと……。胃が受け付けないというか、そのあとの消化が大変なので……」

「あ、そうか。消化に必要な血液量が足りなくて痛い思いをするんだったね」

 秋斗さんはほんの少し苦笑を浮かべた。けれどすぐに表情を改め、自分へと話題を戻す。

「こんなものを食べてる僕が心配だったら、この間みたいにたまに手料理を振舞って?」

 さりげない話の方向転換に、優しさを感じた。だから、ごく普通に「いいですよ」と答えたのだけど、

「あれ? あっさり答えるね?」

「え? 考えなくちゃいけないところ、ありましたか?」

「いや、何もなかったことにしておく。じゃ、楽しみにしてるからね」

 にっこりと笑みを浮かべた秋斗さんは、

「本当に、僕のお嫁さんにならない? 高校卒業まで待つよ?」

 ……なんて性質の悪い――

「秋斗さん、真顔でそういうことはあまり言わないほうがいいと思います。女の子が勘違いしちゃいますよ?」

「翠葉ちゃんだったら勘違いも大歓迎だけど?」

 笑顔のままじっと見つめ返されて困る……。

 この人の甘い笑顔は完璧すぎて、なんだかとても恥ずかしくなってくるのだ。

「秋斗さん……それ、苦手です」

 言って、テーブルにパタリと伏せる。

「本当にかわいいね」

 言いながら頭を優しく撫でられた。

 蒼兄が言っていた「毒牙」とは、これのことだろうか……。

 確かに、厄介を極めている気がしなくもない。

「でもさ、いい加減少しくらいは慣れておかないと。この先好きな人とキスもできないよ」

 言われてつい、「好きな人」という言葉に反応してしまう。

「好きな人……」

「ん? 誰か好きな人でもできた?」

「……好きって、どんなでしょう?」

 テーブルに突っ伏したまま目線だけを秋斗さんへ戻す。

「……あれ? お嬢さん、ひとつ確認……。初恋はいつ?」

「現在進行形で恋をしてない歴十六年です。あ、でも、あと一ヶ月もせずに十七年目になっちゃいます」

「……つまり、まだってこと?」

「……今、呆れました?」

「いや……」

「呆れたでしょうっ!?」

 身体を起こして詰め寄ると、

「いやぁ……本当の天然記念物だったか、と思ったくらいだよ」

 と笑われる。

「むぅ……だって、今まで周りにいた男の人って蒼兄とお父さんと紫先生くらいだったんだもの」

「絶滅危惧種って言われるよりはいいでしょう?」

 天然記念物も絶滅危惧種も、大差ない気がするのは私だけだろうか……。

「ところで、森林浴にはいつ行く?」

「あ……本当に連れて行っていただけるんですか?」

「もちろん」

「嬉しいっ!」

「いつごろなら大丈夫そう?」

「え? そんな、秋斗さんの都合に合わせますよ?」

「そんなにこっちのこと気にしなくていいよ。ほら、カレンダー見る?」

 秋斗さんが卓上カレンダーを見せてくれた。

「えと、次の日曜日も開校記念日の月曜日も予定はありません」

「……でも、中間考査一週間前だけど大丈夫?」

「たぶん大丈夫……?」

「実は結構余裕ある?」

「そういうわけでは……。ただ、まだ理系はさほど難しいと感じることはないし、ちょっとがんばらなくちゃいけないのは文系のみなので……」

「そっか。じゃ、翌日は休めるように日曜日に行こうか」

「楽しみにしてます!」

 そんな話をしながらお昼休みを過ごした。

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