20話

 蒼兄はベッドの足元に座った。

 そんな距離ですら不安になる。人、三人分の距離ですら、不安に駆られる。

「そんな顔するな……」

 蒼兄は無理に笑って私のすぐ側、手の届く位置に移動してくれた。

「蒼兄……?」

「ん?」

「……なんでもない」

 蒼兄を前にすると、やっぱり何も言えなくなる。

 結局、どこに視線を定めたらいいのかわからなくて、お布団の上にある自分の手元をじっと見つめていた。

「あのさ……俺も気持ち悪い。翠葉が話を途中でやめるの、違和感ある」

 思わず蒼兄を見ると、視線が合ってふたり苦笑いを浮かべる。

「やっぱりこういうのがいいよな」

 蒼兄に言われて、「うん」と頷く。

「さっき、湊さんが言ったとおりなんだ。俺は翠葉がかわいいから側にいたいだけ……。たぶん、翠葉がすごく元気な子だったとしても、きっとそれは変わらなかったと思う。そしたら、一緒にスポーツしたり遊園地に行ったり……。今と状況は違うかもしれないけど、やっぱり仲のいい兄妹だったと思うよ」

 その言葉がとても嬉しかった。

「あのね……私、蒼兄のことを解放してあげなくちゃ、ってずっと思っていたの。いつまでも私みたいなお荷物がいたら、自由になれないから……。でも、自分で離れようって決めたのに、なのにね……。たったこれだけの距離ですら不安で仕方なくて――」

 言うと、涙が零れた。

 今は話せる雰囲気で、思わず口にしてしまったけれど、これは話してもよかったこと……?

 不安に顔が歪む。と、いつも私が泣くとしてくれていたように、蒼兄が肩を抱いて背中をさすってくれた。

「俺から離れていく必要なんてないだろ? 家族だし、世界で唯一の兄妹だし」

 言われて、蒼兄の腕をぎゅっと掴んだ。

 自分が崩れ落ちないように。自分を支えるために。

 やっぱり無理だ……。この手だけは放せない……。

「蒼兄はね、私の道標なの……。蒼兄がいるから私は歩いていける。どんなにつらくても前を向いていられるの。だからね、離れたら道に迷っちゃう……」

「それでいいよ……。必要ならこれからも手を引いて歩くから。翠葉がひとりで歩けるようになるまで。だから、無理に離れようとしなくていい。……俺もまだ、翠葉から卒業はできそうにないから、お互い様。お相子だよ」

 お相子……?

「勘違いしないでほしいのは、俺は翠葉が心配なだけで側にいるんじゃないってこと。自分にとって必要な要素だから側にいるんだ」

「必要な、要素……?」

 身体を少し離して蒼兄の顔を見る。

「どう説明したらいいのかわからないけど……。翠葉は俺を道標って言うけれど、俺にとって翠葉は光みたいなものなんだ。絶対に失っちゃいけない要素っていうか……」

 蒼兄は一度口を噤むと、苦笑を浮かべた。

「お互いに依存してるのかもしれない。でも、今はそれでいいことにしないか?」

 それはひとつの提案のような響きを持っていた。

「依存って、悪いことじゃない?」

「片方だけが寄りかかっているのは良くないかもしれないけど、俺たちの場合は『Give & Take』だと思わない?」

 Give & Take……。

 その言葉がくすぐったく聞こえた。思わず頬が緩むほどに。

 蒼兄も目を細めて笑う。それは私が一番好きな蒼兄の表情。

 よかった……いつもの蒼兄だ。

 ほっとして蒼兄に寄りかかると、蒼兄は笑いながら抱きとめてくれた。そして、

「だから、消えたいとか思わないでほしい……」

 言われて言葉を失う。

「……ごめん。病院での湊さんとの会話、ドアの外で聞いてた」

 どんな反応をしたらいいのかわからずにいると、

「俺たち家族にとって、翠葉は負担でも足枷でもないよ。俺にとっては光だし、父さんにとっては天使なんじゃないかな。母さんにとっては……なんだろう? ……わからないけど、やっぱりかわいい娘でしかないと思うんだ。その存在がなくなったらって考えると、すごく怖いよ。俺は正気でいられるかわからない。でもだからと言って、今までみたいに雁字搦めにはしないから」

 そう言うと、私の左腕に手を伸ばす。バングルがはめてあるその腕に。

「これがあるから……。翠葉がこれをはめている限り、最悪の事態にはならないってわかっているから。だから、もっと自由に動いていいよ。……決して無理をしてほしいわけじゃない。でも、もっと好きなことをしていいよ。今まで縛ってばかりでごめん」

 私は負担じゃ、ない……?

「何、きょとんとした顔して……」

 蒼兄に頭をくしゃくしゃ、と撫でられる。

「だって、私が負担じゃないって言うから……」

「最初から誰もそんなふうに思ってないよ。翠葉の勘違い。……本当は具合が悪いことも言ってほしいけど、それはもういい。このバングルが教えてくれるから。だから翠葉は、今をもっと楽しんでおいで」

 涙が止まらない。これはいよいよ涙腺が壊れたのかもしれない。

「俺たちは、これからも何度だって翠葉の心配をする。それはやめることができない。でも、それを心配と取らないで愛情と思ってくれないか?」

「あい、じょう?」

「そう……。翠葉のことを愛しているから、だから心にかける。心配ってさ、心を配るって書くだろ? それは愛を配ることだと思わない?」

 愛、情……。

「それに押し潰されそうなら、翠葉がもっと俺たちに愛情を返してくれればいい。それで『Give & Take』」

「……それなら負けないよ? だって私、蒼兄もお母さんもお父さんも大好きだもの」

「だろ? それでいいんだよ」

 また、頭をくしゃくしゃと撫でられた。

「……こんなに簡単なことだったの?」

 誰に訊くでもなく口にした言葉。

「そう、すごく簡単なこと。だけど、人は一度迷うとなかなかそこから出てこられなくなるから……。だから自分以外の人の助けがいるんだ」

 そう、なのね……。

 ずっと苦しくて仕方がなかったのに、一気に心が軽くなって浮上した。

 蒼兄はすごいな……。

「私ね、家族のためならなんでもできると思うの。だから私は、私にできることをがんばるね」

 言うと、穏やかな笑みを返してくれた。

 蒼兄のその笑顔が見られるなら、私はなんだってがんばれる気がする。

 それだけはきっと気のせいじゃないよ。


「起きられるか?」

「大丈夫」

 ベッドからゆっくりと立ち上がり、蒼兄に手を引かれて部屋を出る。と、廊下の先から笑い声が聞こえてきた。

 廊下の先にあるドアを開けると、とても広いリビングダイニングに出る。

 そこにいたのは栞さんと湊先生。

「仲直りした?」

 栞さんに声をかけられ、

「ったく、人騒がせな兄妹よね」

 湊先生は文句を口にするものの、さして迷惑そうな顔はしていない。

「アンダンテのケーキ買ってきたから一緒に食べましょう?」

 栞さんに促され、リビングにあるローテーブル前に座る。蒼兄と目配せをし、

「「お騒がせいたしました……」」

 ふたり同時に頭を下げる。

「別にかまわないけど……。ただ、蒼樹が病的なシスコンなのを再確認したのと同時に、翠葉が相当なブラコンなのがよーくわかったわ」

 湊先生は愉快そうに笑う。

 そこに、ハーブティーを淹れた栞さんがやってきた。

「そうなの。いつも仲が良すぎて妬けるくらいよ?」

 湊先生に苺のタルトを差し出される。

「どうぞ」

 フォークを渡され、カスタードがついた苺を口へ運ぶ。

「……おいしい」

 いつ食べても、頬が緩むほどにおいしいと思う。

「くっ、あんた現金ね」

 言われて咄嗟にフォークを置く。

「別に非難してるわけじゃないわよ。食べられるなら食べなさい」

 促されてまたフォークを手にしたけれど、湊先生の視線が気になって食べることができない。

「食べなさい。あんたが嬉しそうに笑ってたら、周りの人間もそれだけで幸せな気分になれるから」

 湊先生の言うことはよくわからないけれど、記憶の中にある大好きな人たちの笑顔を思い出すだけで、私の心はあたたかくなる。

 つまりはそういうことなのだろうか……。

「溶ける前にいただこう」

 蒼兄に言われ、コクリと頷いた。


 その日の夕飯は湊先生のおうちで四人で食べた。

 途中、蒼兄のスマホにお母さんからの連絡が入り、

『蒼樹っ、翠葉は!? 今日、退院したのでしょう? スマホには出ないし、家も留守電だしっ――』

 蒼兄がスマホを耳から離して聞いている。

 ……というよりも、ダイニングテーブルに着いているみんなに聞こえるくらい大きな声だった。

「今、学校医の湊さんの家にいるんだ。翠葉も栞さんも一緒」

『翠葉に代わって』

 苦笑した蒼兄にスマホを差し出され、恐る恐るそれを受け取る。

「もしもし……?」

『翠葉!? 大丈夫なの!? そっちに帰りたかったんだけど、どうしても都合がつかなくて――』

「お母さん、大丈夫。蒼兄と栞さんがいてくれたから平気」

『あら……寂しいの一言くらい言ってくれてもいいのに。お父さんとお母さんいじけるわよ?』

 うちの両親がこういうことを言うと、冗談では済まないので困る。

「えぇと……寂しかったです」

『なぁに? その取って付けたような言い方。で、具合はどうなの?』

「今は微熱。でも明日には下ると思うの。だから大丈夫。心配かけてごめんなさい」

『……いいのよ。手がかかる子ほどかわいいって言うでしょ? ……とは言っても、蒼樹が何から何まで面倒みてくれてるから、お母さん蒼樹に頭が上がらないわ……』

 苦笑が聞こえてくる。と、

『あ、はいっ。今行きます! ごめん、行かなくちゃ。無理はしないようにね』

 言われて通話は切れた。

 きっと会話は全部聞こえていたと思う。

「碧さん、相変わらずね」

 栞さんがクスクスと笑っている隣で、湊先生は呆気に取られていた。

「元気そうな母親だけど、その人からなんでこんな娘が生まれるのか」

 私と蒼兄は顔を見合わせて苦笑い。

 夕飯を食べ終えると、

「あんた病み上がりなんだから、そろそろ帰って休みなさい」

 湊先生に言われ、私と蒼兄は七時過ぎにお暇した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る