15話

 帰宅して熱を測ると三十七度五分だった。けれども、時間が経つにつれてどんどん数値が高くなり、あっという間に三十九度を突破した。

 ものが食べられなくなり、水分を補給するだけでも吐く始末。

「蒼くん、車出してもらっていいかしら?」

「はい」

「翠葉ちゃん、脱水症状を起こしてるから病院へ行こう」

 こういうとき、栞さんは有無を言わせない。

 コクリと頷くと、

「栞さん、もう九時ですから帰ってください。病院に連れていけばあとは俺ひとりでもなんとかなるんで……」

「あらやだ、何遠慮しているの? うちね、今旦那さんが海外赴任中なの。だから、私のことは気にしなくていいわ。それより、車急いでもらえる?」

 蒼兄は頭を下げて、部屋を出ていった。

 悔しいな……。倒れないようにしなくちゃって思ったそばからどうしてこうなんだろう。

「翠葉ちゃん、大丈夫よ。熱は高いけど血圧は下がってない。点滴を打ったら帰ってこられるわ」

 そう優しく話しかけてくれる栞さんに申し訳ないと思う。

「こら、そういう顔しないっ!」

 そういう顔――私、今どんな顔をしているんだろう。

「……ごめんなさい、って顔よ」

 そうなのね。そんな顔をしているのね……。

「そんな顔していると蒼くんが悲しむわよ? ごめんなさいじゃなくて、つらいって言えばいいのに。……こんなときは自分を甘やかしていいの」

 栞さん、私……私ね、もう十分すぎるほどに甘えているの。だから、これ以上甘えるわけにはいかなくて――

 情けない自分に涙が出てくる。

「不器用な子ね……」

「栞さん、車出したんで翠葉連れていきます」

「わかったわ」

 蒼兄が近くまで来ると、

「……泣くほどつらいのか? 大丈夫、夜だから病院まで二十分くらいで着くよ」

 違う。熱は熱でつらいし気持ちも悪いけれど、それよりも心のほうが痛い。

 突如胃が痙攣を始め、目の前に洗面器を用意される。

 数回にわたって嘔吐するも、さっきから胃液しか出てこない。今となっては水分補給に飲んだものも、飲んだそばから戻している。

 食道や喉がヒリヒリして痛い。

「……蒼くん、救急車にしましょう。この状態で車に乗せるのは無理だわ。私、連絡してくるから翠葉ちゃんをお願いね」

 栞さんが席を立ってから十分と経たないうちに救急車が着いた。救急車には栞さんが同乗し、蒼兄は車で来てくれることになった。

 今日は意識があるから、自分がどれだけ人に迷惑をかけているのかがよくわかる。

 吐き気は止まらないし、心臓が頭にあるみたいにガンガンと響く。

 救急隊の人に、「すぐ病院に着くからね。大丈夫だからね」と声をかけられ、栞さんはずっと手を握っていてくれた。

 ひとりになると寂しくて心細くてどうしようもなくなるくせに、誰かがいてくれると自分が情けなくて仕方ないなんて――私はどうしたいのか……。

 どうにもできない自分に苛立つ。

 普通に過ごせるだけでいいのに。ただそれだけで、いいのに。

 どうして――どうしてそれすらできないの?


 病院に着くとストレッチャーで処置室へ運ばれた。

 見覚えのある天井に、何度も来たことのある場所。

「翠葉ー? また熱出したんだって?」

 聞き覚えのある声が降ってきた。

 上から覗き込むようにしてこちらを見ているのは、藤宮先輩そっくりの顔で――

「み、なと、せんせ?」

「そうよ。今日はたまたま当直の助っ人に来てるの。……あーあ、また派手に熱出して……。四十度近くまでって、どうやったらこんな上がるのよ」

 湊先生の物言いにほっとしてしまう。

 気遣われる言葉ではなく、ただただ今の私を見てくれているその視線が心地いい。

 私、こんな状態なのに普通に扱われたいだなんて――どれだけ図々しいのか。

 でも、そっか……。病人扱いされるのがいやだったんだ。

 けど、そんなこと言えない……。四十度近い熱があれば、立派な病人だ。

「湊せんせ……治して。早く、治して?」

「無茶言わないで。一気に熱落としたらもっと吐き気がひどくなるわよ? 点滴に解熱剤を入れて徐々に落とすから。吐き気はひどいの?」

 コクリと頷く。

「気持ち悪い……。頭、ガンガンする。喉も、その奥もヒリヒリする……」

 何がつらいのか、すらすら言えることが不思議だった。

「栞の話だと、何度も胃液を吐いたそうじゃない? ヒリヒリして当たり前よ。吐き気止めも入れてあげるから徐々に楽になるわ。あんた、そんなんじゃ眠れないでしょう? 少し眠くなる薬も入れようか?」

「寝たら……どれだけ迷惑かけたのか、どれだけの人に助けられたのか、わからなくなる。だから、だめ……」

「はい、睡眠導入剤決定。……あんた、かわいくないわ。こんなときくらい医者に全部任せなさい。変なところに気ぃ遣わないの。あぁ、採血するから少しチクっとするわよ」

 言うと、採血の準備をして真空管五本分の血液を採られた。

「ほら、寝ちゃいなさい。寝たほうが回復も早い。……そんな顔したってだめ」

「先生……明日もいますか?」

「何よ、急にかわいいこと言って。……あんたの目が覚めるときにはいてあげる」

「嬉しい……。先生は――だから、好き」

 湊先生と話すのはとても楽。

 みんな、こういうふうに扱ってくれたらいいのに……。

 私は「普通」になりたい。普通に高校へ通って、普通に友達とはしゃいで、普通に休日を楽しんで――

 将来何になりたいかなんて、そんな先のことはわからない。

 ただ私は、今という時間を普通に過ごしたいだけなの。

 それしか望んでいないのに……。なのに、どうしてこんなにも難しいの? どうして――


 意識が浮上する。

 すごくだるくて身体に錘がついているみたい。

 でも、頭が痛いのは少し楽になった。ひどい吐き気も治まったみたい。

 薬が効いたのかな……。

 ミントグリーンのカーテンが視界に入ることを想定して目を開ける。と、

「起きた? 気分はどう?」

「湊先生……おはようございます」

「はい、おはよう。よく寝てたわね」

「半強制的に寝かされましたから……。まだ、だるいけれど、昨夜よりは全然いいです」

「そう。でも、まだ三十八度台よ」

 と、モニターを見せられた。

 ふと気になって病室を見渡す。けれども、いるであろう人の姿がなかった。

「蒼兄は……?」

「んー? 一度家に帰したわ。栞を送ったら戻ってくるって言ってたんだけど。いたって何もできないんだから、一度帰って寝てから来いって言っといた」

 ……私、本当に湊先生が好きだ――

「何よ」

 眉間にしわを寄せて訊かれる。

「……藤宮先輩にそっくりです」

 苦笑して答えると、

「姉弟ですからね」

「……ありがとうございます。兄を……蒼兄を家に帰しくれて」

「あんたはあんたで抱えてるものがありそうね」

 言うと、ベッド脇のソファに腰掛けた。

 処置室や回復室、普通の病室にもソファはない。そこからすると、ベッドが空いていなくて少しランクの高い病室にいるのかもしれない。

「あんた、言わないんだって?」

「え……?」

「具合が悪いことを言わない、って蒼樹が嘆いてた」

 私は苦笑する。

「湊先生には言えたんですけどね……。気づいたんです。私、病人扱いされるのがいやみたい……」

「だって、あんた立派な病人でしょ?」

 先生は長い脚を組んで、ケラケラと笑う。

「本当に……。自分でも図々しいなって思いました」

「まあ、気持ちはわからないでもないわ。蒼樹は心配しすぎ」

 笑って言うけれど、次の瞬間には笑みが消える。

「でもね、私は医者だから余裕があるだけよ? そうでなければ蒼樹のように心配するのが普通なの。それに、あれだけ具合が悪かったら弱音を吐くのが普通の人間がとる行動」

 普通、か――

 私の求める「普通」と、一般的に言われる「普通」とは、何がどう違うのか……。

「先生……。私ね、普通になりたいの」

「……健康な身体になりたいということ?」

 コクリ、と頷く。

「普通に高校へ通って、普通に友達とはしゃいで、普通に――何もなくていいから、普通に毎日を過ごしたいだけなんです。でも、どうしてもできない。そのたびに周りの人に迷惑をかけて、助けられて、すごく自分が情けなくなる。痛いのやつらいのは我慢できるの。でも、気持ちには耐えられなくなることがあります。具合が悪いとき、ひとりはいや。寂しくて心細くなるから。でも、誰かが側にいてくれると、ほっとする反面、申し訳ないって気持ちが強くなって、自分が情けなくてつらくなる。どっちもいやなんて――自分がどうしたいのかもわからなくて……。自分の気持ちにすら自信が持てなくなる。自分が高校に通うことで周りにしわ寄せがいくくらいなら、家にいたほうがいいんじゃないか、って……。考え出すとキリがないんです。もうね、そこまで考えると、自分が消えてしまえばいいのに、と思うくらい」

 話していたら、次々と涙が溢れてきた。

 涙たちは頬を伝い、枕に染み込んでいく。

「翠葉、今までそれを誰かに話したことはある?」

 ……ない。

 頭を軽く横に振ると、

「そう……。パンクする前に私のところへいらっしゃい。いつでも聞くから。……でも残念なことに、そういう葛藤は本人にしかわからないものなのよ。周りはもっと頼ってほしいと思っているでしょう。けど翠葉は、負担になることを恐れるのでしょう? でもね、実際は負担って言うほど負担になんて思われてなかったりするし、心配している気持ちがどれほど重いと感じるものなのかなんて、心配している側にはわからないのよ。人の気持ちほど難しいものはないわ。ただ、あんたはそれを溜め込みすぎ。それが身体の負担になっているのよ。あんた、心労って知ってる? あれが与える影響って侮れないのよ? 死んじゃう人だっているんだから。あんたの自律神経失調症や不整脈はそういうところからも来てるんじゃないかしら。……吐き出せるなら吐き出しなさい」

「……抱えている気持ちが、不整脈につながるんですか?」

「そう。ストレス性のものでも放置しておくと命取りよ。そういうのは治療をしても根源を絶ったわけじゃないから再発するし……。少しずつ、気持ちに折り合いをつけていこう。あんたが消えたら、あのシスコン兄貴は生きていけないわよ?」

 私は大事な返事をするように、「はい」と答えた。

「私……湊先生に会えてよかったです」

 湊先生は藤宮先輩とそっくりな顔で、にこりと笑んだ。


 コンコンコン――

 ドアがノックされ、湊先生が「はい」と答える。

 ドアが静かに開くと、蒼兄が入ってきた。

「……どう?」

「うん。大丈夫……。熱も三十八度台まで下ったし、だいぶ楽になったよ」

 蒼兄は小さくため息をつき、

「三十八度台で大丈夫って言われちゃうんですよ。湊さん、どう思います?」

「翠葉に愛されている証拠だとでも思いなさい。じゃ、私は帰るわ。あと一時間もしたら紫さんが来るから」

 そう言うと、湊先生は手をヒラヒラとさせながら病室を出ていった。

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