月夜にいらっしゃい 〜血まみれの人生から、宿屋のバイトになってみました〜

三木

プロローグ

 冷たく硬い感触が頬を打ち、石の地面に身体を打ち付けた。

 しかし、痛みさえ感じられないほど身体の感覚は狂っていた。

 十数本の骨は折れているだろう。腹部に大きく開いた傷口からの出血は収まらず、臓器もぐちゃぐちゃだ。唯一の救いは痛みを感じることができなくなっていることだろうか。

 ぼんやりとした意識の中で、目を細めたくなるほど鮮明で眩しい星空を見上げた。

 ここはどこなんだろう。

 ボロボロの身体で地を這うように逃げ、何度も生死の境をさ迷いながら崖を転げ落ち、たどり着いたのがどこかもわからない場所とは笑えてしまう。

 遠くから犬の鳴き声が聞こえる。人がいるのだろうか。

 しかし、声がでない。そしてもう動こうにも全身の感覚も飛び、力も入らない。全身の悲鳴はとうの昔に止み、意識も消えかかっている。死を迎えるのにここまで条件が整うのも珍しい。むしろよく生きていたものだ。

 血まみれの人生を送ってきた俺には、痛みもなく死ねるだけ幸福なのだろう。

 そう思い、俺は目を閉じた。

 眠るように死を待つ俺に、差し伸べられる手などないと思っていた。


「生きてますか……?」


 頭上から聞こえた柔らかな女性の声に、俺の消えかかった意識は何も答えない。

 その声からの二度目の言葉はなく、代わりに温かく細い手が俺の首に触れた。

 その直後だっただろうか。俺の意識は深い闇の底へ落ちていった。

 狂ったはずの感覚が最後に残したのは、爽やかなはちみつの香りだった。

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