渦を描く梨の花

千羽はる

大蛇は眠る

月の映る水面に、梨の花の束を散らす。


鏡のように静謐な水面に、白の花弁が星のように散らばってゆく。


水面の藍色とあいまって、星空が地上に降り立ったようだ。


花束を纏めていた赤い飾り紐を風になびかせて、その者は満足げに微笑んだ。


             ・ ・ ・


大蛇は眠る。


 深く静かな青い湖底で、赤玉のような目を固く閉ざしている。


微睡み見る夢は、太古の夢。


 それは、遥か古の。

 それは、少しだけ暖かな一時の夢。


              ・ ・ ・


人は、自ら畏怖するモノを、勝手に「神」と呼んでいた。


この大蛇もまた、その一つ。


 身は青玉のように硬質に煌めく鱗で覆われ、双の眼は闇の中で燃え上がる炎のような赫。


 その大きさは千年の大樹をも超えるほど太く、その吐息は生きとしいけるものの毒となる。


しかし、大蛇はもう神ではない。


 祈りを捧げる者もいない。


 大蛇はただ、長い時を眠るだけ。


 そう定めた自らの在り方を、ふと問うたものがいた。


「……ただ暗闇だけの虚ろな場。よくもまあ、こんな場所で眠れることだ」


 大蛇は、薄っすらと目を開け、侵入者を睥睨しながらも、答える。


『我が寝所を侵す輩が、今世におるとは。なんと愚かな、なんと命知らずな輩であることか』


というのも、大蛇に問いかける者なんてここ数百年現れず、退屈を紛らわすにはちょうどよい時期だった。


光のない洞の中、声の主の輪郭がぼうっと淡く光っている。


その姿は、人間の年若い男のもの。


……ただ、その者の纏う香が、おかしい。


大蛇の鋭い嗅覚は、激しく警鐘を鳴らす。


どこか遠い深淵の緑の香、荒れては凪ぐ潮の香、そして、壮絶に荒れ狂う炎の香を纏う、人の形をしながら、人ではない素性の知れぬものが、目の前にいると。


男は通ってきた道に咲いていたであろう、山梨の香を薫らせている。


大蛇の問いに答える低い声の中に、微かな苦笑が入り混じった。


「あんたの眠りを妨げることに興味はない。ただ、俺は「お役目」上、こういう願いは聞き届けなきゃならない」


『ほう、願いとな。我はなにも望まぬぞ』


「あんたはそうだ。だが、こいつは違う」


 男は、己の背後に隠れた小さな影を前に押しやった。


 ふわり。山梨の甘い香が強くなる。


 その者の姿に、大蛇は赤い目を大きく見開いた。


『―――そなた、は』


「…………ぬしさま」


それは、緊張した面持ちをした小さな、山梨の精。


かつての友と瓜二つの姿をした、暗闇に紛れた大蛇よりもろく儚い一時の花のような存在。


男の声が、呆然とした大蛇の耳に届く。


「これは、あんたに会いたがっていた。俺は、その望みを聞き届ける」


               ・ ・ ・


 この大蛇は、かつて、人と共にあるモノだった。


人は大蛇を「山神」と敬い、大蛇もまた、山の実りを約束していた。


人の祈りとは、かくも素朴で優しく、可愛らしい。


 その時、大蛇には、友がいた。


山の中でも一際立派な、山梨の大樹の精だ。


神木として敬われる山梨の大樹は、自らの実りを皆と分かち合うが喜びだった。


 それは、とても幸福な日々。


大蛇と山梨の精は祈りを聞き届け、人々はその実りに誠実な感謝を返す。


我らは善き人と、善き友と、良き縁を交わしたものよ、と、山梨の精と共に大蛇は喜びを分かち合いながら、長い、長い時を人と共に過ごし続けた。


―――しかし、時は無常に移ろう。


……山梨の木は、ある日、落雷によって呆気なく朽ちた。


山神として敬われた大蛇でさえどうすることもできない、自然の理。


それだけであれば、何とか耐えられたかもしれない。


友を失った悲しみを、乗り越えることもできたかもしれない。


けれど、それだけではことは終わらなかった。


枯れ木は不吉と、立派だった大樹を、人は無情にも伐った。


あまつさえそれまで共に過ごしたはずの大切な樹を廃材とし、人のためにすることさえなく打ち捨てた。


……人はもう、豊かさへの祈りを、感謝の念さえも忘れたのだ。


いつしか人は、大蛇が共に実りを祝い合ったものであったことさえ、忘却の彼方に追いやってしまった。


ただ、その異形の姿がため「災厄を撒くもの」として恐れた。


大蛇は、それまで一度として災いに人を陥れたことなど、なかったのに。


災厄を己の身に落とすまいと、人は感謝ではなく、根拠のない恐怖から大蛇を敬うようになる。


挙句の果てに、大蛇の吐く毒の息にひたすら恐れおののいて、不要な生贄さえ捧げる始末。


大蛇は悟った。自らはただ、人にとってもはや不要のものであると。


『願わくば、彼らに平穏を約束したまえ』


大蛇は、総ての事情を知った僧の哀しげな言葉を了承し、深い深い洞へと身を潜めた。


『おお、我が友よ。我が善き人々よ。そなたらはもう、どこにもおらぬのか』


その慟哭は、もうどこにも届かない。


誰も訪れることのない洞は、大蛇の内面を体現した暗闇にべったりと染まっている。


『ああ――』


哀切の溜息と共に、大蛇はその瞼を閉じる。


すべての出来事から逃れ、ただ虚無の眠りにつくために。


すべて過ぎ去ったはずの、内側に封じ込め続けたはずの、過去。

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