悪魔は婚約破棄をささやく

「やっぱ婚約……やめようか?」


 真剣な話があるというので喫茶店で会ってみれば、わたしの彼は深刻な顔をして婚約破棄を言いだしました。


「どうして?」

 婚約してから彼のことがわかりはじめていたわたしは、予想しながらも冷静に理由を問います。


「いや、なんか……結婚は男の墓場らしくて……」

「またネットで誰かが書いてた?」

「うん。みんな言ってる」


 思ったとおりです。

 彼はまた、『まとめサイト』を読んだのでしょう。

 おおかた、既婚者や、既婚者のふりをした高齢独身男性が書きこんだ「結婚したら地獄」といった趣旨の話を読んだのです。


「みんなではないでしょ。そういう意見もある、というだけ」

「いやほんと、誰も反論してないんだ」

「それはね――」


 わたしは、まとめサイトの仕組みを説明しました。

 基となる掲示板が存在し、そこから、発言を転載していること。

 そして、転載は抽出なので、まとめサイトの好きに論調をねじ曲げられることを。


 しかし彼は、


「ねじ曲げるというのは言いすぎじゃない? なんでそんなことする必要があるんだよ」

「面白おかしくするためだったり、話題性を出すためだったり、とにかく人を集めるためよ。人を集めるとお金になるタイプの商売なんだから」

「そうかなあ。悪く考えすぎだと思うんだけど。ほら、見て」


 スマホのブラウザ画面をわたしに見せます。

 そこには、「結婚 地獄」の検索結果が並んでいました。


「まとめサイトじゃなくても、こんなに結婚は地獄って言ってる人がたくさんいる」

「それは、あなたがそういう意見を探す単語で検索したからじゃない。検索結果は統計とは違って、探したがってるものが出てくるように偏るの」

「そうかなあ。それって悪魔の証明ってやつじゃない?」


 え、どこが?

 わたしは一応よく考えてみました。


 ……いや、絶対違います。

 わたしの発言は、悪魔の証明にはまるで該当しないと思います。

 ないことの証明を求めてなどいません。


 彼はただ、覚えたての言葉を使っただけなのでしょう。


 彼は、すこしまえまでガラケーしか持っておらず、家にもパソコンのない生活を送っていました。

 わたしと婚約してからおそろいのスマホを持たせたところ、そこで初めて触れたネット社会に、耐性なくすっかり毒されてしまったのです。


 会えば、まとめサイトで読んだ話題を持ちだし、そこに書かれていた意見をまるで自分の意見のように語ります。

 誰かが言った「うまいこと」を、さも自分が思いついたかのように披露するのは痛々しくて仕方ありません。


 正直、うんざりしていました。

 わたしは彼と話しているはずなのに、彼を通してまとめサイトを見ているようなものです。


 わたしは大きく息をつき、彼に言いました。


「たしかに、結婚って大変なことも多いと思う。別々の環境で育ったふたりの人間が一緒に暮らすのだから、価値観はもちろんぶつかることもある」

「うん、うん」

「お金の問題だってそうよね。独身時代と同じようにすべて自分の裁量でどうにかなるわけじゃないし」

「そうだよね」


「だから、結婚が地獄じゃないなんて証明できないわ。ごめんね、婚約破棄したほうが身のためよね」

「だろう? やっとわかってくれた」


 これが悪魔の証明です。

 結婚が天国なのか地獄なのかは、あらかじめ証明するものではなく、結婚後のふたりの行動で決まるもの。

 でも、ネットという悪魔に取り憑かれた彼には、もう理解してもらえないことでしょう。


 わたしは悪魔祓いではないので、そのまま彼を置いて喫茶店をあとにしました。

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