第59話:フィーアの試練

「えーっと、次はフィーアさんの番みたいですね……頑張ってください!」

「落ち着けフィーア、それはお前の事だ」

「ふぇっ!? ふぃ、フィーアって私のことですか!?」


 二人の姉が先に突破した影響でフィーアの緊張が少し和らいでいたはずだった。

 しかし自分の名前が呼ばれたことで、その緊張は一瞬の内にまた極致へと達してしまった。


「フィーア……まずは落ち着いて深呼吸だ、深呼吸」

「し、しんこきゅうですね……しんこきゅう……しんこきゅうって何でしたっけ……?」

「深い呼吸だ……ほら、まず息を大きく吸って」

「吸う……はい……。すー……」

「次は吐く……、それを繰り返すんだ」

「はー……」


 フレイの指示に従って、フィーアが何度も深呼吸を行う。

 すでに合格した二人はこれから試験へと赴かなければならない妹の緊張ぶりを不安げに見守っている。


「それから、なんでもいいから良いことを考えるんだ」

「良いこと……ですか?」

「ああ、例えば、そうだな……、試験に合格してうちに帰ったらしたいこととかだな」

「合格して……帰ったら……」


 フレイの言葉に、一旦消極的な思考から解放されたフィーアが中空を眺めながら思案し始める。


「美味しいご飯が食べたいとか! イスナ姉の作った!」

「イスナお姉ちゃんのご飯……私も食べたい……」


 既に合格済で余裕のあるサンだけでなく、まだ自らの試験を控えているフェムがフィーアの緊張を解すために会話へと加わる。


「わ、私!? ま、まあ……構わないけど……」


 イスナはそんな突然の提案に驚きながらも、すぐに満更でもなさそうな表情になる。


「合格祝いのイスナ姉さんのご飯……確かにそれは楽しみかもしれません……」


 テーブルに並ぶイスナの料理を夢想したフィーアは、顔を緩ませて口の端から僅かに涎を垂らす。


「でも、貴方の食べるだけの量を作るとなるとかなりの大仕事ね」

「では、その際は私もご助力させて頂きます」


 これまでは後方でじっと試験の流れを見守っていただけのロゼも会話に加わる。


「じゃあじゃあ! あたし、あれ食べたい! あの――」


 フィーアだけでなく各々があれが食べたいこれも食べたいと、思いのままにその欲求を述べ始める。


「おーい! 何やってんだー! 早く出てこい!」


 なかなか出てこないフィーアに対して、再度魔王が呼びかける声が姉妹たちの元へと響いてくる。


「え、えっと……み、皆さん! 本当にありがとうございます! わ、私……頑張ってきます!」


 フィーアは自分を元気づけてくれた皆に対して、ぺこぺこと何度も慌ただしいお辞儀をする。


 その顔にはまだ多少の緊張こそは残っている。

 しかし、それは先ほどと比べると深刻な程ではなく、姉妹たちも一旦ほっと胸を撫で下ろす。


「ああ、頑張ってこい。合格したら、みんなでお祝いだ」

「はい! 行ってきます!!」


 フレイがフィーアの背中を軽く押して場内へと送り出す。

 何もない平坦な場所で何度かコケそうになりながらも、フィーアは無事に会場の中央へと到着した。


「お、お久しぶりです! お父様!」


 所定の位置についたフィーアが父親に向かってぺこぺことお辞儀を繰り返す。


 イスナと真逆なその態度に、会場もまるで時間の進みが遅くなってかのような和やかな雰囲気に包まれる。


「よう、お前も相変わらず……どんくさいというか……見てて危なっかしいというか……」

「ご、ごめんなさい……」

「すぐに謝るところも、相変わらずだな。でも、まあ……顔つきはちったぁマシになったんじゃねぇか? それも、あいつのおかげか?」


 魔王が顎をしゃくり上げて後方でフィーアの背中を見守っているフレイを指し示す。


「は、はい……先生には本当によくしてもらって……こんな私でも少しは自信が持てるものが出来たと思います……」

「そうかい……んなら、今からそれを試させてもらうとするか」

「はい……頑張ります!」


 試験がもうすぐ始まるという緊張感の中、フィーアが力強く返事をする。


「おい! 持って来い!」


 魔王が大きな声で部下へと向かってそう告げると、門の向こう側から今度は一人のオークの男が机を運んできた。


 そのまま机をフィーアの前に設置し、懐から取り出した大きな一枚の紙片を置いた。


「あのー? これは何でしょうか?」


 紙片は何も描かれていない裏面が上にされている。

 現時点ではそれに何が書かれているのか、フィーアからは確認することも出来ない。


 全容が全くもって不明なそれを前にして当惑の感情を抱いたフィーアが、怪訝な視線を父親に向ける。


「そいつにはな、ある問題が書いてある」

「問題……ですか……?」

「ああ、そうだ。その問題に対する答えを出すのがお前への試験ってわけだ。前の二人と違って身の危険があるわけじゃねぇから安心したか?」


 じっと机の上を見据えるフィーアへと向かって、少しの皮肉を込めたような口調で魔王が試験のルールを告げる。


「ただし……時間は十分だ。それを一秒でも超えたら当然、失格だ」

「十分……」


 まだどんな問題なのかは分かっていない。

 それでも十分という長くはないであろう制限時間に対して、フィーアが固唾を呑む。


 そのまま僅かに震える手を問題の書かれた紙の上に置いた。

 先の二人とは違って大掛かりではない試験を前に、フィーアだけでなく観客たちも妙な沈黙に包まれる。


「そいつを表にしたら開始だ。覚悟が決まったらタイミングは自分で決めな」


 魔王がそう言った直後、フィーアは大きく深呼吸して決意を固める。

 先に合格した二人から貰った勇気を、今度は自分が後に控えた二人に受け渡す番だと。


 そして、まだ僅かに震える手が紙片の端を掴んで一気に翻した。


 表面にはフィーアが自室を資料に山で埋め尽くした日から幾度となく見てきたものがあった。


 それは紙の上に描かれた仮想の戦場に関する状況図。

 大きな戦いの最中で行われた中規模部隊による局所戦闘が図上に記されたものであった。


 状況は既に自軍が敗色濃厚で、後はどれだけ被害を抑えて部隊を拠点まで撤退させるかという段階に至っている。


 だが、それは今のフィーアが苦慮する程の難問ではなかった。


 フィーアの持つ超常の観点と、短い期間ながらも必死に積み重ねてきた理。

 その二つを以て、その戦場における最適な行動は一瞬の内に彼女の脳内で導き出された。


 撤退戦の際に、自軍部隊はどれだけ甘めに見ても半数は敵の手にかかってしまう。


 この状況で重要なのはその取捨選択。


 敵の規模と編成から更なる追撃の可能性は高い。

 撤退後は拠点での防衛戦になることも見据える必要がある。


 そこで防衛の要となるのは、魔法使いを始めとした後方支援部隊。

 故に、ここでの最適解は前衛部隊を殿として魔法使いたちを逃がす時間を稼がせることだった。


 当然、数で勝る敵を食い止める前衛部隊は壊滅的な被害を受けてしまう。

 だが、後のことを考えれば、それ以外の選択はない。


 そう判断したフィーアが審判を下す父親へと向かって答えを紡ごうとした時、視界の端に一つの注釈が目に入った。


『前衛部隊にはサンが、後方支援部隊にはイスナがいるものとする』



**********



 フィーアは魔王の四番目の娘として生を受けた。


 母親は魔王に次いでその名を魔族界中に轟かせる伝説的な吸血鬼であり、フィーアは父親よりも母親の背中を見て育ってきた。

そして、『いつかお母様みたいに皆から慕われ、頼られる強い女性になりたい』という想いを胸に武術や魔法の訓練に励んだ。


 だが、そんな彼女を待っていたのは才能という残酷な現実だった。


 彼女がどれだけ武術の訓練を重ねても、まともに剣を振ることさえままならず。

 どれだけ魔法の訓練の重ねても、最下級の魔法すら使えるようにならなかった。


 あの二人の娘なのにどうしてと、周囲も次第に憐憫と嘲謔が混ざったような目で彼女を見るようになった。


 しかし、それでも自身の抱える深い絶望を表に出すことなく、フィーアは常に明るく、誰に対しても穏やかに接し続けた。

 そんな折に、父親から自分たちに教育係となる者が充てがわれる話を聞かされた。


 他の姉妹がその事を疎ましく思う中で、フィーアだけはそれに最後の望みを託した。


 その人なら、もしかしたら自分の秘めた才能を見出してくれるかもしれないと……。



**********



「……っ!」


 注釈を読んだフィーアが、口元を手で抑えて絶句する。


 そこに書かれていたのは紛れもなく二人の姉の名前。


 辿り着いた答えは片方を見殺しにしなければならない事態を示していた。


 当然、それらは現実の事ではなく、紙の上に書かれた仮想の戦場の事に過ぎない。

 今ここで仮に導いた答えを選んだとしても、姉妹たちが死ぬような事は起こらない。


 しかし、その文言は心優しい彼女に大きな動揺を与えるには十分過ぎるものでもあった。

 自分が進もうとしているのはその取捨選択をしなければならない道なのだと。


 フィーアは導き出した答えを言葉にすることが出来ないまま固まり、時間だけが刻一刻と過ぎていく。


「何が書いてるんだろ……?」

「さぁね、ただ……かなりの難問なのは間違い無さそうね……」

「うへぇ、あたしなら絶対無理なやつだ……」


 完全に硬直してしまっているフィーアの背中をサンとイスナが心配そうに見守る。

 フィーアが実際に向き合っているのはただの難問ではなく彼女が避けて通ることの出来ない宿業。


 安全圏から姉妹の命を切り捨てるような冷酷な命令を下せるのかという問いかけであった。


 フィーアは自問自答を繰り返しながら、机の上に置かれた紙片をじっと睨むように見つめ続ける。

 その頭の中でどんな思考が渦巻いているのか、周囲からは誰も理解できない。


 そのまま更に時間が経過し、制限時間である十分が経とうとした頃――


「まず……」


 フィーアが視線を伏せたまま、ゆっくりと口を開いた。


 それを受けて父親であり、試験官でもある魔王は椅子の上で娘が辿り着いた結論を待つ。


「状況はかなりの劣勢で、これ以上の戦闘継続は被害を無駄に広げるだけなので、すぐに撤退を指示します……」

「なるほどな、それでどう撤退させんだ?」

「撤退後は敵の追撃に備えて拠点を防衛するための戦力が必要になります……。だから、防衛の要となる魔法使いを中心とした支援部隊を先に撤退させるために、前衛部隊を殿として時間を稼がせます……」


 考え抜いたフィーアが出したその答えは、問題を見た瞬間に導き出した答え、そのままのものだった。


「だが、戦力差を考えりゃ、それだと前衛部隊はほぼ壊滅。サンは死ぬ事になるが、お前はそれでいいのか?」


 サンが死ぬ。


 書かれている問題の内容を把握している魔王がはっきりとそう告げた。


「え!? 私死ぬの!? なんで!?」

「問題の話だ……少し静かにしてろ……」


 いきなり自分が死ぬと言われて狼狽えるサンを隣のフレイが諌める。


 魔王の言葉を聞いた彼はフィーアの前にある紙に何が書いてあるのかを概ね把握する。


 なんてえげつない問題を出すんだと考えながらも、それでもフィーアならその究極の選択に対して自分なりの答えを見つけてくれると信じた。


「はい……これが一番多くの人を救える選択です……」


 まだ地図に視線を落としたまま、フィーアが口をぎゅっと引き結ぶ。


「まあ確かに……それが最適解だ」


 フィーアが正解を導き出した事を示す言葉に、観客席から小さな歓声が上がる。


 しかし試験はまだ終わっていない。

 問題の本質は別のところにあると気づいている極少数はまだ黙ったまま事態を見守っている。


「だが、これはあくまで全部仮の話だ。現実にはサンも、誰も死ぬことはねぇ」


 そのことは当然分かっているフィーアが小さく頷く。


「現実の戦場では、指示通りに上手くいくとも限らねぇし、お前の選択一つで誰かが生きて、代わりに誰かが死ぬこともある。本当に姉妹だって切り捨てないといけねぇ時がくるかもしれねぇ。そん時、お前に同じ選択が出来るか?」


 大上段から魔王が改めて問いかける。


 その問いかけこそが本当の試験であり、フィーアに真の覚悟を問うものであった。


「その時が来たら……私にその決断が出来るのかどうかは正直に言って、まだ分かりません……でも……」


 対するフィーアは視線を伏せたままおずおずと言葉を紡ぎ出していく。


「でも、なんだ?」

「私はその決断を下さないといけなくなる、その直前まで……」


 伏せられていたフィーアの視線が徐々に上がっていく。


「最後の最後まで……みんなが生きられる方法を必死で探すと思います」


 そして、強い覚悟の込められた目で父親と母親が立つ場所をしっかりと見据えながらそう言い切った。


 それを受けた魔王は、先刻のフィーアが制限時間いっぱいまで思案し続けていた姿を思い出す。


 彼は当初、その姿が答えが出ているにも拘らずに、机上の死にすら強い躊躇を覚えているのだと見ていた。


 故に、その時点では四女に対して不合格を言い渡す気でいた。

 まだ本物の戦場で戦う覚悟が全く足りていないと。


 だが、彼女が真に抱いていた覚悟は魔王が想像していたそれの斜め上を行くものであった。


「あめぇな……」


 フィーアの覚悟、戦場に持っていくには甘すぎる理想に対して魔王が率直な感想を口にする。


「そう……ですよね……」


 フィーアは自分でもそれが子供じみた理想だということは分かっていた。

 それでも試験のためだけにその場凌ぎの嘘をつくことは出来なかった。


「……だがな」


 これで自分は不合格だと肩を落としたフィーアに向かって、魔王が不敵な笑みを浮かべる。


「そんな青臭い理想を抱くのは若い奴の特権だ! 俺に向かって堂々と言いやがったからには、その理想を追求してみやがれ!」


 娘の覚悟を王として受け止めて宣告する。


「え……? は、はい!」


 突然のことに狼狽えながらも、しっかりと返事をするフィーア。


「なら、今日のところは合格にしといてやるよ!」

「ご、合格!? ほ、本当ですか!?」

「だが! あくまでも今日のところはだ! お前が本当に試されるのは、これからだって事だけは肝に銘じておけよ!」

「は、はい! ありがとうございます!」


 フィーアが父親へと向かってペコペコと可愛らしく何度もお辞儀を繰り返す。


 合格が確定したことから少し遅れて、観客たちもまばらに湧き始める。


「み、皆さんも! ほ、本当にありがとうございました!」


 その場でくるくると周りながら、観客たちにも律儀にお辞儀をしていくフィーア。

 栗色の髪の毛が生えたその頭がせわしなく動き度に、まばらだった歓声が大きくなり、すぐに場内を震わせる程の大歓声となった。


 将来的に命令を下すことになるかもしれない彼らからの応援は、フィーアにとって何よりの祝福となった。


「おい、ノイン。ちったぁお前に似てきたんじゃねぇか?」


 大歓声の中、魔王は少し離れたところから見守っていた妻の一人――フィーアの母親へと声をかける。


「ふっ、我はあれほど青臭くはないがな」


 小さな体に似つかわしくない尊大な口調でノインが答えた。

 言葉とは裏腹に、顔には母親としての誇らしげな微笑が浮かんでいる。


「人一倍喜んでるくせに、相変わらず素直じゃねぇやつだな……。おい! フィーア、お前はもう戻っていいぞ!」

「は、はい! 失礼します!」


 フィーアは上段にいる魔王とその妻たちへと向かって最後に大きなお辞儀をする。

 帰り道は一度も躓きそうになることなく、フレイや姉妹たちの待つ場所へと戻っていった。


「えへへ、やりました」

「やるじゃん! フィーア! でも、この~よくもあたしを殺してくれたな~。そんな悪い妹はこうしてやる! うりゃ! うりゃりゃりゃ!」


 はにかみながら戻ってきたフィーアにサンが組み付き、栗色の髪の毛を両手でわしゃわしゃとかき乱す。


「わっ! わわっ! さ、サンちゃん! ごめん、ごめんってば!」

「ごめんで済んだらうりゃうりゃ~!」


 更に髪の毛をかき乱すサン。

 フィーアはそれを姉なりの祝福だと受け止めて、笑顔でなすがままにされている。


「こら、その辺にしとけよ。まだ終わってないんだからな」

「ちぇっ、はーい……」


 フレイに言われたサンが大人しくスキンシップを止める。

 だが、その頃にはフィーアの頭は爆発したかのようにぼさぼさになっていた。


「でも、まあ……知らない誰かに命令されるくらいなら、フィーアに死んでこいって言われる方がまだマシだよね」

「サンちゃん……」

「だから、その時が来たら悩まずに命令しなよ。まあ当然あたしは死なないけどね! にゃははは!」

「あはは、サンちゃんは強いもんね」


 悩んでいたことが馬鹿らしくなるような清々しい笑顔を見せられたフィーアが釣られて笑う。


 その微笑ましい光景を隣で見ているフレイとイスナも頬を緩ませた。


「まあ、とにかくおめでとう。よくやったな、フィーア」

「はい! 全部、先生のおかげです! 本当にありがとうございました!」


 フィーアが今度はフレイに向かって深々と頭を下げながらお礼の言葉を紡ぐ。


「その言葉はありがたく受け取っておくよ」


 フレイは礼を受け取りながら、フィーアの乱された髪の毛をぽんぽんと軽く叩くように撫でる。


「さて、次は……」


 続けて、フレイは視線を場内の方へと向ける。

 場内ではちょうどフィーアの使った机が撤去され、魔王が次の者の名前を宣言しようとしているところだった。


「よーし! それじゃあ次行くぞー! 次は……」


 残すはフェムとアンナ、長女と末妹。

 次はそのどちらが呼ばれるのか、フレイが神妙な表情をしながら魔王を見据える。


「次はフェム! お前の番だ!」


 そして、四番目の挑戦者の名前が魔王の口から告げられた。

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