3節「寄り合い 1」

「そう、気を落とすんじゃない」

 干し柿売りの志ずゑ婆さんが言う。杏で手すさびしている。

「ああいうのはいまの帝都じゃ珍しくもない。中央区とかを除いてはね」

 彼女の言う通りで、市街地の周縁地域は絶えず暴威にさらされている。

 治安を維持する近衛このえ部隊と警察が騒擾そうじょうに目を光らせているのは、九重ここのえ宮城きゅうじょうや中央官庁を含む中央区、北区の高級住宅街といった一部の区域のみだ。

 官憲が警らしている地域では贅沢ぜいたく品も込みの配給がきっちりと行き届いており、野卑な勢力から完全に隔絶されていた。配給を受ける住民は華族や碩学位せきがくいをはじめ、資産家や高級官吏などの上流階級ばかりだ。配給に頼らねば今日を生きていけないほど困窮した生活を送っている者はいないはずである。

 なのに、どういうわけか配給は上流層に対してのみ行われ、明日をも知れぬ生活を送らざるをえない者の多い地区は野放図にされていた。ほんの二、三里ばかり北上した場所は、まるで地続きだとは思えないほどの別世界が広がっているのだ。

 おかしいと感じる者がいても、生きるのに精いっぱいな人々は怒りよりも先に飯と金へと思考が向く。また、ときに怒りが鎌首をもたげても、その矛先はより弱い者へと向いてしまいがちだ。

「珍しくなくても、死は死だろう。……妻子ある人だったんだぞ」

 暴威吹き荒れる帝都市街の中でも、道重が巡回しているいちは安全だと、商人筋でひそかに言われていたのだが、

「もはやどこにも例外なんてありゃしない」

 杏を種ごと飲み込んだ志ずゑは、医療箱に包帯と消毒液をしまう。

「当たる気はなかったんだ。悪いな婆さん……、老人に使い走りをさせちまって」

 この老婆はひねた言い方をするが、悪意あってではない。素直でないだけだ。

「年寄りなんてまだまだ元気なうちに使っときな。ちゃがまってからじゃ使い物にならんちゃ。あたしも若いころは年寄りをあごでつかったもんだ」

 兵隊崩れが米売りに突っかかったのを見かけて、売り物を放り出してすぐに道重を呼び戻しにいったのも志ずゑ婆さんだ。残念ながら間に合わなかったが。

「しかしこのいちもついに目を付けられちまったなぁ。どういたもんだぇ」

「それを話そうと思ってな、何人かに声をかけてみたんだ」

 通りの向こうに広がる荒れた市を見つめながら老婆がため息をつく。騒動も落ち着いて人足は戻ってきているが、商店主たちはいつまた連中が来やしないかとびくついて商売に身が入らないようだ。身軽な者にいたってはすでに店をたたんで河岸を変えている。


 立てつけが悪く、開きっぱなしの戸がきぃきぃと揺れた。

 待ち人かと道重が視線をやるも、ぼろ着をまとった見知らぬ男が入ってきただけであった。道重の待ち人ではない。男は道重を気にせずに進んで止まり木に腰かけ、飯屋の店主に何かを注文をしている。

「来るかねぇ」

「来てもらわないと困る」

 道重は老婆と向き合い、何を注文するでもなく思案顔だ。

 この店で注文をするといっても、物資が少ない中のお品書きはすいとん汁だの、みそ汁だの、雑魚ざこのうしお汁だのといった汁物ばかりだ。フスマを混ぜた粗悪な小麦粉で作られた団子入りの汁など食べられたものではない。みそ汁は水みたいに薄い。

 いずれも外で金を払って味合うような代物ではない。家で食べるだけで間に合っている。

 道重は米が入った手元の袋を強く握りしめるた。そもそも何かを食べる気分にもならない。

「一人は来てるけどねえ」

「ありゃ来てるんじゃなくているんだよ」

 話題に出された飯屋の店主がにっこり笑いかけてくる。

「そういえばここは荒らされてないのか?」

 道重が声をかけるとひげ面の飯屋は笑ったまま、「見ての通り元から荒れてる!」と息災な様子だ。この店が流行らないのは時流のせいだけにはできない。

 店内の机は乱雑に置かれているし、椅子に至っては足が折れているのもある。使っていない食器にはほこりが積もっているのを道重は知っている。包丁も使わないものは砥がれた形跡がない。それらは戦争のせいではない。店は戦前から荒れたままなのである。ここの店主は体格も顔も性格も大雑把なのだ。

 そのくせ酒だけはきらさずにどこかから仕入れていて、一部の酒飲みには居酒屋として知られていたが、それでも店主はうちは飯屋だと言い張る。

 酒も戦中は流通が厳しく制限されていた。戦争が終わってからは先に必需品を行き届かせる観点から、嗜好品となる酒は後回しにされている。そんな中で入ってくるのはもっぱら三増酒さんぞうしゅばかり。あんなものを酒として扱うのは困ると店主が嘆いていたのはつい先日のこと。

 かんをちびりちびりとやっている客が何か店主に話しかけたので、道重は邪魔をしちゃ悪いと通りに目をやった。


 しばらくして、ようやく待ち人が連れ立ってやってきた。

 飯屋はものを食いに来た客じゃないと弁えているので、いらっしゃいの一言も発しない。

 こうして時間をかけて集まったのは金物屋、荒物屋、青物あおもの屋といった店舗をかまえる者、鋳掛いかけ屋、刃物研ぎといった店を持たない者、傘屋、畳屋といった職人に近しい者の計七人。そこに干し柿売りの志ずゑ婆さんと金貸しの道重、場所を貸している飯屋が輪に加わり総勢で十人となる。

「あのお客さんは放っておいていいのか?」

「ああ、ゆっくり飲んでるから気にしないでくれってよ。癇は勝手に作ってもらう。店主の俺がさっき決めた」

「いつ来てもいい加減だな。飯屋だって言い張るんなら包丁ぐらい研いどけよ」

 刃物研ぎが自分の仕事にしたくて言う。

「鍋も底が抜けてんじゃないのか?」

 鋳掛屋も同じような理屈で追い打ちをかける。

「畳も荒れてるぞ」

 座敷に敷かれた畳のささくれを引っ張るのはもちろん畳屋だ。

 三人からいきなり小言を浴びた飯屋は面倒臭そうに手を振った。

「今日はそんなことを言わせに呼んだんじゃないんだろう?」

 道重に話頭わとうを転じた途端、座は一斉に静まり返る。

 志ずゑ婆さんも杏を含んだまま口を止めて渋面を作っている。他の面々も似た顔つきだ。

 自分たちがなぜ集められたのか。誰もが薄々とその理由を察していた。

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