137.山登りの遭難②(怖さレベル:★☆☆)

緊張が抜けたのと、痛み止めの副作用で、

なんだか眠くなってきました。


時間は、まだ昼を少し過ぎた頃合い。

太陽は真上にさんさんと照っているのに、なんだか現実味がありません。


わたしは、いつ連絡が来ても大丈夫なように、

携帯電話を頭の横に置いて、

そのままそっと目を閉じたのでした。




ホーッ……ホーッ……


ふくろうのような声が、薄らいだ意識の中で聞こえてきます。


おぼろげな夢の中からフッと頭が覚醒して、

わたしはパチパチとまばたきしました。


「あれ……ここは……」


見開いた視界には、ただただ暗い闇が広がっています。


状況が飲み込めずに、両手で頭を揉んでいると、


「っぐ、痛ぇ……!!」


猛烈な足の痛みに、

私はようやく登山で足を滑らせたことを思い出しました。


「あ……救助……!!」


いつ着信が来てもいいようにと、

耳元に置いていた電話を拾い上げました。


しかし、


「ウソだろ……?」


着信なし。


時刻は『19:23』。

最初の電話を入れてから、すでにかなりの時間が経っています。


(助けは……? 一体どうなってるんだ……!?)


いくらなんでも、遅すぎる。


まっくら闇の中で、たった一人。

このまま、激痛に耐え続けなければならないのか。


テントでも張っておけば、と後悔がよぎりました。


低い山とはいえ、

夜は野生の獣の動きが活発になります。


火を起こすくらいはした方がいいかもしれないと、

私は再び痛み止めの錠剤を口に放り込みつつ、

荷物をあさり始めました。


(水……明日までなら、ギリギリってところか……)


命綱である飲料水は、もって二日分。

食料も、心もとない量しかありません。


(クソッ……こっちから、もう一度連絡して……)


催促もかねて、

電話を入れようと携帯電話を持ち上げた時です。


……ガサッ……


草が擦れる音が、聞こえました。


「…………」


ピタッ、と電話を持った手が止まりました。


かなりの近距離で聞こえた、葉ずれの音。


脳内に、登山の道中で何度か目にした、

『クマ出没注意』の看板がチラつきます。


(大きい物音を立てるか……? それとも、ヒッソリとやり過ごすか……?)


これが本当にクマであれば、音を出して騒がしくするのが正解です。


でも、残念ながらクマ対策用の爆竹は持ってきていないし、

大きい声を上げれば、間違いなく左足の骨折に響くでしょう。


私はリュックから、ゆっくりと火起こしの器具だけ取り出して、

耳をそばだてました。


……ガサッ……


(……近づいて、きてる……!)


音は、さっきよりも大きくなりました。

ガサガサと、草をかき分けるような物音が一緒に聞こえてきます。


シカか、タヌキ、もしくはキツネ。

どうにか、害のない動物であってくれ。


私は祈るように両手をグッと握り、

じぃっと音のする暗闇へと目を凝らしました。


ほんのわずかな夜空の星明りに目が慣れ始め、

ぼんやりと、木の輪郭や葉っぱの姿が見えます。


その合間から――フッ、と人工的な光が差しました。


「おやっ?」

「……あ、っ」


木々の合間から姿を現したのは、ひとりの男性です。


額につけられたヘッドライトがわたしを照らし、

逆光の中、驚いたような表情を浮かべていました。


「ど……どうしたんです。明かりもつけずに」


その人はおそるおそる、といった感じでわたしのそばまで来ると、

マジマジとこちらのことを見下ろしました。


確かに、今は火すら起こしていない状態。

まっくら闇にポツンと人がいる状況は、どう考えても異常です。


「いやぁ……実は、あの上から滑り落ちてしまいまして。左足が折れたらしく……今、救助を待っているんですよ」


わたしは、人に会えたという安堵感で泣きそうになりながら、

彼に現状を説明しました。


「痛み止めで眠っていて、今目が覚めまして……火を起こそうかと思っていたところに、あなたがいらしたんです」

「ああ、そうだったのか……そりゃあ災難だったねぇ。左足、って……こりゃあ、ずいぶん腫れちまってるね」

「ええ……痛み止めはまだ効いているので、しばらくはどうにか」


ジクジクと痛み続けている左足に意識を向けないようにして、

私は苦笑いして携帯電話を持ち上げました。


「それに、これからもう一度、救急隊に連絡を入れようかと思っていたところです」

「ほお。……そうだ、食料や水は大丈夫かい?」

「あはは……いや、実は、少し心もとなくて」


目の前の男性は、いかにもベテラン、といわんばかりの重装備。

そんな登山家の相手を前に、私は気恥ずかしくてうつむきました。


「そうかぁ……分けてやりたいんだが、オレもそんなに量を持ってるわけじゃないからなぁ」


男性は申し訳なさそうな表情をした後、

ハッ、と表情を明るくしました。


「そうだ。代わりといっちゃなんだが……すぐそこに、沢があってな。水もキレイだし、飲み水代わりにもなるだろ。ここじゃ見通しも悪いし、連れて行ってやろうか?」


と、わたしを気づかって提案してくれたんです。


(どう……しよう)


わたしはせっかくの申し出に、うう、と悩みました。


というのも、一度目の救助要請の際、

なるべく今いる場所から移動しないように、と指示を受けていたんです。


しかし、当の向こうから連絡が来ていない以上、

水という貴重な資源のある場所に移りたい、という気持ちもありました。


「もちろん、無理にとは言わねぇが」


男性は、渋るこちらを見て気さくに笑います。


せっかくこうして言ってくれているんだし、断るのは悪いなと、

わたしはゆっくりと体を起こして言いました。


「いえ……せっかくのお申し出ですし、移動させていただこうかと」

「そうかい? そうだな、その方がいい。じゃ、肩を貸してやろう」


男性が、わたしの腕を引いて肩にかけ、

そっとそのまま立ち上がろうとした時でした。


ガサガサガサッ……!!


突然、草むらの方から、大きな物音が聞こえてきました。


「っ……い、今の……!?」

「シッ……獣かもしれん」


男性は組みかけた肩をほどくと、

ヘッドライトを調節しつつ、用心深く周囲を見回しています。


(獣……!? まさか、本当にクマじゃないだろうな……!?)


脳裏には、かつてテレビで目にした熊害の

悲惨な事件の数々がよぎりました。


わたしたちがそっと息を殺していても、


ガサッ……ガサガサッ……!!


音は全く収まらず、だんだんと近づいてきているように思えました。

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