96.踏切前のアパート④(怖さレベル:★★☆)

「おっ、沼田さんじゃないですか」


両手で口を押さえ、吐き気に耐えていると、

またしてもあの大家が上機嫌で階段を上ってきました。


「いやー、一日に二回もってのは珍しいですねぇ」


ニマニマといやらしい笑みを浮かべ、

目をそむけたくなるようなその惨状を、パシャパシャと撮影し始めます。


「…………」


俺が言葉もなく立ち尽くしているのに気づいたらしく、

大家は目を半月状に歪めたまま、顔を上げました。


「ああ。……もしかして、沼田さんも見ちゃいました?」

「えっ……?」

「夢ですよぉ。……線路に入る夢、見ちゃいました?」


なんでお前が知っている。


そんな、おぞましいモノを見る表情を浮かべたのに気づいたのでしょう。


大家は取り繕うようにわざとらしく、

コホン、と咳払いして続けました。


「いやぁね。たまーに影響されたそういう夢を見る、って言われるんですよ。

 ほら、知ってるでしょ? あのOLの子。あの子もそうでした。

 沼田さん、ずいぶん参ってるようにみえたもんですから」

「あぁ……そう、ですか」


自殺者が多い踏切のそばだ。

たしかに、そういうコトもあるかもしれない。


そう納得しかけた時、ふ、と考えてしまったんです。


「……大家さんは」

「ん?」

「大家さんは、見ないんですか? 事故の夢」


他意のない、ただ純粋な疑問。


彼は一瞬、虚を突かれたような顔をした後、


「あっはは。見ますよ……しょっちゅう、ね」


ニンマリ、と唇を吊り上げたんです。


「ああ、でもきっと、沼田さんが思っているような夢ではないですねぇ。

 私は押す側……っと、警察が来たみたいですね」

「え……?」


不穏な単語が聞こえた気がして聞き返そうとするも、

彼はパトカーのサイレンに引き寄せられるように、

パタパタと階段を下りて行ってしまいました。


「……押す、側?」


チラリと耳にしてしまった、その謎の単語。


押す側。押す側?

なにを――人を?


「…………ッ」


ゾゾゾッ、とその非情さに、全身が総毛だちました。


俺の夢の中のように、なんとか寸前で思いとどまった自殺志願者。

それらの人の背中を、押すというのでしょうか。


「…………」


家賃の安さのことは、もう頭から抜け落ちていました。




「残念ですねぇ。なかなか、長く住んで頂いたんですけど」


翌日、俺ははやばやと退去の手続きをとりました。


大家は口ぶりこそ残念なふうを装っているものの、

やはり、あの不気味な笑みを口元に携えています。


「急で……すいませんね」

「ま、こんな場所ですから。入れ替わりが激しいのは

 しょうがないんですけどねぇ」


サクサクと書類を用意する大家は、まるでこうなることが

わかっていたかのように迅速に手続きをすませました。


「いやぁ……それにしても残念だ」

「はい?」


対面での手続きはすべて終わり、後日引き払いの手続きを行うということで、

俺がさっさとアパートから、一時的に実家へ戻ろうと部屋を出た時、

大家が独り言のように呟きました。


「沼田さんは、夢まで見てくれたからなぁ」

「はぁ……珍しくないんですよね?」

「えぇ……まぁ。でも、そこまで長居してくれない人もいますからねぇ。

 残念です。本当に……残念でしたよぉ」


うっすらと笑みを浮かべる大家は、怖気が走るほど気味が悪かったですね。


俺は愛想笑いで適当にごまかして、

そのまま速攻で実家に帰宅しました。


そして、その夜……夢、見たんですよ。


あの、カンカンと鳴る遮断機の下。


前の日とまったく同じ、身体は思うように動かず、

どんどん線路に近づいて行って。


左側から走り込んでくる列車。

距離が近づいて、あと少しでぶつかってしまう――!


(……やばい!)


間一髪。


ギリギリで踏みとどまり、足をとめたその瞬間。


ドン、と背中を押されたんです。


(あ……っ!!)


もつれる足、倒れこむ身体。


スローモーションのように電車が近づいて、

全身に風圧を感じて――。


……そこで、目が覚めました。


えぇ……きっと、気にしすぎ、なんですよね。


……あぁ、今は見てません。

あんな夢を見たのは、後にも先にも、あの二回だけ。


でも……あの時、アパートから逃げ出したのは、

我ながら英断だったと思っていますよ。


だって、後から聞いたんですけど。


何度か話に上がっていた、あのOLの女性。


彼女……ほんとうは引っ越したんじゃなくて、

あの線路に飛び込んで亡くなっていたんです。


理由はわかりません。

仕事か、恋愛関係か、家庭か……別のことか。


自殺したくなるほど、悩んでいたのかもしれません。


でも、俺は……あんな夢を見てしまった俺が思うのは。


夢の中で、ためらう俺の背中を押した、あの腕。

振り返りざまにチラリと見えた、あの腕の太さは――間違いなく、見覚えのあるものでした。


こんな世迷いごと、誰も信じちゃくれないでしょうね。

もう……あんな体験、まっぴらごめんですよ。

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