91.治安の悪い地区②(怖さレベル:★★☆)

「すっ……すいません! す、すぐいなくなりますから……っ!」


ヤバイ場面に出くわしてしまった! と、

幽霊の恐怖など消え去って、オレは慌てて自転車のハンドルを強く握りしめました。


「まぁ、待てや、兄ちゃん。ちょっと聞きてぇことがあるんだけどよ」


しかし、そんなこちらの逃亡をみすみす見逃してはくれません。


男性はドスドスと重い足音をたててこちらに近づき、

転がっている男をひと睨みしつつ、言いました。


「オレの部下がヘマやっちまってなぁ。ちょっとあるモンを探してんだ。

 ……兄ちゃん、このあたりでヘンなモン、見なかったか?」

「へっ……ヘンなモン、ですか?」


ずいぶんと抽象的なそれに、おれは訳がわからず、同じ台詞を反すうしました。


「おう、ヘンなモンだ。ふつうじゃ絶対見ないようなモンだ」

「えっと……ど、どんなもの、なんでしょうか」

「……そりゃ言えねぇ。でも、見たらとてもスルー出来ねぇようなモンだ」


しかし、男はその『ヘンなモン』がなんであるかを明確に話そうとしません。

オレは必死で今までの記憶を思い返しますが、チンピラ男が気にかけるようなモノは心辺りがありません。


「すっ……すいません、ちょっと……わからないです」

「……本当だな?」

「あ……う……は、はい」


念押しされたその台詞からは、まるで重力が

三倍にでもなかったかのような、強烈な圧力を感じます。


しかし、本当になんの心当たりもないおれは、

ブンブンと強く首を横に振ることしかできませんでした。


「そうか。……行っていいぞ、手間とらしたな」

「あ……は、はい……」


ようやくこの場から離れる許可が下りたおれは、

未だ地面に額をこすりつける人の方を見ないように、

全力で自転車を漕ぎだしました。


(……っ、こわ、かった……)


念のため、直行ではなく、グルグルと地区を回ってから、

こっそりと自宅に身体を投げいれ、オレはようやく深く息を吐き出しました。


今までもさんざんヒヤリとした経験はありましたが、

まさか直接、裏の筋の人と話をする、なんて。


それにしても、自販機の幽霊を見た直後、

あんな人たちに絡まれる、なんて――。


「……ん? 幽霊……」


そういえば。


あの怖い人に脅されてすっかり意識がとんでしまっていたけれど、

あの幽霊の腕はまだあの自販機の下から伸びていたんでしょうか?


あの、生白い、血をなみなみと滴らせた――。


「……あ、れ?」


不意に、違和感が押しよせてきました。


あの、だらんと伸びきった腕。

よくよく思い出すと、その血に濡れた腕には、小指が一本ありませんでした。


それどころか、あふれ出す血はわずかに生暖かく、

まるでついさっき、腕を切断されたばかり、だったような。


現実味のない光景にすっかりお化けの類だと思い込んでいましたが、あれは。


『ヘンなモン、見なかったか?』


男性が執拗に聞いてきた、ヘンなモン。


そう、例えば。


殺してバラバラに切断した死体から、

移動させる時か、なにかの手違いかで腕だけ紛失してしまって、

それをずっと、捜していた、とか――?


「…………ッ!」


だとすれば。


あの二人組は、おれを送りだした直後、

あの自販機の下の腕を見つけたことでしょう。


そして、おれが実はそれを見てしまっていたことにも、

きっと……気づいてしまった。


「こっ……殺され、る……っ!」


それから、日が昇るのを息を殺して待ち、

荷物をまとめて始発で実家へと逃げ帰りました。




そして、二日後。


ほとぼりが冷めた頃を見計らい、家の様子を見ようと

兄を引っぱって、自分のアパートに帰りました。


「う……わ……」


その駐輪場を見て、戦慄しました。


おれが当日のっていた自転車は、ブロック塀に叩きつけられて破壊され、

見るも無残な姿になっていたのです。


しかし、幸いというべきか、部屋までは特定できなかったらしく、

アパートの部屋自体には損傷らしきものは見当たりません。


おれがこそこそと部屋の無事を確認して戻ってくると、

兄が破壊された自転車から何かを引きはがしていました。


「……兄貴」


茶色の封筒。

それが、ガムテープで車輪に貼り付けられていました。


「…………」


兄はそのまま、ゆっくりと封を開けて中身を一瞥します。

父によく似た精悍な面差しが、みるみるうちに険しくなりました。


「……荷物もって、実家に帰るぞ」

「え……なんて書いてあったんだよ」

「…………」


その問いに答えず、兄はくしゃりとそれを握りしめました。


そして、普段は怠惰でだらけている様子からは考えられぬほど迅速に、

必要最低限のものを車に積み込むと、すぐに車を発進させました。


「お前……大学、辞めろ」

「えっ……」

「あそこの大家には、おれが連絡しとく」


奥歯を噛みしめて唸る声には、有無を言わせぬ力を感じます。


そんな姿を見せられて反論することもできず、

おれはただ頷くことしかできませんでした。


そして、おれはそのまま二度と大学に戻ることはせず、

実家のある地元で就職することになったのです。


幸い、それから今に至るまで、

おれの近辺で不審な動きはありません。


でも時折、あの破壊された自転車と、あの日の白い腕、

そしてあのチンピラ二人組の夢を見るんです。


あのチンピラ二人は血で真っ赤に染まった姿で、

恨めしくおれのことを睨んでいて。

切断された白い腕が、おいでおいでをするかのように手招くんです。


自転車にのったおれが、必死で逃げようと漕いでも、

ペダル、サドル、車輪……それがドンドン壊れて、最後には捕まってしまう、そんな夢。


あの日、おれはさっさと実家に逃げ込んで助かったけれど、

もし、あのままあそこに残っていたら。


そして、あの封筒の中に、いったいなにが入っていたのか。


……えぇ、実はあの封筒、

兄の部屋にまだ置かれているようなんですよ。


もう五年もたったっていうのに、なにかの弾みで、

本棚の間に挟まっているのを見てしまったんです。


そして……明日、兄が仕事で出張に行くんですよ。

はい……中身、見てみようと思っているんです。


はは、大丈夫ですよ。もう、五年もたったんです。


そもそも、あの後おれは調べまくりましたが、

あの時期、バラバラ殺人事件なんて無かった。


つまり、少なくとも表沙汰にはなっていない事件です。

遠く離れたこんなところ、口封じに今更やってくるはずもない。


もう成人したし、いい加減、知ったっていい頃合いでしょう。

不謹慎ですが、ちょっとドキドキしているんです。


あ、もうこんな時間ですね。

聞いてくださってありがとうございました。それでは、さようなら。

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