73.マンションでの失踪事件③(怖さレベル:★☆☆)
「柳おばあちゃん」
私の背後。焦がれていたなつかしい少女の声。
(み……ミエちゃん!?)
大声を上げてすぐにでも振り返りたいのに、
麻痺して動けない身体は固まったまま動けません。
「柳おばあちゃん」
背中、すぐ真後ろ。
ひたりと立つ小柄な存在を、息
遣いとともに確かに感じます。
振り向いて抱きしめたい。
お父さん、お母さんが心配していたんだよって、頭を撫でてあげたい――。
「……おばあ、ちゃ」
声が。聞こえる声が、突如異様にゆがみました。
まるで、録音音声を古い機械でスロー再生したかのような、くぐもった音。
「おばぁ……ちゃぁん……」
気配。背後のそれが、ザワザワと冷たく蠢いています。
おおよそ、慣れ親しんだ子どもとは異なる、その歪な感覚。
そう、それは彼女ではないナニカが、
無理やりミエちゃんに擬態しているかのような、不気味でおぞましい――。
「……っ!?」
ピキン、と痺れではない硬直で、全身が固まりました。
周囲の空気が、じわじわと変質しているのを感じます。
夕方の、まだ明るく人の声の響くマンションの通り道。
よく見知ったそこであるはずなのに、今のここはまるで違います。
耳鳴りがしそうなほどに静まった、音のない、
透明なビニールで覆われているかのように圧迫された、閉じた世界。
ここだけがまさに異次元であるかのような。
強烈に怖気の走る、まぶたの引きつるほどの恐ろしいモノが。
あの可愛らしいミエちゃんの、
でも決して当人ではありえぬ悪質な気配をまとったものが――後ろに、いる。
「ぅ……っ、……っ」
声が出せません。
足も、指の一本、髪の毛すらも動かせない。
この圧縮された空間で、
夕焼けの不吉な赤に照らされて――連れて、行かれる。
冷たい汗がひとつ、つぅ、と首筋をなぞった、その刹那。
「――ミエッ!!」
バツン! と風船のはじけるような音と共に、周囲に光が戻りました。
「……う、えっ?」
いきなり変わった空気に戸惑う私をよそに、
「ミエ――ミエッ!!」
背後から、彼女の母の叫び声が聞こえています。
私が慌てて振り返ると、地面に転がったミエちゃんと、
それにすがる彼女の母の姿がありました。
「み、ミエちゃん……!?」
まさか死んで、と氷を差し込まれたような予感にわたわたと近づくと、
「ん……」
小さく声を上げて、彼女はゆっくりと目を開きました。
「……おかあ、さん?」
「ミエ……良かった……良かったっ!!」
彼女の母は見る間に泣き崩れ、そのまま嗚咽を漏らし始めました。
それをボウっと見つめるミエちゃんは、未だ状況がよくわかっていないようです。
「そ……そうだ、警察に……!」
私は彼女と再会できた喜びに浸る前にと、
急いで110番をしたのでした。
彼女――ミエちゃんは行方不明の間のことを、
何一つ覚えていませんでした。
というのも、彼女の言葉をそのまま借りれば、
『あの公園でただ遊んでただけ』で、
『急に眠気に襲われて、目が覚めたらお母さんが泣いてた』
というのです。
つまり、彼女の中で不明期間の一年という時間は、
一瞬のうちに過ぎなかったということのようでした。
ミエちゃんは記憶こそ混乱が見られたものの、
他は全身、どこにも異常は見られなかったようです。
――あの日。
私の背後に立ったなにかの気配。
ミエちゃんの気配をまとった、歪な暗闇の気配。
あれは彼女をさらい、取り込んで、
なり替わろうとした妖怪かなにかだったのでしょうか。
あの日のあの空気。
極限まで張りつめ、緊迫を孕んでいたあの瞬間。
彼女の母がミエちゃんの名を呼ばなければ、
あのまま何かが起きていても
おかしくなかったほどの不穏な予感があの場面にはありました。
あの事件以後、なんとなく彼女とは疎遠になってしまって、
まもなくミエちゃん一家自体が引っ越して行ってしまいましたが、
このマンションは未だ変わることなくこの団地に存在しています。
失踪事件はあれ以来、一度も起こっていません。
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