43.スポーツジムの水死体③(怖さレベル:★★★)

(えっ……?)


バシャ……パシャッ


突如吹き上がった水柱に、周囲で泳いでいた人たちの目が、

いっせいに6レーンに向きました。


タプン……ズルッ


と、直前までの泳ぎが嘘であったかのごとく。


スッ、となんの予備動作もなく、青年は水中に消えました。


――シン


一瞬なにが起きたかわからず、水泳場が静まり返り、

次の瞬間、わっと声が上がりました。


「おっ、おい、誰か溺れたぞ!!」

「係員よんでこい! 助けねぇと!!」


ざわざわと騒がしくなり、皆慌てて6レーンの方へ向かいました。


「み、皆さんお待ちください! 私たちが対応します。

 皆さんはプールから出てください!」


と、集まったジムトレーナーたちの声に、

飛び込もうとした人たちが慌ててプールサイドに移動します。


混乱しつつ、彼らがあの青年を引き上げる様子を、

ハラハラしつつ見守ります。


「……う、わ」


すぐに引き上げられた青年は、ピクピクと全身を痙攣させて、

だらだらと口から水だかよだれだかを吐き出しています。


しかし、私の目線をさらったのはその青年ではなく、

今や誰一人いなくなった、プールの中央の存在です。


タプ、タプン


全身を揺らして、赤い口腔をこれでもかという程に開かせて、

そのブヨブヨ男は――悪意を凝縮した表情で、笑っていました。


愉快そうに、嬉しそうに、

これ以上ない程に喜悦を滲ませて。


――まさか、こいつがこの青年を溺れさせたのではないか。


その想像を裏付けるかのように、

男はひとしきり身体を揺すったのち、

口の端をさらに持ち上げて――ハッキリと、私のことを見つめました。


「あ、うっ」


見られた。


その衝撃に頭が真っ白になったこちらをあざ笑うかのように、

男は次の瞬間――パッ、と姿を消したのです。


「え、あ……?」


残されたのは、訳もわからず震えの止まらない自分と、

混乱するジムの客たち、それに倒れた青年とそれを看護するトレーナーたち。


ただ、そればかりでした。




そして――意外にも、というと彼に失礼ですが、

あの溺れた青年は、無事に生還を果たしました。


はは……えっ? って思いますよね。

あんな思わせぶりなブヨブヨ男の態度。


私ももうてっきり、彼は亡くなってしまったのだろうと思い込んでいたのですが、

ジムからは一向に休止の連絡も来ないし、どうなったんだろうと気を揉んでいて。


おそるおそる三日後に行ってみると、

至って変わりなくジムは営業していまして。


誰かに尋ねるにしても、情けないながら私にはジム内に

友人の一人もいなかったもので、聞くに聞けず。


もやもやと疑問を抱いたまま、いつものマシンコーナーへ向かうと、

運よく、あの事件の時に彼を助け出していたトレーナーが、

掃除をしているのを見かけたのです。


これはチャンスと、私はあわてて呼び止めました。


「あ、あの……三日前の男の子、大丈夫でした?」

「ああ! あの、溺れかけた方ですね。ええ、すぐ助け出せたので、

 症状もさほど重症にならず、もう退院されたと伺っていますよ」


と、にこやかな表情で彼は答えました。


「え……あ、あの、もう元気になられたんですか?」

「ああ……すみません、僕も直接お会いしたわけではないのですが……

 見舞いに伺った上司からは、お元気な様子であったと聞いてます」

「そ、そうですか……良かった」


私はホッとするのと同時に、

あのブヨブヨ男の妙な笑みはなんだったのだろう、と奇妙に思いつつ、

礼を伝えてその場を去ろうとしました、が。


「あ、そうそう。彼、あなたのことを気にしていたそうですよ。

 ”大矢さんと一緒に泳ぎたい”って伝えてほしいと」


付け加えられた言伝に、私の足は氷のように固まりました。


「……あの青年が、私に」

「え? ええ。伝言を頼まれたと、上司が。

 復帰されたら、ぜひご一緒して差し上げてください」


笑顔を残して、掃除用具を片付けに彼は立ち去ってしまいました。


「…………」


一人その場に取り残された私は、

じわじわと染み出してくる恐怖に、血の気が引いていくのがわかりました。


私は――あの彼に、名前なんて教えていません。


それどころか、先日声を聞いたのだって

初めてというくらいの間柄であったのです。


だというのに、どうしてそれを知っているのか?


私はとたんに身体を動かす気を無くし、そそくさとジムを後にしました。


そしてその後、それでも何とか気のせいと思い込み、

何度かそのジムを訪れました。


しかし、もしかしたら”彼”に声をかけられるかもしれない、

という恐怖に常に付きまとわれてしまい、ちっとも楽しめず、

結局そうそうにジムを退会する羽目となりました。


あの青年、彼はなにかのキッカケで、

偶然私の名前を知ったのかもしれません。


大した意味なんてなくて、ただ、仲良くなりたいと思って、

あんな言伝を残しただけかもしれません。


でも――でも。


私には、彼のその言葉の裏に、

重い悪意が滲んでいるようにしか思えないのです。

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