20.望みを叶える本・表②(怖さレベル:★☆☆)
「……なり…………しあ……」
両手でひざを抱え、その間に頭をうずめて、
ただひたすらになにごとかをブツブツと唱えているのです。
「…………?」
そして、その膝を抱えた足の前に、
例の――『望みを叶える本』がありました。
「ニッシー……さん……?」
返しに来てくれたのだろうか、
ともう一度、
彼に声をかけ、一歩近寄りました。
「……しあ……な……」
近づくこちらに目もくれず、
彼は一心不乱になにごとかをくりかえしています。
「だ、大丈夫ですか……?」
普段の快活な様子とは大違いのそれに、
私は恐怖から心配が勝り、
更に彼に近寄りました。
そして、
ようやく彼がなんと漏らしているかわかったのです。
「……幸せになりたい」
「え……?」
彼は、
小声でありながらも明確に、
早口でその単語を発しました。
「幸せになりたい、幸せになりたい……幸せに、なりたい」
ゾッ、としました。
うつろなまなざしでひたすらそれを繰り返す、
そのニッシーの姿に。
「幸せに、幸せに……幸せに」
彼の足元に置かれた『望みを叶える本』。
それが、風などない部屋の中央で、
不意にペラリとめくれました。
「あ……」
つい視線がその中身に向こうとした、
その瞬間。
「幸せに……なれる、はずだったのに」
ギョロリ、
とニッシーがそれを遮るように首を持ち上げます。
こちらを見上げた、
彼のその顔。
その――眼。
眼球のくぼみは、
本来あるべき目の玉が消え去り、
どこまでも奈落のごとく真っ暗な空洞が、
ぽっかりとこちらを睨んでいました。
「ひ、ぃ……っ」
喉から引きつる声が漏れた、
その刹那。
――ドスッ。
腹に重しが打ち付けられる衝撃で、
私は目を覚ましました。
「あ……ゆ……夢……?」
ポカン、と開いた口が、
間抜けた言葉を呟きます。
そして、その声に反応するかのように、
腹に乗った重しがニャー、
と小さな声を上げました。
「み、ミーちゃん……?」
存在を主張するようにのんびり毛づくろいしているのは、
飼い猫のミーでした。
ゆらゆらと尻尾を揺らし、
ジィ、とこちらを睨んでいます。
「おはよ……お腹すいたの?」
いつもはつれないこの飼い猫。
撫でようと伸ばした手はヒラリとかわされ、
ミーはスタスタと逃げて行ってしまいました。
残された私は、
直前まで見ていた夢をぼんやりと思い出しつつ、
アレはいったい何だったのだろう、と考えていました。
この部屋に現れたニッシーのコト。
ひたすら繰り返された「幸せになりたい」の意味。
最後に目にした、
両目のない彼の姿。
同好会の時に本を見ていたから、
意識しすぎて申し訳ない夢を見ちゃったなぁ、
なんてため息をついていると、
ピピピ、ピピピ。
傍らに置いていた携帯電話が、
着信を告げました。
「あ、あれ?」
着信はあの同好会メンバー、
チョコからでした。
『もしもし。サカモトさん……ですか』
連絡先を交換はしていたものの、
SNS上でもめったに会話を交わさない仲です。
「あ、うん……どうかした?」
いったい何の用だろう、と不思議に思いつつ、
窓を開けながら訊ねました。
『あの本……サカモトさんがなくした例の本、
ニッシーさんが持ってます』
「えっ?」
彼女の台詞に、
昨夜の夢がフラッシュバックします。
「……って、なんでチョコさんが知って」
『あの本。……アレ、ヤバイ本です。ニッシーさんも、あれを読んで……。
サカモトさんは、まだ読んでないですよね? もう、忘れて下さい。
……どうせ、探しても見つからないはずだから』
「えっ、あっ、チョコさん?!」
プツッ。
一方的に電話が切られ、
慌ててリダイヤルしても、
電源を切られたらしく繋がりません。
「な、なんだったの……」
ヤバイ本、と言われたあの書籍。
ニッシーも、
あれを読んで……読んで?
「ニッシーさん……!」
彼とも、連絡先は交換しています。
彼女に繋がらないならばと、
どこか急くような気持ちで発信するも。
「……ダメだ……」
音は鳴っているものの、
まったく出る気配がありません。
「ど、どうすればいいの……」
私は携帯を片手に途方に暮れてしまいました。
呆然と佇む寝室を、
開いた窓の隙間から太陽が明るく照らします。
夢の中でニッシーがうずくまっていたその場所には、
なぜだかうっすらと小さな黒いススが散っていました。
結局、あの後。
どれだけチョコとニッシーに連絡を取ろうとしても、
まったく反応がなく、
あの奇妙な夢と彼女の警告ばかりが記憶の底に沈殿する、
消化不良の日々が続きました。
本を返却しなければならない期限もきて、
受付に本の紛失を届け出たのですが――
『そんな本は存在しない』ことがわかったのです。
似た名前の本はあれど、
装丁も違えば、作者も違う。
いえ――そもそもあの本に、
作者の名前なんて無かった。
そんな単純なことさえも、
私は見逃していたのです。
その後、同好会の他のメンバーたちとも連絡を交わしましたが、
やはり彼らもニッシー、チョコともども連絡がつかなくなったといいます。
私としては、まるでキツネにつままれたかのような、
現実とも夢ともつかない、そんなできごとでした。
あの本。
『望みを叶える本』。
あれを前にして、
彼はひたすらに「幸せになりたい」と呟いていました。
ニッシーは、
あの本を読んだのでしょう。
そして、
幸せになる方法を知ったのでしょうか?
しかし、両目が真っ暗な奈落であった、
あの恐ろしい姿。
そして
「幸せになれるはずだったのに」
というあの言葉。
あの中身には、
いったい何が書いてあったのでしょう。
私は、あれから数年が経った今でも、
あの本のことを思い出すのです。
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