18.縦じまTシャツの男②(怖さレベル:★★☆)


そんな忠告があったことすらも忘れさっていた、

一か月後。


「うわ……すっかり遅くなったな」


思いの外、厄介な故障にてまどり、

事務所へ帰ってきたのは夜の八時。


室内には、

同じ整備担当の渡辺という男が残っていました。


「あ、おつかれさんでーす」


この男も、自分より数か月前に入ったばかりという新人で、

年齢は三十代ほどのこの会社ではかなり若い部類でしたが、

陽気で素直な性格で、

皆に可愛がられていました。


「あれ、社長は?」

「あ、なんかコンビニに夕飯買いに出ちゃいました」


夜九時まで常駐している社長の姿がないと思えば、

彼にフロアを任せていたようです。


「戸塚さん、帰ります? ICカード預かってるんで、

 先上がるなら締めちゃっていいって言われてるんです。

 オレも一通り報告書終わったんで」

「ああ。じゃあ、さっさと帰ろうか」


今日の報告書を作成するのは明日で良いだろうと、

かんたんに机の上を片付け、

欠伸している渡辺に連れ立って室内を後にしました。


「あ、そーだ。

 ちょっとトイレ行きたいんですけど」

「ああ、待ってるよ」


と、歩きだす渡辺の背に、

ふと先日の宮下の言葉を思い出しました。


「あっ、渡辺くん。そうだ、こないだ宮下さんが、

 トイレの電気、つかないようなこと言ってたぞ」

「うへえ……マジですか?

 でも、だいぶ我慢してたし……もう暗くったっていいです!

 あ、でも戸塚さん、入り口のトコまでついてきてくれません?」

「ええ、この年で連れションか?」

「一人で事務所、怖かったんですよ! なんか給湯室に幽霊出るとか、

 こないだ脅かされたし……二人なら大丈夫大丈夫!」


どうやら、彼もあの事務の女性から幽霊談を聞かされていたらしく、

ブルブルと身体を震えさせつつ言ってくるものだから、


「はいはい、わかったって。早くすませなよ」

「ありがとーございます!」


ニコニコとハイテンションでお辞儀する彼と共に、

すぐ近くのトイレに向かったのです。


「えーと……照明、照明」


カチッ


「あれ、蛍光灯、点くな」


いつも通りにスイッチを押せば、宮下の話とは違い、

問題なくライトは点灯しました。


「あー、直ったんですかね?

 ちょうど良いんで、行ってきます」

「おお」


そそくさと入っていった彼を見送り、

入口のところで壁にもたれて待つことにしました。


欠伸をしつつ、

手持ち無沙汰に携帯をイジっていると、


フッ。


「ん?」


一瞬、

首元をぬるい風が撫でました。


エアコンか?


と頭上を見上げるも、

ほとんど人のいない時間帯、

稼働している様子はありません。


「……まさか、な」


事務の女性と、宮下の言っていた幽霊、という言葉が

一瞬脳裏にチラついたものの、

ゆるゆると首を振って追い出します。


生まれてこの方、そんなもの見たこともないし、

彼らの言うそれだって、どうせ何かの見間違いだろう。


ため息を吐きだしつつ液晶画面に目を戻し、

ふと気づいたのです。


「……渡辺くん、ずいぶんと時間かかってるな」


もう十分はゆうに経過しています。


いくら大の方であったとしても、

時間がかかりすぎではないか。


「おーい、渡辺くん?」


中の方へ声をかけても、

返ってくるのは沈黙だけ。


水を流す音さえも聞こえません。



「……まさか、寝てるんじゃないだろうな」


さっき何度も欠伸をしていた彼のことです。

うっかり便座に座って眠りこけているのかもしれません。


私は呆れつつ、

トイレの中へと足を踏み入れました。


「――えっ」


目に入った光景に、

私は言葉を失いました。


小便器が三つ並び、

奥に個室が二つある、

なんてことのない普通の男子トイレ。


その空間の中央に――

ビシッ、と気をつけの姿勢をとった渡辺が、

背をむけて突っ立っているのです。


「わ、渡辺くん……何してるの」


ふざけているのかと半笑いで近寄るも、

彼の横顔が目に入った瞬間、

思わず息を飲みました。


彼の顔は一番奥のトイレの個室に向いていて、

両目はカッと見開かれ、

ボソボソと小さくなにごとかをつぶやいているのです。


「わ……渡辺、くん?」


尋常でない様子の彼に、さらに一歩近づくと、

かろうじてその声が聞こえました。


「……く、ない……ない……」

「え、なんだい?」


更に一歩。


まばたきすらしない彼の両目は、

真っ赤に充血しています。


「た、ない……見たくない、

 見たくない見たくない見たくない」

「見……?」


えんえんと繰り返される”見たくない”という言葉。


その執拗なくり返しに、私はうすら寒いものを覚えました。


と同時に、心の奥底に芽吹いた好奇心という怪物が、

いったい何をそんなに”見たくない”のだろう、

と疑問を浮かべてしまったのです。


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