第68話 リトル・ピーターラビット その⑨


     68.


(何があったのかはっきりとは憶えていない)

(記憶が曖昧だ――屋上から逃げたのは憶えているが、そのあとのことがすごく曖昧だ)

 響木ひびき寧々ねねは苦悩していた。

『リトル・ピーターラビット』の『虫』から逃げている最中に、竜川たつかわたきと接触。その際に『リトル・ピーターラビット』に取り憑かれてしまった。

 その辺りの記憶が朧気おぼろげになっている。

 気づいたら校舎内に立っていたという感じである。

 彼女が苦悩しているのは、その朧気になってしまった記憶に関してではない。

(私は――人を殺した)

 鎮岩こと子の言われたことで、頭に血が上った。

 つい衝動的に金属の破片を放り投げた。それがまさか頭を貫通するなんて思っていなかった。

(事故だ)

 そう思おうとしている一方で、『人を殺した』というのは絶対的で揺るがない事実であるという自負もあった。

 人を殺してしまった。

 だというのに。


(――おかしい)

(私は、……)

 違和感。

 の幼虫のような胴体と、ナナフシのように細い足を持った、話しかけてくる『虫』。その辺りは憶えているが、どうにもその辺りから記憶が曖昧だ。

 気がついたときには、そんな『虫』も周辺にはいなかった。

「…………」

 通りかかった教室の時計を見たところ、もうすぐ十七時である。

 卯月うづき希太郎きたろう星井ほしい小春こはる、ふたりと合流予定の時間である。

 一度はこのふたりと合流したほうがいいかもしれない。そして相談してみてもいいかもしれない――自分が人を殺したということを、そのことを自首することも含めて。

 待ち合わせは学校ということになっているが、学校のどの場所と決めているわけではない。時間帯が時間帯なので、学校内で会うより学校の校門前に合流したほうがしやすいだろうと思い、メールを送る。

 メールを送り終えた辺りで、

 真っ先に自分のことかと思ったが、道路を通り過ぎて行ったので、別件だろうか。

 何か事件があったのかもしれない。

 とはいえ、その事件が何なのかまで、流石に響木寧々にはわからない。学校から少し離れた場所で起きている騒動。宇井うい添石そうせき牛谷うしたにグレイ、そして宇井うい千枝ちえの三人による騒動が起因する出来事だなんて、学校にいる響木寧々にはわからない。


 そのときである。

 校舎全体に、地響きのような衝撃と轟音が響き渡った。


「…………!」

 この正体は、学校の駐車場に自動車が突っ込んだことによるものである。

 今いる位置からでは震源はわからない。

 だけど、だけど。

 響木は、――走り始めていた。

 連続的に続くその地響きと破壊音。

 靴を履き替えて、玄関から出て駐車場のほうに周った。

 丁度角を折れて出たところに、大怪我をしているスクールカウンセラーが、いた。

 全身の至るところに擦過傷さっかしょうがあり、見えている範囲で言えば、腕や足が腫れている。

「――――」

 響木が何かを言う前に、竜川焚に腕を掴まれた。

 引っ張られた。

 そして、胸元を手のひらで、どんっ、と叩かれた。


『リトル・ピーターラビット』。

 人の心が見える、『能力』……。

 その心は、木のようになって見える。

 竜川焚は、カウンセリングを行った生徒の心に『虫』を放っていた。この『虫』は樹木の内側に潜り込んで成長する。これこそが、『リトル・ピーターラビット』による支配。価値観や考え方を、これで操っていた。

 とはいえ、洗脳と呼ぶほど支配力が強いわけではない。

 あくまで、方向性が寄るくらいのものである。

 カウンセリングの際に、余計な方向に伸びている枝を折ることで、制御もしていた。この人の心の木を折って、別の人に接ぎ木することだってできる。

『リトル・ピーターラビット』の本体、『リトル・ピーターラビット』を、それそのものを移動させることができる。

 そして、この『リトル・ピーターラビット』は、『能力』を扱う当人から相反するところに『意識』がある。

『能力者』から独立して、『意思』を持っている。

 竜川焚とは完全に馴染んでいたから、竜川焚の意識の裏側に潜んでいたが――『能力』の移植が行われる直前と、行われた直後には『能力』そのものの『意識』が表面上にする。

 竜川焚の覚悟もあった。

 一方で、生き延びようとする『能力』の抗いもあった。


 響木の、脳裏をあらゆる記憶が駆け巡る。

 その末に、現状のことを端的に把握した。

「……竜川先生は死んだ」

 だけど、『能力』が消えてなくなったわけではない。

『リトル・ピーターラビット』は、響木寧々に移動した。





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