『第三話』
第一章 『第三話』
(……変わった夢だ)
右脚、それから左脚を順にそれぞれ衣の筒に通しながら——虚ろな眼差しの青年は思案する。
(自分にそういう欲……)
(
(……はず)
理解を超えた現状を一先ずは『夢』と定義するこの者は『ルティス』と呼ばれた——体を女性としながら、その内に河上誠という男性の記憶を持つ——青年。
彼——いや、今は"彼女"と呼ぶべきこのすらりとした手足を持つ長身の女性は、恩人?アデスによって用意された衣服に渋々と袖を通して行く。
(でも……これが夢で、自分が深層心理で考えていることが光景として反映されているなら……)
(彼女——アデスさんが凄い優しい……理想的な方なのも、何となく分かるような……)
サンダルの留め具を調節し終え、緩みがないことを確認し——着替えが完了する。
先の一糸纏わぬ乙女の姿は今はなく。
今や簡素寒色の衣服で頭頂部の髪の先から足の履き物までを"青みがかった黒"を基調とした色で包み込み、青年——大きく一度、息を吐いた。
(……夢だけど、後で彼女にはお礼をするとして……ふぅ——)
(——用意してくれたのが完全に女性向けのじゃなくて、助かった……本当に)
下半身に履いた衣は裾に向かってゆったりと広がった、しかし、内側で膝下にまで伸びる筒を持つ謂わば——"キュロットスカート"。
上半身は胸をがっちり不動で支える下着兼肌着を一枚と、儀礼や式典にも適しているであろう質素な
そのどちらも、与えられた衣服の全ても外見では『男性向け・女性向け』の判断をあまり必要としないであろう——"中性的"な物であり、それは混乱下の青年にとって数少ない"嬉しい誤算"であった。
(欲を言えば背中の"交差"、肌着を吊る襷がなんか……スースーして着慣れないけど……うん)
(……それより、先ずは言葉でお礼を——)
「——着替え終わりました。アデスさん」
青を秘めた黒髪を翻し、青年。
少し離れた位置の小さな背に向かって声を掛けながらその音を、歩いて追う。
足の裏に伝わる砂利の感触に痛みはなく、肌の擦れる様子もない。
履き物の大きさはピッタリだ。
「……召し物に"不調"はありませんか」
「? はい。大きさも丁度良く、動いてみても大丈夫です」
袖を持ち上げ、動かして見せ、言葉通り衣服に問題がないことを示す青年。
衣服以上の問題を胸に抱えているが——それについては『夢の覚めるまで忘れよう』
「……話を聞いてもらった上に服まで面倒を見てくれて、本当にありがとうございます」
「……いえ。私がそうすべきと自ら望んでしたことですので、お気になさらず」
「……それでも、この礼は必ず後で、何かしらの形で返します」
「……そうですか」
そうして淡々と、アデスは受け答え。
青年の深々と頭を下げる動作に落ち着きを見て、話を先に進める。
「……では、貴方の波も穏やかになったところで、先程の話の続きを。現状に対する理解を深めて行きましょう」
「分かりました」
「……私の与える情報は、どうにも貴方の中で洪水を引き起こしてしまう様子。故に、貴方の疑問を一つ一つ紐解く形で話を進めましょうか」
「はい」
向かい合った青年とアデスの身長には筆箱に収まる直線定規一つ分程度の差があり、前者が後者をやや見下ろす形。
同時にアデスの小柄は際立ち、青年は年齢不詳の相手が有する神秘的な色合いに時折目を奪われながらも指示に従い、口を開く。
「……それでなんですが……正直、色んなことがあまりよく分かってなくて」
「……例えば?」
「例えば『祈り』や『信仰』、『神』だったり……なんだか、夢を見ているような気分でふわふわしてて」
「……ただ、なんとなく分かったことと言えば——自分のこの体が『ルティス』と呼ばれる女性なんだろう——ということぐらいです」
「……」
アデスは顎の近くに手を持っていき瞬きの一つもせず、考える仕草。
悠然とした何気ない動作に、耳飾りが揺れる。
「……その
「……でしたらこの場所、"現在地"が何処なのかも分からなくて……良ければ教えてもらいたいです」
(——夢なら放っておいても覚めるけど……別にもう、"悪夢"は見たくない)
(しかも、こんなに鮮明なんだ。……もう少し気の休まる何か、夢だという手応えがあれば……)
深層心理が見せる幻だとしても、"悪き"を"良き"に変えられるのなら——『やってみよう』。
青年は安心の出来る"確証"を得るため、夢と現の境界線を探ろうと試みる。
「……"現在地"を、"貴方は知らない"——と?」
「は、はい。アデスさんはご存知なんですか?」
「……人の呼ぶ地名ならば、覚えがある——」
蓑より出でる白の指先。
斜め上方を——景色に連なる山々を差す。
「あの山脈は『ヒドゥン』と呼ばれ——」
次に指し示すのは近場。
会話に興じる二者のすぐ側を流れる——水の集まり。
「——其処な川は『ルティス』。"女神の神体"」
「現在地はその上部——即ち、上流である」
(……『ルティス』に、『神体』は取り敢えずとして)
(……どうしよう。全然知らない場所だ。……山脈の名前も川の名前も、まるで聞いた事がない)
見知らぬ土地、孤独の身は縮む思い。
誠の世界では一度も耳にしたことない名称ばかりが頭を巡り、思考を再び掻き乱そうとする。
情報の取っ掛かりがなければ忽ちにその流れ、青年を飲み込むであろう。
「……"どんな国"のどの辺りなのかとかは、分かりますか?」
「……『国』と、来ましたか」
「?」
「……いえ、残念ですがこの辺りは特定の国家の所領という訳ではありません。今は、近くに息衝く命たちにとっての——"溢れる恵みの共有地"……と言った所でしょうか」
「……は、はぁ」
(……そんな事があるのか……? 国に属していない土地——)
覚えた記憶の世界地図を広げ、大雑把に目を通す。
(……そんな場所もあったような……でも——)
遥か北か南——"何色にも染まっていない氷"か、"氷に包まれた大陸"があったようなことを思い出して頭を悩ませる。
(——ここには川が流れてるし、木も沢山ある)
木々は緑で、水は凍らず。
虫や鳥は飛び交い、花は咲き。
寒冷地の生態系はそこにはなく、周囲は温暖な気候そのもの。
知れば知るほど混乱する不可解な現在地。
果たして青年の居場所は——そして、帰るべき場所は——
(……取り敢えず、今の俺が遠い——架空に近い所にいるのは何となく分かった)
(……アデスさんが嘘をついているようにも見えない。彼女は優しい人、今は信じよう)
(だとすれば、何か他に手がかりになるようなものは……)
無意識的に組もうとした腕——組まずに下ろす。
腕に触れて伝わった柔らかな感触には、やはり慣れない。
「……でしたら、さっきの確認になっちゃいますけど確か……近くに"都市"があるんですよね?」
「はい」
「都市の名前は——ルティスア……?」
「……『ルティシア』です」
「あっ、そうでした。すいません」
「"……"」
細まる真紅の眼差し。
それは——。
"他でもないルティシアの命たちの祈り"——『信仰によって存在を編まれたというのに知らぬのか』といった——"疑惑"に向けられる、鋭いアデスの目付き。
(大きな国の首都ぐらいなら聞けばと思ったけど……やっぱり知らない名前……)
(でも、都市なら人がいるわけで……どれぐらいの人がいるかは分からないけど、当面はそこ——)
(——ルティシアに向かって、そこにいる人に色々と尋ねてみるのがいい、かな……)
「ちなみに、ここからルティシアはどっちの方角に……?」
「ここらですと……南東と呼ばれる方角です」
「時間は、歩いてどれくらいかかりますか?」
思考に耽っていた青年は人の集まる——即ち、多くの
「……徒歩で向かうなら"半日"といったところでしょうか」
「——は、半日……」
(……全然、近くはない。歩いて約十二時間は流石に遠くて、足が——)
(——"!")
"身なりの良い女性"を前に、青年は閃く。
そう易々と山中・川の上流部に、『少女一人で来られるのだろうか』と。
(……"気品"が、ある)
(もしかして、アデスさんは"お嬢様"……それなら——)
『何かしらの移動手段が近くにあるのだろう』と考え、畏まって尋ねる。
「——アデスさんは何か、ここにはどんな"乗り物"で来たんでしょうか?」
「……?」
「……えぇと、後でそのお礼もするので、良ければそれで自分も一緒に——」
そして、アデス。
革製と思しき——脛当てを締める無骨なベルトの交差する——タイツの上に履いた漆黒のブーツ。
その爪先で何かを確かめるように二、三度砂利を叩くことを止め、ぴしゃりと事実を口にする。
「いえ。身一つです」
「えっ」
「何にも乗らず、"この身一つ"で訪れました」
「……なるほど」
(……見かけによらず、
アデスの言葉を『徒歩』と。
それを可能とする力を『登山経験者か何か』と解釈し、青年。
「……時間はかかりますけど、自分も徒歩でルティシアに向かおうと思います」
不幸中の幸いで見識のある者に出会えたことに感謝しつつも、諦めて潔く——"足を棒にする"覚悟を決める。
「……ですので、都市近くの途中まで貴方に同行させてはもらえませんか。夜を跨ぐことになった場合は一日ぐらい、野宿でも構いませんので」
「……流石にこの時代、山賊なんかは出ないでしょうし——」
「出ます」
「出るんですか……」
「どころか、"山賊より恐ろしいもの"も——枚挙に暇がない」
しかし、直ちに揺らぐ覚悟。
青年は——『己がそこまで治安の悪い場所に来てしまったという』事実に体を震わし——望郷の念を強める。
(……そ、そんなに危ないのか。この場所は……)
(怖い……早く帰りたい——目覚めたい)
「……」
肩も気も、急降下。
『苦痛に苛まれるのは嫌だ』と。
青年はすっかり細くなった手足を抱え、覚めぬ悪夢の恐怖に怯える。
「……ですのでやはり——」
「……?」
だが、幸いにも今のその恐怖——長くは続かず。
青年の心は再び、恩人によって救われる。
「——私が同行します」
「……へっ?」
思いがけない提案に返す、気の抜けた声。
か細き腕の女性が言う『やはり』とは何か。
「……いや、それは、その申し出自体は有り難いですけど……」
「……何か問題でも?」
「……貴方は、それで大丈夫なんですか?」
(女性……だろうと男性であろうと、二人で山賊の出る場所を進むのは流石に……)
(……というかそもそも、そんな所を彼女が一人で来れてるのはどういう……夢ならそれでもおかしくはない、のか——)
「心配には及びません。"腕"には、自信がありますので」
「……」
そう言うアデスは胸の前で指を折った掌を張っての——
瞑目、不敵に口角は歪む。
漲る自信は小柄な少女?のどこから来るものなのか——"全くの謎"である。
(……本当に大丈夫なのか? 護身術とかは……習ってそうではあるけど……)
アデスの表情とは対称的に青年の心は重く。
(……もう何度も助けられてるし、それも今更か)
しかし、惑う青年にとって折角の好意?や出会いの幸運は不安を上回って魅力的なものであることもまた、事実だ。
故に彼女は最後に一つの疑問を投げ掛け、『その返答が"悪いもの"でなければ恩人に付き従おう』と心に決め、素朴な心情を明かす。
「……でも、アデスさんはどうしてそこまで——自分に良くしてくれるんですか?」
「自分は初対面で、しかも明らかに変な様子で……あまり豪華なお礼も出来ないのに、何故……?」
「……」
この疑問はアデスに出会ってからしばらくの間、胸の内に引っかかっていた疑念であった。
『高貴な者ならば気高き高貴の心を持って困窮する者を助けるべき——とでも考えているのか』
『それとも——別の"思惑"があるのか』
恩があるとはいえ、素性を良く知らぬ相手。
警戒してしかるべき状況で青年は、同行する前に相手の目的を明確にしておきたいと考えていた。
「……"得体の知れぬ者は信用に値しない"——そう、言いたいのですか」
「……感謝はしています。ですが、初めて会う方がこんなに良くしてくれたことは今までなかったので……念の為です」
「「……」」
そうして眼光、交差の後。
「……最もな言い分です」
「……手間を取らせてしまい、申し訳ありません」
「いえ。貴方が謝る必要は何も。寧ろその慎重さ、"世を渡る"のに重要な気構えだと感心していた所です」
「それは……どうも」
「……
視線を川に向けたアデス、理由を述べる。
「……詳細は貴方を混乱に突き落としてしまうため、ここでは省略しますが——」
「……」
「——端的に言って、貴方の神体となる同名の川と"私の領域"とが密接に関係しているため、私は"隣神"として
「川の、自治……」
「難しく考える必要はありません。"有事の対応策"は既に此方で備えている。貴方は心健やかであれば、それで構わない」
「……」
「貴方を助け導くことが、延いては私にとっても
「なる……ほど……」
(……つまり、『ご近所さんにしっかりしてもらわないと、こっちにも迷惑が掛かる』……みたいな、もの……?)
("神体"……についてはまだ良く分からないけど、やっぱり悪そうな感じはないし……うん)
「……でしたらやっぱり、都市が分かる所まで、貴方に同行をお願いしたいと思います。……いいですか?」
「勿論です」
「ありがとうございます。……それと、変に疑ってすみません。まだ少し混乱してて、信用するのにも気が疑い深くなってるみたいで……」
「…………いえ。構いません」
その信用が"吉"と出るか、"凶"と出るか。
『信を置く相手は選んだ方がいい』——とまでは言わず。
「——そうと決まれば早速に向かいましょう。目的地は"都市ルティシア"、行きの手段は"徒歩"。……相違はありませんか」
「はい。大丈夫です」
「……では、私が先導します。貴方は私の後ろから付いて来てください」
「分かりました。お願いします——」
頭巾を被り直したアデスを先頭に二つの影、都市に向けての移動を開始する。
「——お礼は都市に着いてから考えることになってしまいますが、それでも大丈夫ですか?」
「……返礼については先ほども述べた通り、気を遣う必要はありません」
「……分かりました」
「ですが、強いて言うのなら……」
「……? 何か要望があれば、可能な限り——」
「……いえ。やはり何でもありません。今は——」
「——"そうすべき時ではない"」
(……? 何だろう。音がフードに篭って良く聞き取れなかったけど……)
(……何にせよ。彼女は恩人。俺が苦しい時に助けてくれた方だ。……出来る限り、なんでも——)
川辺を離れて足を進め、
松の林に分け入り、その姿を隠す。
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