満月の夜
気分転換も兼ねて、サラは別の本にも目を通していた。
本を読んでいるときの集中力は凄まじいものである。しかし、それを妨げる誰かの視線を、サラは感じ取った。
鬱屈そうに後ろへ向き直ると、本棚の隙間に隠れていたさきほどの女性、ミーシャと目が合い、彼女はぴくりと肩を震わせる。
「なにか?」
「い、いえその。読書中で申し訳ないんですけど、お話がしたいなぁ、と」
この雰囲気、サラはどこかで知っていた。
話したいことはあるのに、相手にその気がなさそうなので声をかけづらい。邪魔になるのではという懸念。
最初に話したときから薄々感じていた、似た者同士の匂い。
サラは構わない、と小さく微笑み、机を挟んで対面の椅子を指差す。ミーシャもまた表情をぱあっと明るくし、小走りで駆け寄り腰を下ろした。
「わたし、このキウワンから出たことがないもので。旅のお話が聞きたいなぁ、なんて」
似た者、とは言ったがここまでわかりやすいだろうか。感情が表情に直結したような彼女を見て、サラは心配と同時に、自分はこうではないと言い聞かせる。
それでも素直な気持ちはよく伝わる。一度座り直してミーシャに身体を向け、微笑む。
「あまり面白おかしくは話せないけれど、それでよければ」
「はい! 是非お願いします!」
それから、サラは今まであった旅路の話をした。自分の素性がバレない程度に掻い摘んで、時に真実と嘘を織り交ぜながら。
サラが淡々と語るのに対して、ミーシャは一つひとつに相槌を打ち、夢中になって聞いていた。
傍から見れば姉妹のようにも見え、通りすがる人たちは一瞥するなり、微笑んでからその場を去っていった。
「メリーちゃんはどうして旅に出たか、聞いてもいい?」
申し訳なさそうに、しかし好奇心旺盛な目でサラへ問いかける。
暗黙の了解として、旅人の間で何故旅に出たかは聞かない。
というのも、この時代にふらりと一人旅に出るような人間は、相当な自由人か住処を失った浮浪者か、それ以下か……どのみち、そこに明るい理由はない。
故に改めて理由を聞かれ、サラが戸惑っていると、慌ててミーシャは付け加える。
「あ、言いにくかったらいいの。出過ぎた真似を……すみません」
「いいんだ。あまり聞かれないから驚いただけ」
天井を見上げるサラの目の色が変わる。遠い記憶に語りかけるように。瞼の裏には、いつもあの人の笑顔がある。
片時も忘れない、大切な人。
「私は……私を育ててくれた、師匠がいた。その人はもういないけれど、最期に師匠は私に広い世界を見てほしいと願った。いつか私の居場所が見つかるまで、いろいろな場所を歩いて、見て回りたい。大嫌いだった世界を、少しでも美しいと思いたい」
言い終わるなりサラははっとする。
つい感傷的に話してしまい、ミーシャを困惑させてはいないかと、彼女の方を一瞥すると――
「……ぐすっ」
鼻水を垂らして大粒の涙を流していた。まるで自分の家族が亡くなったかの如く、目と鼻の先を赤く染めていた。
サラの懐かしさはどこへやら、ぐしゃぐしゃになったミーシャをどうしたものかと、両手をわたわたと動かす。
目を擦りつつも、やはりミーシャは笑った。
「わたしのおばあちゃんはね、魔法使いだったんだ。お母さんもわたしも魔法の素質はなくて、おばあちゃんだけが捕まった」
「本当に優しくて、風邪を引いてばかりいるわたしに、いっぱい本を持ってきてくれた。だから、おばあちゃんが連れていかれるのを見て、ただただ許せなかった。確かに魔法使いだったけれど、何も悪いことはしてないよ。こんなことを言うと怒られるかもだけど、わたしは魔女狩りが本当にいいことだったのか、分からないや」
鼻をすすりながらも静かに語る姿を見て、サラの心臓が大きく一度脈打つ。
生まれも育ちも違うけれど、彼女は今まで見てきた人間とは違う。過去や風習に捕らわれない、柔軟な思考の持ち主で、人を愛する優しい心を持っている。
それがどんなに美しい財産か、サラは知っている。
「そう思ってくれるだけで私も、アリアも救われるよ」
ミーシャには聞こえぬよう、小さく呟いた。その瞬間、ミーシャの目にはサラの瞳が赤く光ったように見えた。
それが錯覚なのかどうか、彼女には知る由もない。
●
「今日はありがとう。読書の邪魔をしてごめんね」
「ううん。私も楽しかった。ここの国民に生まれなかったことを残念に思うくらい」
気付けば外は夕焼に照らされ、街灯が煌めき始めていた。
図書館も営業時間が終わり、サラとミーシャは別れを告げようとしていた。が、ミーシャは唐突に、一つの提案を持ち掛ける。
「あの、メリーちゃん。宿がなければうちに来ない? 職員の寮だから少し狭いかもだけど、もしよければ」
今日は宿の予約がないサラ。これがいつもの調子であれば不機嫌になり、ミーシャの提案を喜んで受け容れていたであろう。
様子を眺めていたリューはそう予測していた。
だが、サラは苦笑いで返す。
「悪いけど、それはできない」
「そう……旅人さんだものね。残念だけど仕方ないわ。じゃあ、また来てね」
残念そうに肩を落としつつも、やはり彼女らしい笑顔で別れを告げ、人の波の中へと消えていった。
フードを被り、そそくさと街の外へと向かうサラに、当然リューは疑問を抱いた。
『何故断る。今日は宿も取っていないであろう』
「今日だけは駄目なんだ。本当に残念だけど、野宿以外の選択肢はない」
だから何故、と問い返そうとするが、サラはその前に空を指差す。
黒に染まりつつある空には小さく光る星と、まだ存在感のない淡い色の、真ん丸とした月がいる。そこでようやくリューは気付き、口を閉ざした。
……街を出て少し歩いた山の麓、馬車も通らないような草原の端に、サラは寝床を作って焚火をしていた。
満月に照らされた明るい夜、サラの髪は銀に染まり、瞳の色は焚火を映したかのような赤へと変わっている。
昔を思い出すような、しかしてどこか悲しいような表情を浮かべ、長い髪を撫で、一人呟く。
「満月の夜は、魔法使いのマナが活性化する。ただそれはいいことばかりではなくて、マナによって彩られる銀色の髪と赤色の瞳は、魔法でも隠すことが難しくなってしまう。だからこの日だけは、他の人間と関わってはいけないんだ。ただ――」
あの女性、ミーシャになら本当のサラを見せてもよかったのかもしれない。
彼女は魔法使いに対して寛容で、サラが魔法使いだと知った上でも、同じように接してくれるだろう。
だがサラは、それをしなかったという後悔ばかりが胸中を埋め尽くす。
『わからんな』
「どこが?」
『お前は人間を愛そう、近寄ろうとする割には、最後の一歩で踏み止まる。愛そうとしている人間を恐れている。その矛盾がわからぬと言っている』
リューの言い分はもっともだった。使い魔である彼とは出会う前の記憶を共有し、同じものを見て来ている。だが考え方までが同じわけではない。
大切な人が殺されたという記憶を共有していても、精神の傷は同じ痛みを分かち合うわけではない。
旅人であるサラに厚意を向けてくれたのは今までに一人や二人ではない。
今日のミーシャのように、魔法使いに対して寛容な心を持っている人も少なくないのかもしれない。
けれどサラの記憶に強く刻まれているのは、恐怖ばかり。
母親から向けられた殺意、アリアの処刑に集まった多くの人たちの顔。輪郭も、目の色も、よく覚えている。
この顔が消えるまで、どれだけの時間が必要なのだろうか。あるいは、それを上から塗り替えてくれるような出来事があれば。
「……私は、その機会を逃したのかもしれないね」
またあの国に立ち寄る日はいつか。
少なくとも明日ではないし、来年か、もっと遠くか。
もしまたミーシャに、どこかで彼女に近い誰かに会ったのならば、今度はその機会を逃したくない。
空に浮かぶ満月。妖艶に輝くそれは、サラにかけられた呪いを解くかの如く降り注ぎ、銀色の髪を優しく照らした。
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