銀の魔法と赤の世界
永ノ月
プロローグ
武器の生産で栄えた大都市クウルの隣、草原を挟んで山際にある小さな村。ヤチヨ村にサラ=メルティアは暮らしていた。
彼女はある人の帰りを待っていた。この家の主であり、サラの魔法使いの師匠、村の人からは薬屋の愛称で親しまれている。
その影が窓から見えて、サラはすぐさま玄関の方へと駆けていく。
「おかえり、師匠!」
「ただいま……もう、ダメでしょ。家の中でも髪の色は変えておきなさい」
「ご、ごめんなさい」
顔を合わせるなり、薬屋は威圧的な笑顔でサラへ顔を近づける。
黒い髪を頭の後ろで一つ縛りにし、艶やかな藍色の瞳は、ぎくりとした表情のサラを捉えている。
サラは渋々、長い髪の色を透き通るような銀髪から、夜よりも暗い黒へ、つり目の大きな瞳はバラのような赤から藍色へ。身体の大きさ、纏う雰囲気は違えど、薬屋と同じ色合いに姿を変える。
「銀色の髪と赤い瞳は魔法使いの証。見る人が見れば、サラは捕まって……殺されてしまう」
サラと薬屋の表情が同時に曇る。それが嘘でも冗談でもないことを、彼女らは知っていた。
今から百年以上前、長きに渡った戦争が終結し、ようやく世界に平和が訪れようとしていたときの話。
後に『魔女狩り』と呼ばれる、凄惨な事件が世界中で起こった。それをきっかけに魔法使いの数は激減、表舞台から姿を消した。
「魔法使いは、もう私たちしかいないの?」
「そんなことないわ。私が知る限りではもっといる。それももう両手で数えられるほどだけどね」
「……本当に、魔法使いが悪かったのかな」
サラの口からぽろりと零れる。実際のところ、薬屋でさえもその真相を知ることはできない。
「ごめんね。私たちのせいで、サラのような若い魔法使いにまで苦しい思いをさせてしまっている」
「師匠は悪くないよ。みんなは魔法使いに助けられてきたのに、手のひら返して殺すなんて……本当に、ありえない」
十四になったばかりのサラには、魔女狩りは昔話でしかない。だが彼女が生まれてから受けた差別、迫害は間違いなく過去の残滓だった。
サラの両親は魔法使いではない。しかしサラには魔法使いの適性があった。
この世を形成する生命の素であり、魔法の燃料となるマナ。光の粒のような形でこの世を巡っており、魔法使いにはそれを視認することができる。
ただそれだけで、サラには魔法を扱う技術も訓練も受けていない。
しかし残酷なことに、サラは銀の髪と赤の瞳を携えて生まれた。それだけで周辺住民から避けられ、父親は姿を消し、母親から捨てられた。
すべてを失い絶望したサラに、薬屋は手を差し伸べた。
家を与え、魔法を教え、生きる術を叩きこんでくれた。
「いい? サラ。私たちは魔法使いだけど、同時に人間でもある。同じ世界を生きる仲間なの。たとえどんなに憎まれようと、傷つけられようと、私たちは人間を愛する。いつか過去が証明されるときまで、生きるのよ」
これを薬屋は口癖のように言っていた。サラは聞き飽きたように「わかってるよ」と流す。
この教えもあり、過去にトラウマを植え付けられたサラも、今は健やかに過ごしている。
だが時折、サラはふと考えてしまう。もし本当にそんなときが来たら――
「私は……」
人間を憎まずにいられるのだろうか。サラにはまだ、その確信を得られずにいる。
そんなことをぼんやりと頭の外に流し、温かな布団にくるまって眠りについた。
この家に来てしばらく、サラは毎日悪夢を見ていた。
唯一の肉親である母親から、殺意を向けられた夢だ。それはサラにとって首輪であり、足に取りつけられた枷だった。
今日は久しぶりにその夢を見た。が、もうそれに泣いたりはしないし、胸も苦しくならない。そうなったのはいつからだろうか。
いつの間にか、自分の痛みに無頓着になってしまったな、とぼんやりとした思考で朝を迎える。
雲が濃く出て日差しを遮り、今にも嵐が来そうな、不穏な空だった。
「サラ、起きた?」
玄関から師匠の声が聞こえる。サラは寝起きの掠れた喉で「今起きた」と力なく返す。
「今日はクウルに薬を売ってくる。昼には帰ってくるから、それまでにご飯作って待ってて」
「はぁい」
玄関のドアが閉められた音が聞こえると、サラは欠伸をしながら布団から這い出る。
居間の大テーブルには薬屋の作った朝ご飯が並べられている。窓側の小さな椅子に座り、まだ湯気の立つ紅茶に口をつけ、ほっと息を吐く。
薬屋から与えられる仕事は薬の調合ばかり。基本的な魔法を会得したサラにはもう教えることがないらしく、修業は退屈なものへと変わっていた。
今日の分の薬の調合を終え、窓越しに暗い外をぼんやり眺める。
「早く帰ってこないかな、師匠」
……サラが外の異変に気付いたのは、昼ご飯の支度を終えてすぐのことだった。なにやら村の人が集まり、ひそひそと話をしている。
サラは外に出て、その集団に身を埋め込んだ。
「なにかあったの?」
サラの問いかけに振り向いたのは、隣の家に住む初老の男性。サラにとって馴染み深い人物の一人。
「ああ、薬屋の。クウルで魔法使いが見つかったらしい。誰かはわからんが、これから火炙りが始まるんだとさ。このへんにもまだ魔法使いがいたなんてな」
ゾクッと、サラの背中に悪寒が走る。
薬屋はクウルに行くと言っていた。昼には戻ると言ったにもかかわらず、まだ戻る気配もない。
サラの脳裏に過ぎるのは、嫌な憶測ばかり。
「その人の名前は?!」
「いや、名前まではわからんが」
男性に掴みかかって問うや否や、返事を聞いてすぐさま走り出した。
歩くには少し遠い道のり。しかし、サラは走るしかなかった。それしか考えることができなかった。
穏やかな草原に敷かれた土の道路を走る。息を切らせて、足が千切れそうになっても走る。
朦朧とする思考の中、何度も薬屋の顔が浮かぶ。
サラが来たばかりのときは、いつもどこか悲しそうだった。それから、彼女を励ますように明るくなり、いろいろなことを教えてくれた。
字の書き方。料理の基本。魔法の歴史から基礎まで。何度も丁寧に教えてくれた。
初めて魔法を使ったとき、薬屋は目に涙を浮かべて喜んでいた。
怒られることもあった。一緒に泣いたこともあった。でもそれ以上に、あの人の笑顔が、頭から離れない。
「師匠!」
街のシンボルである大きな噴水のある広間。
その中央に十字架の材木が立てられている。そこに吊るされている魔法使いが一人、俯いている。
銀色の長い髪と赤い瞳をした、大人の女性。
なんてことない、一般的な市民の服装をしている彼女は、両手、両足、胴体を魔法封じの鉄でできた鎖で縛られている。
女性がゆっくりと顔を上げる。美しくもどこか儚い――サラの大好きな人が、そこにいた。
声が出なかった。
喉が熱くて、声は詰まって息も苦しい。心臓が締め付けられる。胃にいくつもの穴が空いたようにキリキリと痛む。食べて消化されていないものが口から飛び出しそうだ。
周囲のささやき声も、今のサラには大きく聞こえる。
「しかし隣村の薬屋が魔法使いだったとは。薬と称して毒を飲ませてたのか?」
違う。魔法を用いた薬は人体にも優しい。今まで何人もの病人を救ってきた。
「馬車に轢かれた女の子に魔法を使ったんだってよ。今更人を救おうなんて」
今だから救うんだ。どうしてそれが優しさだと捉えられない。
「ああ恐ろしい。あの村ごと焼き払いたいわ」
――どうして、そんなことが言えるんだ。魔法使いだって同じ人間なんだ。
なのにどうして、世界に溢れるマナを見据え、魔法を使えるだけで、そこまで非情になれるんだ。
わからない。わからない。わからない。……憎い。
どうして人の生命を救った善人を殺すんだ。どうして……。
「顔を上げて」
そう、聞こえた気がした。サラがはっと目線を上げると、吊るされた彼女と目が合う。
この距離で声が聞こえるわけもない。魔法も使えない。それが幻聴だと、考えるまでもなくわかる。
それでも確かに、薬屋はサラを真っ直ぐ見つめていた。そしてこの状況に置かれてもなお、笑顔を絶やしていなかった。
いつも通りとはいかないが、優しく穏やかな笑みだった。その裏に潜む無念や悲しみを覆い隠せるほどに。
火が全身に移る前に、サラはようやく声を振り絞って、名を叫んだ。
薬屋の本当の名前。弟子に名前を呼ばれるのは恥ずかしいからと、照れ笑いしつつ教えてくれた名を、叫んだ。
「アリア!」
薬屋の耳にそれが届いたのかどうか、サラにはわからない。
しかし確実に、薬屋の表情は緩んでいる。口を動かしているが、当然その声は聞こえない。
彼女が遠くに行ってしまう。どうにもできないことなのは明白で、それでもサラは叫んだ。
じわじわと押し寄せる現実を拒むように、何度も。何度も。
「アリア……アリア!」
声は掠れて小さくなっていく。
薬屋の身体は炎に吸い込まれ、赤く染め上げられた。
その光景を、サラは一秒たりとも目を離さなかった。
瞳の奥に焼き付けるように、それを見ていた。
涙は出ない。もうとっくに枯れてしまったのだろうか。
こんなにも悲しい状況に、サラは自分が泣けないことに嫌悪すら感じていた。
――雨が降り始める。大粒の水滴がいくつも空から降り注ぐ。やがて強い風が吹き、雷光が黒い空を彩る。
冷えていく手足。それでも両手で抑え込んだサラの胸は熱く、熱く滾ったままだった。
●
ぐっしょりと濡れた焦げ茶色のブーツ、純白のワンピースと漆黒のローブはそのまま、サラは家に上がる。足下には小さな水溜まりができる。
きっと、彼女は早く風呂に入れと叱っていただろう。
泣いていれば、その後一緒に寝てくれただろう。
彼女の腕の中はいつも温かくて、草原の柔らかい匂いがした。とても落ち着く、馴染みある匂いだ。
もう、それはこの世界に存在しない。
声にならない、掠れた喉で断末魔のような叫び声を上げる。
テーブルをひっくり返し、椅子を持って叩きつける。棚にあった食器を乱暴に床へ落とし、サラのお気に入りだったティーカップを、壁に掛けた時計に投げつける。
目につく彼女との思い出を、手当たり次第に壊して、叫び続けた。
ガラスの破片がサラの手を切る。足を切る。しかして今の彼女に痛覚はなく、暴れ続けた。
息も絶えそうになり、ガラスや木片がバラバラに散らばった床の上にしゃがみこむ。
それでも、涙は出ない。
「なんで……なんで泣かないの」
顔を覆う手のひらは血にまみれていた。それを見てようやく、ズキズキと全身が痛みを思い出す。
「こんなんじゃない……師匠は、アリアはもっと苦しかった!」
目を瞑れば、瞼にはあの光景が蘇る。炎に包まれる彼女の姿――
一度として人を憎まず、人に寄り添い、人を愛していた彼女が、炎に焼かれる様を。
殺したい。
あの街の狂った連中を。魔法使いを前に倫理を失った、あのイカれた人間たちを、殺したい。そうしたら――
「私も、一緒に……」
死にたい。その言葉とともに思考は真っ白になり、世界が静まり返る。
すると雨の音とは別に、なにか小さな音がすることに気付く。耳を澄ませると、それは紙の擦れる音だ。
その在処の方へ、ふらりと立ち上がって近づく。
倒れたテーブルとテーブルクロスの間に挟まっていたのは、赤い蝋で止められた手紙だった。
微弱ながら、彼女の魔力を感じる。きっと、こうして見つけられるよう仕込んであったのだろう。
躊躇うでもなく、サラはその手紙を取り出して目を通す。間違いなく彼女の字体で綴られていた。
『サラがこれを読む頃には、きっと私の手から離れて、一人で生きる時が来たのね。
私が貴女を拾ったのは本当に偶然で、もしかしたら貴女はとっくに死んでいたのかもしれない。
それほど、出会った頃のサラは危うい存在だった。
私は子育てなどしたことがないもので、どうしていいのか分からなくて、私も隠れて泣いていたの。バレてなかったかしら。
初めて魔法を使えたときは、本当に嬉しかった。魔法が消えていくしかないこの時代にも、新たな魔法使いが生まれた。そんな実感が湧いて、思わず泣いてしまったのよね。
子どもの成長は本当に早くて、あっという間に貴女は大きくなっていった。同時に、不安も渦巻いてきた』
一枚目が終わり、サラは無心で二枚目へ視線を送る。
それからの字は、震えていた。
『大きなっていく貴女を見て、このままでいいのかって。
貴女は生まれたクウルの街と、この村の暮らししか知らない。
この世界はもっと広くて、いろいろな風景も、食べ物も、人もいる。
きっとサラは私と一緒がいいというけれど、それはできないとどこかで思っていたの。当然私も手放したくはない。
でもそれじゃ貴女は一生、それこそ私が死んだら一緒に死のうとするでしょう?
だから、心を鬼にして突き放すわ。この広い世界を、貴女の目で見て回ってほしい。たくさんの人と出会ってほしい。
もしかしたら、貴女を愛してくれる人が他にいるかもしれない。
だから、どうか人間を嫌わないで。
私たちの心なんて関係なく、冷たく接する人は多いでしょう。でもこれだけは忘れないで。
私たちは魔法使いだけど、同時に人間でもある。同じ世界を生きる仲間なの。たとえどんなに憎まれようと、傷つけられようと、私たちは人間を愛する。いつか過去が証明される時まで、生きてほしい。
いつ時代が変わるかなんて保証はできないけれど、サラにはそれを見届けてほしい。無責任かもしれないけれど……どうか私の分まで、生き抜いて』
どこからか、あの人の声が聞こえた気がした。聞き飽きた言葉が、胸に刺さって取れない。
指先も震えながら、最後の紙を見る。
『風邪には気を付けて。ちゃんと食べて、温かくして寝るのよ。
どうか、サラの人生に多くの幸福があるよう、祈ります。
愛しい私の娘、サラ=メルティアへ。アリア=イースターより』
気が付けば、サラはその手紙を胸に押し当てていた。強く、強く。
紙がくしゃくしゃになっても構わない。今はただ、その温もりを少しでも多く感じたかった。
唇を噛み締めて、押し上がる感情を必死に抑えた。
膨れ上がった憎悪を、自殺願望を必死に抑え込んで、飲み込んだ。まだ、死ぬわけにはいかなくなった。
彼女がいなくなった今、サラはこれまでよりもずっと強く、逞しく生きねばならない。そう感じた。
「……行かなきゃ」
手紙を片手に、サラは自分の部屋へと走った。
でき得る限りの旅支度を整え、サラは孤独の旅に出る。
アリアの意思を継ぐために。より多くの世界を、人を知るために。
嵐の中、自分よりも大きくなってしまった麻色のカバンを背負い、夜の闇へと姿を消した。
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