第3話 「邪教集団」

 なんとたとえれば、よいのであろう。

 蝋燭ろうそくの灯火がゆれる室内には官能的な匂いが漂っている。

 人工の消臭剤でもなく、香木を焚いた香りでもない。


 いえることは、臭覚をゆっくりと刺激するその空気を肺に取り込んだとたん、神に対する背徳心が消えていくのだ。

 台座に立つ女があがめる対象こそが、真のあるじであると告げてくるのだ。

 

 その対象とは、悪魔の頂点に立つ魔王サタン。

 伝道師の役割を担うのが、魔界ナンバーツーにある「蝿の王」ベルゼブブであった。

 

 ベルゼブブはもともと、旧約聖書時代にカナン地方の人々が崇拝していた「バアル・ゼブル」という異教の神であった。

 ユダヤ人がそれを「蝿の王」と言い換えたのだ。

 新約聖書中に「悪霊の頭ベルゼブブ」という記述があり、ジョン・ミルトンの「失楽園」で、ベルゼブブはサタンに次ぐ地獄のナンバーツーの地位があるとされている。


 床にひざまずき祈りを捧げる集団は、「面をあげよ」と耳元で耳朶みみたぶをネットリと熱い舌先で舐められるように囁やかれ、ゾクリと背筋に快感を走らせた。

 いくつものフードがゆっくりと持ちあがった。


 台座に立つ女性は黒一色。

 床まで届きそうな長い髪、漆黒のドレス、黒い手袋。

 もっとも黒いのは大きな瞳だ。

 眼球の代わりにブラックオパールを埋め込んだような、暗黒の光沢。

 細面の顔は陶磁器のように白く、口元にも黒いルージュが引かれている。


「わが子らよ。

 われの声を聴き、われと共に祈るのだ。

 この世を治める真のあるじに」


 二十歳代にでも、八十歳代にでも見える女は、ほとんど口元を動かしてはいない。

 だが室内にいる誰にも、すぐ耳元で快感と共にその声が脳天を走る。


「快楽に身を委ね、心を解き放つのだ。

 本能が欲する真理を、なぜ押しこめる。

 われらのあるじは、すべての欲望に『肯』とおっしゃる。

 誤った規律に身も心も縛られ、それで生きているとお思いか。

 厳しき戒律は苦しみしか与えてくれぬのではないか。

 さあ、心を解き放つのだ。

 われらのあるじはいかなる要求にも応えてくださるのだ」

 

 オオウッ、と感嘆の声が上がる。


「祈るがよい。

 すべての煩悩をあますことなくわがあるじの御前にさらけよ」


 悪魔崇拝の邪教信者たちは、再び頭を垂れて呪詛を唱え出した。


「むうっ」


 台座に立ち、両手を広げて宙に顔を向けていた謎の女は口元を曲げた。

 なんの気配も感じ取れなかったのだ、玄関が開けられて立ちこめていた淫靡いんびなる室内の空気がゆれ動くまで。

 キッと真っ黒な双眸が向けられた。

 玄関先に立つ大きな影ひとつ。


「なにやつ!」


「あなたこそ、ここでなにをなさっておいでで?」


 影が問う。

 胸元に下げられた十字架が月光の淡い光を反射した。

 だがその光は強烈な十字の灼熱となり、女の顔を苦悶に歪ませる。


「よ、よもや、エクソシトか!」


 女はドレスの袖で顔を隠し、叫んだ。


「ご存じであれば結構です」


 影、フィリップはご近所で井戸端会議をするような、のんびりとした口調で言った。

 そのやりとりを床にひざまずいたままの姿勢で耳にし、「エクソシスト」が登場したことに慌てだす集団。


 エクソシト。

 敬虔けいけんな信者であればむしろすがりつきたい存在であるが、彼ら彼女たちは神に背き、悪魔を崇拝し己の欲望を満たそうとする非信者だ。

 この町で非信者の烙印を押されれば、一家離散か他の町へ逃げねばならぬ。

 それを見越したかのように、フィリップは明るいが威厳を込めた大きな声で説法する。


「あなたたちはしゅの教えに背き、忌むべき悪魔を崇拝しようとしているっ。

 すべての欲望のままに生きていけば、必ずわざわいがふりかかるでしょう! 

 だが、安心なさい。

 しゅはすべてをお許しになります。

 なぜなら、わたしたちは全員が神の子なのですから。

 悪魔は狡猾にもあなたがたの弱い心の隙間に入り込み、誘惑をしてきます。

 今ならまだ間に合う。

 すぐに帰りなさい。

 そして、神に許しを乞うのです。

 そうすればすべて白紙にもどる」


 集団から安堵のため息がもれた。


「そうはいかぬ!」


 女は真っ黒な双眸に怒りの炎を燃やし、カッと口を開いた。

 顎が外れたかのように、ガクンッと垂れ下がる。


「おうっ」


 フィリップは両手首にはめた「ネオンリング」をカチンと交差させた。

 聖なる環がカタカタカタッと両手と左右の脛に装備される。

 

 二十センチ以上開いた女の口から、ウワーンと不気味な羽音と共に、大量の蠅が飛びだした。

 集団は悲鳴を上げて玄関から逃げようと走り出す。

 燭台で揺らめいていた数十の灯火は、停滞していた空気が大きく乱れるとかき消えた。

 室内は天に座す満月が薄汚れた窓ガラスから、濁った湿り気を含んだ光を注ぐのみだ。


 室内はパニック状態となった。

 フィリップは素早く判断し、サッと玄関口から横の壁に背をあずける。

 邪教に心酔していた集団は、しょせんは小さな個、であった。

 我先に逃げようと、唯一の脱出口である玄関へ殺到する。

 だが玄関は狭い。

 ひとりが転び、後ろから押された別の人間が覆いかぶさるように倒れる。

 その連鎖だった。


 神父の判断はその群衆に巻き込まれることを回避していた。

「ネオンリング」で鎧う両手で玄関ドアと壁を叩き割った。

 土と木材、煉瓦で造られていた厚い壁も、鋼鉄のハンマーを超えるパワーで粉砕される。


「落ち着いて!

 あわてないで、みなさん!」


 フィリップは人々の叫び声を上回る音量で叫んだ。

 ただの大声ではない。

 パニックに陥った人々のさまよう心に、難破船が波間に見る灯台の光のように安心感をもたらせる。


「おおっ、神よ!」


 先ほどまで邪教に身も心も溺れかけていたが、ようやく目が覚めた様子だ。

 フィリップは笑みを浮かべた。

 そこへ塊となった蠅が襲いかかる。

「いかんっ」、フィリップは考えるよりも先に動く。


 たかが蠅、ではないことを承知している。

 魔女がベルゼブブ自身なのか配下なのか不明であるが、地獄の世界より湧きいでし蠅を操り、エボラ出血熱やエイズウイルスよりも伝染力の強い謎の病原体を媒介させるのだ。


「全知全能の神よ!

 我に力をっ」


 フィリップは逃げる集団の前に両脚を広げ立ちふさがり、グローブをはめた両腕を顔の前でクロスさせた。

 銀色のスパークがグローブから放たれ、フィリップを包む。

 何百、何千もの毒蠅は電器殺虫機に吸い寄せられるように、ウワーンッと不気味な羽音を響かせて銀色に輝くフィリップへ向かっていく。

 バシュッ、ブシュッと音を立て、毒蠅は放電に次々と散っていった。


「グオオッ」


 魔女は大気を揺るがし、さらに口から大量の毒蠅を飛ばす。


「無駄な行いですっ」


 白銀に輝くフィリップは悪魔さえ神の御許みもとへ導こうとしているのか、凛とした声で魔女を真っ直ぐ見つめる。

 そして気づいた。

 台座前の端に逃げ遅れた信者がおり、身がすくんでいるのか、動けないでいることに。


「ネオンリング」をこうして放電させる方法は本来の使い方ではない。

 あくまでも打撃や魔物を捕獲するためのグローブである。

 師マルティヌスとの修業の途中で、幾たびかこの方法で悪魔と戦ってきたが、聖なる環でも万能ではない。

 フィリップの精神の力を具象化するのだが、まだ修業が足りぬ。

 ゆえに放電し続けると打撃の比ではない精神力が消耗していくのだ。


 悪魔と戦うエクソシストとして目の前の魔女を叩き伏せるのか、それとも迷える人々に手をさしのべる神父として動けぬひとを救うのか。

 一瞬の迷いが起きた。

 放電を解けば、すかさず毒蠅が襲ってくる。

 だが解かねば逃げ遅れたひとを救いにいけない。

 このまま放っておけば、己しか守ることができない。

 フィリップは意を決し、交差しているグローブをはめた両腕を開いた。

 魔女の暗黒の双眸そうぼうが不気味に光る。

 

 ウワーンッ!

 

 恐怖の羽音が一斉に、銀幕のシールドが消えたフィリップへ襲いかかった。

                                  つづく


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