夢山河

籠り虚院蝉

第1話

「実は夢に破れてしまって」

「夢に破れる、って」

 彼女は図書館の読み聞かせボランティアで子どもたちに向けて絵本を読み上げていた。憧れの大学、憧れの学部に進学したものの、学費に困って就職活動もままならず、実家に帰るのも気が引けてアルバイトをフルタイムでこなして生活費を遣り繰りしつつ、活動を続けている。休学しているとばかり思っていた大学は中退していたらしい。両親には打ち明けていないらしい。僕と彼女は同じ学部、同じゼミの仲間だった。

 図書館で彼女と出会ったのは冬季休業が明けてすぐだった。社会学の修士論文の一環で児童福祉について調査することになった僕は、県立図書館の読み聞かせボランティア活動に参加することにしていた。そこで偶然彼女と顔を合わせた。同じ学部とゼミでそこそこ会話が多かった仲なので気兼ねしない。

「なにか夢があったの」

 僕たちは読み聞かせを終えたあと、図書館近くの喫茶店に入っていた。

「絵本作家を目指していて」

「絵本作家って学歴は関係ないんじゃないの」

 間髪容れずに言うと、彼女は少々ばつが悪そうな顔をし、わずかにまぶたを伏せた。

「ごめんなさい。嘘吐きました。本当は記者になりたかったんです。地方紙の、社会部の」

「なるほど新聞記者か。たしかに最低でも四大卒じゃなきゃダメだもんな」

 まずい、と思った。あまりにデリカシーのない発言だった、と。

 しかし、彼女はそんな発言に微笑んだ。

「そうなんです。四大卒じゃなきゃだめなんです。だから親の渋々も説得して協力してもらったのに、人生一回切りの挑戦だって頑張ってきたのに……三次の役員面接で私の志はまだまだ小さいってふるいにかけられちゃいました。なにがいけなかったんだろうってずっと自問自答していたんですけど、そのうち無性に怖くなってやめて」

 それだけで喉が乾いてしまったのか、彼女はエスプレッソに口を付けた。苦くないのかな、と思った。そういえば、人生の経験が苦ければ苦いほどビールが旨く感じられるという話を聞いたことがあった。コーヒーも同じなのだろうが、僕はどちらも飲めやしなくて目の前の甘い紅茶に目配せした。

 僕は黙ってしまった彼女をよそに自分について考えた。いわゆる都会育ちの僕は、家庭も税務署職員の父と小学校教諭の母が支えており、進路に困ることも勉学に困ることもなかった。欲しいものはテストで満点を取ったり、学年で十位以内に入ったら褒美として買い与えられる程度で、僕自身の成績も悪いわけではなく、欲しいものは特に苦労せずなんでも手に入る。大学院に入ることができたのは僕自身奇跡だと思っているが、それもどこか予定調和のようなものを感じてやまなかった時期があった。だからこそ博士に進むか修士で留まるかの選択の瀬戸際のいま、彼女のことが気になった。

「なんで絵本作家って嘘を」

 不意に出てきた言葉は、また彼女にとって痛い部分を突くものだったかもしれない。

「子どもたちへの読み聞かせボランティアをしているところで出会ったので、そういう嘘が無難かなって。ずっと新聞記者になるのが夢で絵心なんて全然無いのに、なんで嘘吐いたんだろ私……。そっちのほうがずっと恥ずかしい」

 そう言って頬を赤らめると、覆うように手で顔を隠す彼女。

「新聞記者になるためになにをしてきたの」

「それは、各紙の通読とか、記事の比較分析とか、地域の行事に参加して取材してみたり。高校時代、新聞記者になるんだって決めたときから自分でスクラップノートを作ってきて、今では十冊以上あります。もう辞めてだいぶ経ってるし埃被ってるんじゃないかなあ」

 つまり、彼女は新聞記者になるための努力をやめてしまったらしい。新聞記者になるためには最低でも四大卒が絶対条件で、三十歳までなら社会人採用をしている企業も多いはずだが、新卒中途問わず採用の応募に限度回数を定めている新聞社もある。しかし、彼女は国立大学にもかかわらず学費に困窮して中退。アルバイトの身では今から大学に入り直して新卒枠を狙うというのも厳しい。

「夢破れて山河あり。城春にして草木深し。時に感じては花にも涙を濺ぎ。別れを惜しんでは鳥にも心を驚かす、って知ってますよね。杜甫の。冒頭四句だけ覚えてるんです。大学中退した後にふっと思い出して」

 頬を赤らめたままそう言う彼女に、僕はしばらく呆けたままだった。

「感傷に耽ってるところ水を差すけど……夢破れて、じゃないよ。国破れて、だよ」

「えっ」

 目を丸くして口を開ける彼女。そのまま手で口を押さえて体をかたかた震わせ始めた。

 その子どもっぽい挙動がなんだかとてもおかしくて、僕も思わずにやけて、しまいにはお互い失笑してしまった。

「もう、いきなり笑わないでよ。本当はちょっとどんなふうに接したらいいかわからなかったんだから。会うの二年ぶりだもん」

「いや、僕は最初からおかしいなと思ってたよ。妙に改まってるから笑い堪えるのに必死だった」

 先程までのよそよそしい雰囲気を蚊帳の外にして、僕たちは笑い合った。しかし、事実は変わらないだろう。彼女は大学を中退し、それゆえ夢に破れ、僕はいま修士論文の執筆のため、図書館の読み聞かせボランティアを調査しようとしている。特になんの夢も持っていない僕が彼女の失意をよそに。まだ笑う彼女と裏腹に、僕は乾いた笑いで繕いながら気持ちが沈み込んでゆくのを感じた。

 一頻り笑って落ち着いた彼女に、僕は言う。

「僕も修士論文の一環で子ども時代の読み聞かせ経験について調査することになってるんだ。だからその成り行きでだけど、しばらく由芽のボランティア活動にも同伴していいかな」

「修士論文でボランティア活動の調査かあ。いいよ、私なんかで良ければ」

 そう言って彼女は快諾してくれた。

 それから約三ヶ月間。僕──宮内透と、彼女──遠野由芽の、短い物語が始まった。

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