夢(後)

 獣の咆哮と銃声がやんで静かになったロビーに、三人分の足音が響く。隊長格の指示を受けた残りの三人が、銃口を向けたままワイルドガウンに迫る。


 ワイルドガウンに残された選択肢は少ない。回れ右して逃げ出すか、捨て身の特攻を試みるか。命が惜しいなら前者を選ぶのが恐らく正解だ。だが、この時の俺には思いもよらなかった理由で、ワイルドガウンはそれを踏みとどまった。


 強盗事件の現場となれば、それがたとえさして珍しいものでなくとも野次馬は集まる。連れて行った犬達が逃げ出した今、その後を追いかければワイルドガウンの築き上げてきた名声は地に落ちる。

 彼のプライドはそれを許さなかった。が、自分の命にも当然しがみついた。結果としてヤツが取ったのは第三の選択肢だった。


「ま、待てわかった! 降参だ!」


 銃口を向けて迫ってくる三人と、奥で既に銃を下ろして壁に背を預けている隊長格に向けて両手を掲げてみせる。


「降参んん?」


 隊長格が予想外だ、と言いたげに顔をしかめ、寄りかかっていた壁から身を起こす。


「ほら、こういう時は人手はいくらでも必要だろ? きょ、協力、協力するよ!」


「……はっ、馬鹿か。お前みたいなイレギュラーを入れたら不測の事態が増えるだけだろ」


「お、お前らが指示をすればいい。俺は言われた通りにやる! 何でも手伝う!」


 目深にかぶっていた獣面のフードを脱ぎ捨てて、その場に膝をつき、土下座しかねない勢いで自分に反抗の意志がないことを示す。


 フードの下から現れた素顔は三十代くらいの男性のものだ。無精髭とゴツゴツした骨格が目立ち名前の通りワイルドな印象ではある。だが、目だけは小動物のそれだ。臆病そうにきょろきょろと周囲の様子を忙しなく窺い、保身に余念がない。

 今だからわかる。あのフードは、彼がヒーローとして活動する上で不可欠だったものだ。


「ふん……ま、人質の中から使えるのを選ぶよりは従順かもな。何と言っても臆病そうだ」


「ハハッ、ちげぇねえや」


「ワンコロがいなくちゃ何も出来ねぇしな」


 隊長格が頷いたのを見て、部下達がゲラゲラと笑い声を上げる。ワイルドガウンは言い返さない。顔は俯き気味だが、視線は上目遣いで変わらずキョロキョロと動き回り、自分を取り囲む男達の表情や手にした銃の様子をつぶさに観察している。どの顔が、どの銃口が、自分を害するものなのか。ひたすらそれだけを気にしていた。


「そんじゃ、そいつら一人ずつ、手足縛ってくれるかい、ヒーローさんよ」


「わ、わかった」


 指示されるまま、ワイルドガウンがロビーの隅に追いやられた俺たち人質の方へやって来て、一人一人の手足を縛っていく。妙に手際がいい。前にも同じようなことがあったんじゃないかと疑うには十分だが、もちろんそれも幼い俺にはわからなかった。


 やがてビニール製の紐を手にしたワイルドガウンが俺と両親のいる一角へやってくる。ほとんど躊躇いもせず悪党に屈したワイルドガウンも大概愚かだが、この場で最も愚かな人間を一人選出するとしたらそれは間違いなく俺だった。


 なぜなら俺は、このとき、ことここに至ってまで、ワイルドガウンという男がヒーローなのだと、この窮地から自分を救ってくれる存在だと信じていたのだから。

 人質を縛り上げるのも、諦めたフリをしているのだと思っていた。連中の隙を見て反撃に転じ、どこからともなく呼び寄せた無数の動物を従えて悪ものどもを全員しばき倒してハッピーエンドになるのだと、何の曇りもなくそう信じていた。


 ヒーローものの特撮番組の見過ぎか、成功したヒーローしか取り上げないメディアの陰謀か。いずれにしても、小学校低学年の子供が抱いて当然の、罪の無い期待。けれどまず間違いなく愚かとしか言いようが無い、間違っているとしか思えない考えを疑いもしない幼い俺は、自分の父親を縛り上げた男の前に飛び出していた。


「……何だ」


 ワイルドガウンが、人質の群れから転がり出てきた子供を見下ろす。自分を見上げるその子の瞳に翳らぬ羨望を見て、ヒーロー気取りのハイエナは何を考えただろうか。


「たすけて、くれるんだよね?」


 両親の「やめなさい!」という悲鳴に近い制止の声を無視して、俺は悪党に膝を折ったヒーローを見上げる。ワイルドガウンの右の眉がつり上がる。


「何だガキ、文句でもあるのか?」


「だって、ワイルドガウンはつよいもん。あいつらのこと、やっつけてくれるよね?」


 威嚇の意味も理解せず足下で目を輝かせる子供に、ワイルドガウンが何事か言おうと口を開きかけたとき。


「おい、どうした。何してる」


 部下達の一人が、立ち止まって動かないワイルドガウンの背中に声をかけた。びくっとワイルドガウンの肩が跳ねる。


「な、何でもねぇよ。ちょっと、ガキが言うこと聞かねぇだけだ」


「犬は操れても子供一人言うこと聞かせられやしねぇってか? 役立たずはいらねぇよ」


 俺の位置からも、ワイルドガウンの後方で部下のうち二人が銃に手をかけたのが見えた。


「ま、待ってくれ、やる、言われた通りにやるからよ」


「早くしろよ」


「あ、ああ」


 慌てて言い繕い、ワイルドガウンが足下の俺に向き直る。


「ねぇ、ワイルドガウ――」


「うっせぇガキがッ」


 どごっ、という鈍い音はどこか遠くで鳴ったような気がして、母さんの「キャッ!」という短い悲鳴も耳の奥で鳴っているのか遥か遠くで聞こえたのかわからない。

 胃に衝撃を受けて胃液が波打ち、一拍遅れて鈍く重い痛みが身体の内側から競り上がってくる。足が地面を離れ、俺の身体は後方に踞っていた両親のところまで吹き飛ぶ。

 右足を突き出したワイルドガウンを見上げたとき、ようやく幼い俺にも蹴り飛ばされたことが理解できた。


「ぁ……ぇ……?」


 衝撃で喉が詰まり声が出ない。俺の口からか細くこぼれる疑問の声を、ワイルドガウンの荒い鼻息がふんっ、と吹き飛ばした。


「邪魔だガキ、変な疑いをかけられたら俺の命が危ねぇんだ。そこで大人しくしてろ」


 恐らく俺はその言葉の半分も理解していなかっただろう。憧れのヒーローが自分を蹴りとばすなんて事態が、どんな状況なら起こりうるのか、子供の頭では理解も予想も出来なかった。

 だが、目の前の男がもはや自分たちを救うヒーローではなく、覆面と銃器で自分たちを威圧する男達と同じモノに成り下がったっことは理解した。


 なぜなら彼の瞳には、赤黒い敵意が燃え盛っていたから。


 自分に害を成す者を決して許さない、保身一つに執着した人間に独特の粘ついた攻撃の意思が揺らめいていたから。

 俺はようやく理解する。


 こいつは、ヒーローなどではない。ただの嘘つきだった、自分は、世間は、騙されていたのだと知った。


 今の俺にはわかる、隊長格の男が口にした「ハイエナ」という呼び名の意味が。ワイルドガウンはヒーローではなく、詐欺師だったのだということが。

 ふつふつと沸き上がって来るのは怒り。


 裏切られた。その怒りが心臓から血管を通じて全身に行き渡る。脈打つたびに怒りは上塗りされ熱量を増していく。


 そして感情の熱量に呼応するように肌が泡立ち始める。

 比喩ではなく文字通りに、皮膚の下で脂肪が全部溶け出して沸騰したかのようにぶくぶくと肌が波打つ。やがて一つ一つの泡は大きくなり、程なくして俺の身体自体が一つの泡であるかのように膨張し始める。


 手が、足が一回り、二回りと大きくなる。骨がミシミシと音を立て、俺の意思とは関係なく全身が膨れ上がる。

 骨格も体型も筋肉も、俺の身体の全てがまるで別人の、いや明らかに人間以上の逞しさを体現していく。

 先ほどまで足蹴にした俺を見下ろしていたワイルドガウンは、驚愕に目を見開いて俺を見上げている。ワイルドガウンだってそれなりに背が高くガタイもいいが、今の俺の身体はそれを二回りは上回る巨体だった。

 身長は恐らく三メートル近く、腕や脚は丸太のごとく太く、全身の脂肪がさっきの泡立ちで全て蒸発したかのように全身の筋肉という筋肉がはっきりとその形が見て取れるほど隆起している。


「な、なんだ、お前は……」


 後ずさるワイルドガウンの後ろではさっきまで薄ら笑いを浮かべていた隊長格と部下達が慌てて銃をこちらに向けていた。だが無駄だ、そんなもの、この身体に対しては何の役にも立たない。


「なんなんだよお前は!」


 ほとんど悲鳴に近い声で、ワイルドガウンが質問を繰り返す。

 俺の口が、俺の意思とは関係なく、俺ではない誰かの声でそれに答えた。


「わたし、わたしの名前は――――」

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