海の王国

 海を青いと人は言うけれど、僕が知っているそれは、底にある、白いサンゴの死骸の群れすらも見て取れるほどどこまでも透明か、足元のビーチサンダルすらも本当に其処にあるのかが不安になるほどの、汚濁にまみれた真っ黒い渦の塊だ。


 僕は、いつしかの冬は武蔵野、吉祥寺はハモニカ横丁という街に生まれた。産声をあげたは、冬晴れの青空映える昼下がりだったそうだ。彼の街は音楽のメッカである。その後のギターをひっさげて暮らした放浪の日々の中、生まれを問われて地名を呟けば、目の色を変えて、その街の事を知りたがる人もいたほどだ。だが残念な事に、僕の脳裏には、鼻ったれた幼少期の、真昼間でも日の光も届かない、醤油の焦げた匂いのする真っ暗な路地裏を、かけずり回っていた記憶しかない。


 随分、古い言い回しの感もある、寄る辺ないなんて、それがどんな気持ちを指すかは、当時の僕には言葉自体も知らなかったけれど、物心つくかつかないか位の頃から、僕の住んでいた家は、真夜中になっても、喧噪と暴力が部屋中に絶えない、随分と混沌とした住処であった。恐怖で目をまん丸くさせながらも、暗闇にのまれんと怯えつつ、自らを保つために部屋の窓際から見上げた、青い月の光は今も覚えている。


 十四歳の時、音楽を、歌を想う、そんな気持ちが生まれた。中古で、やっとの思いで買ったYAMAHAのアコースティックギターを手に家路に帰らんとした、あの日も快晴だった。僕は楽器屋まで自転車をこいでいったのに、その帰り道にはすっかり置き忘れ、全速力で息をきらしながら学園通りを駆け抜けていったものだ。


 その真夜中、僕の幸せそうな顔が何一つ気にいらない両親は、ゴミ屋敷の闇夜の中で怒り狂い、毎晩の慣習の酒に溺れた怒号で、酒代の足しにしようと僕からギターを取り上げんとした。僕は全力で死守し、その時、

(このまま、此処にいてはいけない……)

 そんな事を思った。


 高校の時の入試の面接で、将来の夢を聞かれた時、吟遊詩人、と、答えた。面接官は一笑に付したけど、半分以上は本気だった。入学後はギターを背負って通学した。別に軽音楽部に入りたいわけじゃなかった。というか、流行りのバンドに興味を持たない僕は、そもそもが入部させてもらえなかった。家に放っておけば、どす黒い願望しか持たない同居人たちに何をされるかわからないから後生大事に携帯していた、そんな風体は、良しに付け悪しきにつけ、学内で目立った。たまに怖い先輩に睨まれたりもしたけれど、老若男女問わず友人知己に恵まれ、僕は彼らの家々を泊まり歩く様になり、自分の家には寄り付かなくなっていった。ある夜、勢いで路上ライブを演った時、たまたま声をかけてきた女の子が、当時、高校を卒業して社会人になったばかりの、上京したての沖縄人だった。


 いつしか、僕は彼女の家に寝泊まりする様になっていた。其処から学校も通った。一人で眠るはずのベットに二人でもぐりこんだいつものある夜、僕がぽつりぽつりと生い立ちを話せば、彼女は涙をポロポロと流し、

「今まで、生きててくれてありがとう」

 とだけ囁き、僕を抱きしめた。


 彼女の話す、遠い、遠い、南の島の話が好きだった。そこには無限に広がる海原がある様に思えた。いつか、その地に赴いてみたいと僕が口走れば、彼女は喜んだ。それは本心からそう思ったからもあるけれど、

(いつか、この人は、島に帰るつもりだ……)

 という事を直感的にも悟ったからだった。


 直感は、やがて本当に当たる事となる。僕らは手をつなぎ、まるで彼女にいざなわれる様にして、僕は日本列島を飛び出していった。かくして、アルバイトをしながらの本格的なライブハウスでの音楽活動は始まったのだ。彼女はいつだって客席にいて、逐一、その演奏の録音にさえ協力してくれれば、アドバイスですら的確で、僕は演奏する事、人前で表現する事の楽しさ、厳しさを、異邦の街で味わい、叩き込まれていく事となったのだ。


 東京という街にいると、中身のない希薄な空気に満ち溢れているから気づかない事が多いけど、こんな小さなユーラシア大陸の東の果てのちっぽけな島国なのに、この国の、とりわけローカルな人達は、自分たちの「血」を意識する。沖縄は、かつて独自の王朝があった名残もあろうか、更にちっぽけな琉球諸島の中で、よそ者に対しての風当たりは冷たい。そんな村社会の中で、ワンマンライブ、CDデビューに、ラジオDJの依頼まで舞い込んだのは、偏に彼女の存在があった故であろう。だが、当時の僕は次第にうぬぼれていったのだ。生い立ちからの因縁と、彼女は僕をこんこんと諭したが、最早、聞く耳など持ってはいなかった。やがて、喧嘩の絶えぬ間柄となり、それは演奏にも影響し、精神的にも僕を追い込んでいった。当たり前の結果だけど、客席に、そして彼女の姿は消え、気づけば歌のひとつも歌えなくなっていた。


 実家から僕の暮らすアパートに通い詰め、暮らしを支えてくれた彼女は、ある日、何も言わずに僕の元を去り、再び内地へ飛び出していた。生活費の半分以上を捻出してもらって成り立っていた僕の生活は、一気に困窮する事となる。慌てふためく僕は、音楽よりもアルバイトを優先させ、お金を作ると、二人で暮らしたアパートを引き払い、追いかける様にして再び首都圏の土を踏んだ。だが、そこは東京ではなく、延々と相模湾が連なる湘南とよばれる地域だった。僕らはやり直せるはずだ。少なくとも僕はそう信じていた。だが、再び飛び込んだ彼女のアパートの部屋の中は、そのほとんどが既に帰るための荷造りがすんでいたのだった。彼女の瞳の中では、とうに僕の事など見えていなかったのだ。その後の僕は、ただただ、絶望に打ちひしがれる様にして、寄る辺ない心は街をさまようだけだった。この頃の記憶は曖昧で、うすぼんやりとした視界に見えるネオンが、沢山並んでいたかの様な思い出しか残っていない。


(再び、あの島へ……)

 意を決しようとした時、漫画喫茶の一角で充電にありついていたケータイに、見知らぬ番号から電話がかかってきた。僕はなんだか嫌な予感がした。


 はじめて出会った祖母や親戚たちはこれが同じ血縁か、と思うほど、皆、温厚で穏やかな人ばかりだった。そんな困りはてた祖母の家のリビングには、とうとう自らの生活を破綻させた挙句、出戻り息子となったアルコール依存症末期の父親が、肌は土気色に、手足もやせ細るだけやせ細り、人、というよりか、干からびたセミの幼虫かミジンコの様に、リビングチェアに寝転んだまま動けないでいた。本人は其処に陣取っているつもりかの様子で、相変わらず口先の威勢だけはよかったが、自分が、今、どれだけ落ちぶれるだけ落ちぶれたかなんぞは、到底理解できていなかった。


 もう、完全に狂っていた。


 父の実家が湘南にある事も初めて知った。思い起こしてみれば、あまり使いこんだ雰囲気でもない、飾り物としてだけあった様なサーフボードを、幼き日に見た気がする。


 僕は、自分の運命を呪った。遠い南の島への帰途につく飛行機を見上げ、涙がこぼれない様にした。敵意は完全に我が父へと向かっていったが、最早、人である事ですらやめてしまった者に恨みがましく何を言おうと、虚しさでしか残らなかった。


 ただただ、あのまま南の島にいればよかったという、後悔ばかりが先立つ中、そもそもが憎しみの対象でしかなかった物体の、人間ですらなくなった姿なぞと対面する毎日は、苦痛のなにものでもなかった。だが、そんなある日、父はあっけなく死んでしまった。その時には、遠い異邦の島に戻った彼女との日々は、もはや思い出の彼方に追いやられつつすらあった。後悔は更に際立ち、死して尚、僕は父を憎み、生前、かつて僕が小さな子供の頃、本人にされ、やがて体の大きくなった僕が当人にやりかえした時の様に、顔面が倍以上に腫れ上がり、延々と鼻血が止まらなくなるまで、朝まで殴り飛ばしてやりたい、行き場のない殺意の衝動に囚われる様な日々だった。


囚われながらも、

(また、演りたい……)

 そんな渇望が常にココロの奥底で蠢いていた。だが、僕は、沖縄でしか音楽活動というものをやった事がなかったのだ。せっかくついた客層の全ても皆捨て置いての、湘南襲来だった。ましてや、僕は、この地に縁もゆかりもない、これまた異邦者だった。沖縄にいた頃、最初に演奏させてもらったライブハウスは、スタッフが当時の彼女の友達で、僕は、猛PRする彼女の背中に隠れていただけだった。オープン前の清掃をしていた長髪の彼は、頭をかきつつ、渋々、出演を了承してくれたりしたものだ。そんな人はもういない。


 悶々と時を過ごしていった。が、ある日、思いきって、とある茅ヶ崎のライブハウスに僕は単身はじめて飛び込んでいき、歌いはじめたのだ。客席に、もうあの娘もいやしない、客が0人という日々なんて永遠に続くかの様にいくらでも続いた。あの頃とは何もかもが違ってしまった。当初は演りながらも、過去を振り返るような後ろ向きな日々ばかりだった。それでも、僕は演り続けた。次第に評価を得始めた。気づけば人の輪は僕の周りに広がっていて、縁もゆかりもないはずの僕が、湘南の人々から慕われていた。


 あの娘がいないというだけで、気づけば、他の全ては、まるであの頃の様だった。


 ある年、僕は音楽コンテストで入賞を果たした。こっちで出来た多くの音楽仲間、お客さんがお祝いしてくれた。朗報を聞いた、遠い南の島からも仲間たちからの祝砲が相次いだ。沖縄にいた頃なら考えられない日々が続いていったのだが、ふと、思い立ち、僕は、スケジュールをぬって、あの日々を訪ねてみるかの様に、沖縄の、僕が暮らした街に赴いてみる事にしたのだ。


 日本一の米軍基地を抱える街、コザに久々に降り立った時、幾年もすぎていないはずなのに、変わり様には驚きに目を見開く事の繰り返しだった。花の都、那覇に負けないだけのライブハウスの数の多さを売りにしていた、それらが密集していたメインストリートのテナントの全てが、貸し事務所に様変わりしていたりした。この世界は水物だ。出会いも多い分、別離も腐るほどある。そして黄金の街がたった一夜で砂になるように、ライブハウスというものはタケノコの様に生えては消えてく、それが世界の常で、コザも御多分もれずという頃合だった。あの日、二人で見上げた炎天下の青空は相変わらずだったけれど、鄙びた路地は、歩けば歩く分だけ、時代の終焉の暗闇が延々と続いていた。


 滞在期間の最終日、僕は今やホームといっていい茅ヶ崎でのライブ公演と、スケジュールがかちあってしまっていた。空港で、旧知の音楽仲間たちの変わらない笑顔に見送られたのが唯一の救いな中、南の島を後にし、そのまま会場に乗り込んだ。強硬なスケジュールが影響して、当日のパフォーマンス自体はとても納得いくものではなかったけれど、その会場に居合わせた仲間たちに、先刻までいた第二の故郷の仲間たちと、同じ空気の様な笑顔が重なって見える様な感覚をおぼえた。 


 再会を誓い合った笑顔、出向かえを喜ぶ笑顔、意味合いはまるで違うし、それぞれに他人なのに、僕には全く同じ意味合いの笑顔に見えたのだ。そして沖縄と湘南、こんなに遠く離れた地域同士なのに、僕の周りには、ずっと同じ様な温みのある何かが連なり、繋がっている様にすら感じた。その繋がりは、東シナ海から相模湾までを結ぶ、まるで目に見えているのに、見えていないかの様な、幻と現の間にある僕だけの海の王国だった。


 これが音楽が起こした魔法というものなのか、なんなのかはわからない。ただ言える事は、海を青いと人は言うけれど、僕が知っているそれは、底にある、白いサンゴの死骸の群れすらも見て取れるほどどこまでも透明か、足元のビーチサンダルすらも本当に其処にあるのかが不安になるほどの、汚濁にまみれた真っ黒い渦の塊だ。





 現在、僕は、尚も、海の麓で歌っている。

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