(4)

「すぐにお帰りになられると思っていたんだけれど……」


 リディアのつぶやきに応えるようにコマドリが健気にさえずる。それを聞き、リディアはふっと頬を緩めて鳥籠を覗き込んだ。


「いつ放すのですか?」


 怒涛の出来事で忘れかけていた事柄にも、ロビンはしっかりと釘を刺す。リディアは一度ロビンを振り返って、それからもう一度小さなコマドリに慈愛の目をやる。


「……明日にするわ」

「それが良いでしょう」


 リディアの二歩ほどうしろに控えたまま、ロビンは彼女と共に立派な門構えを抜ける。夕方前、日差しが弱くなってからの散歩はいつのまにかふたりのお決まりの習慣となっていた。坂道を下って街の広間を目指す。途中途中には市が立っていて、リディアはそれらを見るのを好んだ。


 ふたりの静かな暮らしは半ば破れかぶれとなっていた。ジョンは未だに街にある宿屋に留まっていたし、キャサリンも同様に屋敷にひとつしかない客間を占拠していた。ジョンが帰らない限り、キャサリンも実家へ戻る気はないのだ。諸々のことを思うと、ロビンは頭が痛くなった。


 そしてその頭を痛める原因が現れたことで、いよいよロビンは額に手をやりたい衝動を抑えねばならなかった。


「リディア……」

「あら、ジョン様」


 先日の出来事があるからか、いつも柔らかなリディアの声はどこか硬かった。場所は大通りにある店舗群が集まった、いわゆる商店街と呼ばれる場所。店先で立ち止まる客は多かったから、道の端にいるリディアたちに視線が集まることはなかった。


 ジョンはなにごとかを言おうとしていた。リディアはその概ねの意思を察したのだろう。できるだけ平静でいようとはしているものの、それでもさっと眉間に小さな皺が現れた。


「謝罪でしたらケイティにしてくださいませ」

「……俺は、やはりまだ納得できない」

「なんのお話ですの?」

「ジョン様、そのお話は――」


 ロビンが割って入り暗に帰れと言っても、ジョンは彼に厳しい視線を送るだけだった。しかしロビンはそれで引っ込むような生っちょろい輩ではない。


「恐れながら、今ここでするようなお話ではありませんでしょう」

「しかし、君は屋敷には入れてくれないだろう」


 当たり前だ、とばかりにロビンの眉がぴくりと動いた。それを目ざとく見つけたジョンの柳眉もかすかに上下する。


「……ジョン様はケイティと一度きちんとお話をするべきですわ」

「話すことなんてなにも……。正直に言って困惑しているんだ。いきなりケイティが婚約者になって」

「ですから、そのお心持をご正直に伝えられてはいかがでしょう」

「違うんだ、リディア。俺が言いたいのは――」


 リディアもジョンも知らず知らず会話に熱中してしまっていた。そしてふたりの従者であるロビンとアルジャノンもまた、その成り行きを注視するあまりに警戒心が薄れてしまっていたと言わざるを得ない。


 石畳を蹴る蹄鉄の音が勢い良く近づいて来る。同時に馬のいななきが、ほんのすぐそばから上がったことで、四人は反射的に音の発生源へと視線を向けた。そこには、前脚を大きく振り上げた暴れ馬がいた。


「リディア様っ」


 真っ先に動いたのはロビンだ。なりふり構わずリディアの体を突き飛ばす。華奢な彼女の体はいとも簡単に揺らいで、対面に立つジョンのほうへと向かった。ジョンは目を丸くしながらも、騎士然とした様子は飾りではないらしく、しっかりとリディアの体を抱きとめる。


 次の瞬間、物を砕く嫌な音が響き渡った。


 ようやく現れた暴れ馬の主人は、御者が手綱を取って馬をなだめているそのそばに、少年ほどに見える男が倒れていることに気づいて顔を青くした。


 あっという間に出来上がった野次馬たちの中心で、ロビンはぴくりとも動かない。馬の蹄鉄による一撃が致命的だったのだと、だれもが考えた。


「ロビン!」


 唐突な出来事に呆気に取られていた三人だったが、すぐにリディアはジョンの腕から離れて、地に伏せる己の従者に駆け寄った。


「揺らしてはなりません!」


 アルジャノンの声にロビンのそばで膝を折るリディアの動きが止まった。「もう手遅れだろう」。野次馬の一部から無責任な声が聞こえた。途端、リディアの鋭い視線が野次馬へと飛ぶ。それを見て一部の人々は気まずげに目をそらした。


「手遅れではありません」


 リディアの声は、硬く、しかし決意に満ちていた。


「リディア? なにを――」


 ジョンが言い終わる前に、リディアは未だ動かないロビンに白魚のような手をかざした。すると、蛍のような弱々しい光がリディアの爪に宿り、それは徐々に手のひら全体へと広がって行く。ジョンも、アルジャノンも、野次馬たちも唖然としてその様子を見ているばかりだ。


 光の粒子はやがて直視できないほどに輝き始める。膨れ上がった光りの玉が、リディアの手を離れてロビンへと近づくと、それらは急に弾けて閃光のように瞬いた。だれもが目を閉じ、あるいは覆い、おどろきと戸惑い、そして恐怖の声を上げる。


「リ、ディア、さま……」


 光りが収束したのち、微動だにしなかったロビンからうめくような声が上がる。


「なぜ……」


 ただ、絶望に満ちた顔をするロビンに、リディアは優しく微笑みかけるばかりだった。


「魔女だ」


 人の輪の中から声が上がる。


「魔女だ!」


 叫ぶような声と共に同じような言葉を繰り返す輪は、さざなみのように広がって行く。


「魔女だ!」


 だれかが逃げ出した。それに駆り立てられるように、群衆は蜘蛛の子を散らすかのごとく、あちらこちらへと走り去って行く。その混乱の中で怒号と幼子の泣き声が上がり、場はますます混沌へと様相を変えて行った。


「リディア! 逃げよう!」


 いち早くリディアに駆け寄ったジョンは膝をついていたリディアの腕をつかんだ。それに促されるようにリディアと視線が合う。けれどもその瞳には明らかな困惑が見て取れた。


「ええと、貴女はいったい――?」

「リディア、なにを言っているんだ?!」

「見ず知らずのわたしになぜそのようなことを? お仲間だと思われてしまいますわ」


 リディアはジョンの手を優しく払った。


「リディア……?」


 ジョンはただ呆然とリディアの瞳を見返す。ジョンを映すその瞳は、ただただ澄んで、たがわず美しかった。


 ロビンに肩を貸して起こしたアルジャノンも、ふたりの様子がおかしいことに気づいたらしい。しかし今はそのようなことを言っている暇はない。ジョンは再びリディアの腕をつかんで立たせた。



「話は聞いているわ」


 屋敷で出迎えてくれたキャサリンは、街へ出ていた侍従からすでに仔細を聞き及んでいた。


「お耳にお早く」


 いつものロビンであれば多少の嫌味くらいは言ってのけるだろうが、今はそのような余裕はなかった。


 屋敷の前にはすでに馬車が用意されている。キャサリンが乗り入れた馬車である。彼女はそれを見ながら言う。


「無駄な会話をしている暇はないわ。ロビン、お姉様をお願いね」

「言うまでもなく……」


 まだ戸惑いの表情を浮かべたままのリディアに、キャサリンは足元に置いていた旅行鞄を押しつける。


「ごめんなさいケイティ。また……」

「またいつかお会いできますわ、お姉様。屋敷にあるものは追々送ります。今はロビンといっしょにお逃げになって」

「……そうね。また会えるわよね。面倒をかけるけれど、お願いね、ケイティ」


 姉妹は抱擁を交わす。そのあいだにもロビンは用意された荷物を、御者と共に馬車へと手際よく積み込んで行く。


「ケイティ! これは……?」


 ついて行けないのはジョンとアルジャノンだ。リディアが逃げなければまずいということは彼にも理解出来た。魔法は、禁忌のすべだ。リディアがその使い手ということがわかれば、国を追われても致し方あるまい。


 けれども三人はあまりに手際が良すぎた。まるでこのときが来るのを予見していたかのように――。


「ジョン、残念だけど話している暇はないの。わたしたちもすぐ屋敷を引き払わなければならないわ。貴方も宿場に戻ったほうがいいのではなくて?」


 ロビンはリディアに向かって手を差し出す。リディアはその手を取ると、ひらりと馬車に乗り込んだ。そのあとに続いて、ロビンも車に乗り込む。


 夕闇が迫る中、ふたりを乗せた馬車は忙しなく街をあとにした。

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