(14)
夏祭りの際に訪れた公園は、すっかり彩度の低い冬景色を見せている。頭上を繁茂していた青葉の姿は影もなく、細い枝が薄ぐもりの空へと先を伸ばしていた。
アキラの横を行く冨由馬は、大きな人工池を囲むフェンスの前まで来たところで歩を止めた。くるりときびすを返し、アキラと真正面から向き合う。
「それで……話ってなに?」
このときのアキラは、まったくもって能天気であった。次に冨由馬からどんな言葉をかけられるのか、彼女は微塵も予想してはいなかった。ただ大げさだなと思いながら、冨由馬が口を開くのを待ったのである。
「初めに聞いておきたいんだけど」
「うん」
「俺と夏生がキスしてるの、見たよね?」
いつもの優しげな顔がアキラを見ている。切れ長の目の中にアキラがいる。いつもと変わらない冨由馬。
けれどもその形の良い唇から出て来たのは、アキラがずっと「気のせい」だと自分に言い聞かせ、見間違いだと思い込もうとしていた――「事実」だった。
「えっと……なんの話?」
「誤魔化しても無駄だよ。最初から気づいてたし。……それで、俺がなにを言いたいか、わかるよね?」
ゆるりと首をかしげて、冨由馬は微笑む。
アキラは強張った微笑を口元に浮かべたまま、冨由馬を見た。
「え?」
「わかるよね。俺、夏生とキスしたんだ」
「それは……その……な、なんで?」
「……言わないとわからない?」
アキラは固まった。頭の中は真っ白だった。それでも首だけは――こくりと、縦に動いた。
冨由馬は笑顔のまま「そっか」とだけ言う。
「俺、夏生が好きなんだ」
まるでなにか重いもので殴られたような感覚だった。頭の横を容赦なく打ちつけられたような、衝撃だった。
指の先が冷え切って痛い。体の端から震えが走る。手袋していない指が、ぴくぴくと痙攣的に揺れる。声を出そうにも舌がもつれてなかなか上手く話すことができない。
「あ……い、いつから?」
「うーん……いつからかな……。まあ、結構昔からだよ」
「そう、なんだ」
なにを言えばいいのかわからなかったし、冨由馬がなにを言わんとしているのかも、今のアキラにはさっぱりわからなかった。
「だから別れて欲しいんだ」
アキラは息が止まりそうなほどおどろいた。いや、一瞬だけのどをなにかがぐっと阻害した。それがなんなのかはわからない。けれども今のアキラには、それを考えるほどの余裕は残っていなかった。
冨由馬の言葉を脳内で反芻する。「別れて欲しい」。つまりは、冨由馬はアキラと恋人同士でいたくないと言っているのだ。
冨由馬は、アキラを捨てようとしているのだ。
「な、んで?」
アキラはもう、まともに冨由馬を見ることができなかった。彼を真正面から見てしまうのは、心底恐ろしくて仕方がなかった。
もしも今顔を上げて、冨由馬の目をのぞいたとき、そこに愛情など欠片もないことに気づいてしまったら――アキラはどうすればいいのかわからないからだ。
冨由馬の目がどこを向いているのか。冨由馬の目がなんと言っているのか。冨由馬の目がだれを見ているのか。そのすべてを知るのをアキラは恐れた。
「なんでっ、そんなこと、言うの?」
「なんでって、俺は夏生を好きだから。だから
苗字で名を呼ばれたアキラは、心臓を乱暴に捕まれたような気持ちになった。胃の中がぐるぐるとして、吐き気すら覚える。
「わかんないよ……。だって、江ノ木くんは……男じゃん?」
「そうだね」
「お、男同士なんてっ……そ、それに江ノ木くんは冨由馬くんのこと――」
「夏生は俺のこと、好きだって言ってくれたよ」
その言葉は、今度こそアキラを奈落の底へと突き落とした。
冨由馬の言葉が頭の中で輪を描く。描いた輪の中でアキラは呆然と立ち尽くしている。現実のアキラもまた、その場に立ちつくすよりほかなかった。
けれどもそれは今すぐにでも変化を来たしそうである。知らず内向きになったアキラのひざは、がくがくとあからさまに震えている。そしてアキラは大切なものを守るように、両の手を心臓の前で強く繋いでいた。けれどもその手も、かすかに震えていた。
呼吸は浅く、早い。冬の切るような冷えた空気が喉を乾かし、肺へと入る。そうして妙に熱い息を吐く。それを繰り返しながら、アキラは様々な出来事を思い起こしていた。
六月に冨由馬から告白された。八月には夏祭りに行って、それから誕生日を祝ってもらった。そして秋には――。
秋、文化祭。冨由馬が夏生と教室でキスをしていた。
「やだ」
アキラの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「やだよ……別れたくないよ」
ぽろぽろと涙を流すアキラを、冨由馬は冷めた目で見ていた。
「やだ、やだよ……! わたしっ、冨由馬くんのこと、好きなのに……」
「俺は、好きじゃないよ」
「やだよ……。やめてよ……。そんなこと言わないで」
しゃくり上げながら途切れ途切れにアキラは必死に言葉を紡いだ。
しかしそのいずれも、冨由馬の心を動かすことはなかった。
「だって! だって冨由馬くん、好きだって――」
「言った覚えはないけど。……ああ、恋人になりたいとは言ったか」
もはや冨由馬は己の本性を隠そうとはしなかった。傲慢な彼は、なかなか折れてはくれないアキラがいい加減嫌になっていたのだ。
けれども今のアキラには、そんな変化すら看過してしまうほど切羽詰まっていた。ただ、冨由馬に捨てられたくない。その一心で彼へすがろうとするが、どう言えばいいのか頭は動いてはくれなかったし、足は地に根を張ったように動いてはくれなかった。
「やだ、やだよ。別れない。別れないから」
「そう言われてもね」
「お願いだから、別れるとか、言わないで」
「無理だよ。俺が好きなのは夏生だけだから」
荒い呼吸を繰り返しながら嗚咽をこぼすアキラは、とうとう立っていられなくなった。制服のスカートが汚れるのも構わず、その場に座り込んで泣きじゃくる。けれどもそんなアキラを見ても、冨由馬は無感情な目を向けるだけだ。
冨由馬の心の中にもうアキラはいない。いや、最初から存在すらしていなかった。
この破局は必然のものであり、そしてもはや決定的なものであった。
「
冷淡な物言いで冨由馬はそれだけ言い捨ててアキラの前から消えた。ひとり残されたアキラは、冨由馬を追うでもなくただその場にうずくまってすすり泣く。冬の風が一陣、そんなアキラへ追い打ちをかけるように吹き、地面に落ちた枯葉を巻き上げた。
やがてこちらへと近づく足音を聞いたアキラは、なけなしのプライドを引っぱり出して、涙を拭き、立ち上がろうとする。けれどもどうしても足に力が入らなかった。
そうしてまごまごしているうちに足音は大きくなり――アキラのまうしろで止まった。
「アキラちゃん」
見知った柔らかな声がアキラの耳朶を打つ。
ぎこちない動作で振り向けば、紺色のコートを羽織り、赤いマフラーを巻いたつばきが立っていた。
「あ、つば、き……?」
「うん」
「あの、これはっ……これは……」
なんとか誤魔化そうと口を開いたが、言葉が出て来ない。代わりに見る見るうちにまなじりに涙が溜まり、やがてぽろりと頬を伝って流れ落ちた。
そんなアキラを、つばきはおどろきもせず見下ろしている。
「つば、き、ちが、ちがうの……これは、ちょっと目に砂が入ってっ……だから」
「アキラちゃん」
ふわりと甘い香りがアキラの鼻腔をくすぐった。つばきがいつもつけている香水の匂いだ。
いつのまにかつばきは膝を折り、アキラの体を抱きしめていた。そうしてそのほっそりとした指で、ゆっくりとアキラの背を撫でる。
「アキラちゃん。泣きたいときは泣いていいんだよ?」
涙があふれ出して、こぼれ落ちて、止まらなかった。
気がつけばアキラはつばきにしがみついて、幼子のように泣きじゃくっていた。
そうして泣きながらアキラはすべてを話した。
冨由馬に好きな人がいたこと。好きな人がいるから別れようと言われたこと。嫌だと言ったけれど、結局は捨てられてしまったこと……。
それらは感情のままにアキラの口から吐き出された。途切れ途切れの言葉を正確に理解するのは困難だったが、つばきは辛抱強くアキラの言葉に耳を傾け、相槌を打ってくれた。
「わたしっ、わたし……冨由馬くんのこと、好きだった……っ」
「うん……」
「本当に、好きだったの……なのに、なのになんで……」
「うん」
「ひどいよ……!」
アキラの頬に顔を寄せていたつばきが、不意に離れた。ぬくもりが去って行くのを感じたアキラは、にわかに不安を覚える。
「つばき……?」
かすれた声で親友の名を呼ぶ。
「アキラちゃん」
つばきの整った顔が近づく。やがてそれは目の前でぼやけて、代わりにアキラの左の目もとに、なにか柔らかいものが当たった。
アキラはおどろいてつばきを見る。
「いや?」
美しい、少女がいた。
どこまでも非の打ち所のない、美しい彼女がいた。
「男なんてクソだよ、アキラちゃん」
つばきが笑った。
バイブレーションするスマートフォンを手に取る。画面には「柊冨由馬」の文字が映し出されていた。
「冨由馬?」
画面をタップしてスマートフォンを耳に当てる。じきに電話を通してやや変質しながらも、よく見知った声が聞こえて来た。
「夏生。今から帰るわ」
「そう。……今日、予報で雪降るって行ってたから、早くしたほうがいい」
「そうだな。ああ、あと久木と別れた」
一瞬だけ、会話が途切れる。
「……そう」
「あ、電車来たから切るわ」
「わかった。じゃあな」
「ああ、また電話する」
通話が終了したことを告げる音が鳴り響く。
夏生が窓の外へ視線をやれば、薄ぐもりの空から、初雪が地上へと降り始めていた。
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