赤い薔薇の微笑みを

やなぎ怜

(1)

 ラシードは馬首をめぐらせて、その岩陰の惨劇を馬上から険しい表情で見下ろした。馬は連れて行かれたのか、恐らくは先ほどまでは馬上の主であった人間が血だまりのなかに四肢を投げ出し、少し奥には車が打ち捨てられるように残されている。


「ひどい有様だ」

「ああ……野盗の類にやられたか」


 ラシードと共に任官先へと赴く途上であった仲間のイフサーンが、白い息を吐いた。荒野の昼は暑く、夜は寒い。まもなく日暮れとなる時分に寝床を探してさまよっていれば、とんでもない場にかちあってしまったものだ。ラシードは不運にため息をつく。後味の悪い光景を見てしまった己に、野盗に無残にも命を奪われてしまった彼らに。


「だれかいるか」


 声を張り上げてラシードは問うたが、答えはない。馬上から降りて遺体を軽く検分したが、それらはとうの昔にすっかり冷たくなってしまっていた。


「うおっ」


 車の入り口を隠す布の隙間をのぞいたイフサーンが、野太い声を上げる。「どうした?」ラシードは振り返って見やる。あいにくとそろそろ日も届かぬ時間である。車の中は薄暗く、ここからではなにがなにやら見分けがつかない。


「こいつら奴隷商人だ」


 眉をゆがめてイフサーンが車の中を指差す。イフサーンにならってラシードも車の中をのぞいた。そこには粗末な服をまとった、お世辞にも栄養状態の良いとは言えない人間たちが、折り重なるように倒れている。さびた鉄のような血のにおいと、独特の死臭が鼻をつき、ラシードは眉をひそめる。血しぶきは車の天井部にまで及んでいるようだった。


「なんだって奴隷まで残らず殺すんだ?」

「証人を残したくないのだろう」


 それにしてもむごいことである。二十人には届かないだろうが、それでも十人は超えている。恐らくは無抵抗であった彼らの命を、いたずらに奪う人間性を想像するとぞっとする。


 ラシードがまったく嫌なものを見たと車から首を引こうとしたとき、奥の暗がりでなにかが動いた気がした。


「どうしたラシード」

「いや……なにか今、動いた気がしてな」

「生き残りか」

「どうだろう」


 この惨劇の中で未だ息のあるものがいるかは甚だ疑問ではある。が、しかし一応確認せねばなるまい。ラシードは車のふちに足をかけ、中に体を潜り込ませる。


「だれかいるのか」


 もう一度声をかけるが、暗がりは静まり返ったままである。気のせいかとも思ったが、なんとはなく後ろ髪を引かれるような違和に突き動かされ、ラシードは一歩車の奥へと足を踏み入れた。


「俺はベフナーム卿に仕える騎士、ラシードだ」


 やはりなにかいる。奥でまた暗がりが揺らめくのを見て、ラシードは確信した。


 立ち上がれば頭のすれすれに天井がある車の中を、慎重に歩を進めて行く。死体の山がある一角を、なにがしかの確信を持ってラシードは崩した。


 折り重なるように倒れ伏した人間の下には、体を丸めた少女がいた。静寂の中に響く呼吸音を聞き、ラシードは彼女が唯一の生存者であることを確信する。


「だいじょうぶか」


 細く白い二の腕をつかむ。力を入れてしまえばたやすく折れてしまいそうだ。


 少女はゆっくりと顔を上げる。その瞬間、ラシードは背筋を雷が駆けて行くような衝撃を覚えた。日のほとんど入らぬ暗がりの中でも、その少女の容貌が図抜けていることはわかった。しかしそれよりももっと本能的な部分で、ラシードはこの年端もいかぬ少女に惹かれてしまったのである。


「ラシード、どうした? いたのか?」

「あ、ああ……生き残りがいる。ほら、立てるか?」


 我に返って少女に問うたが、すぐに言葉が通じるか怪しいことに気づく。異国から売られる女など、珍しいものではない。しかしラシードの懸念とは反対に、少女はかすかにうなずくと、おぼつかない足取りで立ち上がった。


 夕日の中で見た少女は、ぞっとするほど美しかった。イフサーンも、車から降りた少女を見てちょっと目を瞠ったくらいである。


 まっすぐに下へと流れる艶やかな黒髪に、日焼けあともそばかすもない白い肌は、ちらりと見ただけでも肌理きめの細かいことがわかる。小さな唇は薄紅色に色づき、こげ茶色の丸い瞳は長いまつ毛にふち取られていた。華奢な肢体は肉づきが良いとは言いがたいが、しかし明らかに貧する人間とは違う。


 ひと目見て、奴隷の階級ではないことがわかる。それどころかラシードら騎士階級よりもずっと上の、どこぞの高家の人間であることは明らかだ。攫われたか、あるいは困窮ゆえに売り飛ばされたか。そのどちらかはわからなかったが、街に着いたら尋ね人を当たったほうがいいことはたしかである。


「かどわかされたのか? それとも売られたか?」


 遠慮のない声音でイフサーンが少女に尋ねる。しかし少女は手枷のされた腕を下にしたまま、困ったような顔で男たちを見るばかりだ。


「言葉がわからないのか?」

「いや、そんなはずはないと思うが……。俺たちの言っていることはわかるか?」


 ラシードが問えば、少女は今度はしっかりとうなずく。


「口が利けないのか。生まれつきかどうかは知らんが……」


 ショックで口か利けなくなっている可能性もあったが、今はどちらでも良い話である。


 ラシードたちは少女を連れて野営をしたあと、夜が明けてから半日ほどかけてようやく任官先の街へとたどり着くことができた。


 その道中で少女を馬鞍の前に乗せたのはラシードだ。熊のような見た目のイフサーンよりはラシードのほうが親しみやすかったのかは知れない――それでもラシードもずいぶん体躯の良い男だ――が、少女はどちらかと言えばラシードのそばにいたがった。


「なつかれたな。どうだ、お前が買い取っては」


 イフサーンはそう言ってラシードをからかったが、当の彼はいつものことと聞き流した。


 馬鞍に乗せるのにはさすがにラシードの介助を必要とした少女であったが、馬上での姿勢や体重移動はどう見ても馬に乗ったことがあるとしか思えなかった。やはりどこぞの令嬢なのだろうとラシードは思った。


 領主館へ顔を出せば、明日まで仕事はない。領主館にほど近い場所に与えられた家へ行って、明日に備えて体を休めたいところだ。だが残念なことにラシードはイフサーンから奴隷商のもとへ行く役目を押しつけられてしまった。遺髪やらなにやらを返すのである。あまりやりたくはない仕事と言わざるを得ないだろう。


 加えて、少女がいる。任官先の領主には拉致された可能性が高いと申し出てはみたものの、反応は芳しくなかった。面倒な仕事はしたくないということだろう。仮に少女がどこぞの令嬢であったとしても、関知していなければ領主に瑕疵はないわけだ。そうとは理解していてもラシードの胸中はすっきりしない。


「わざわざありがとうございます」


 立派な門構えの家を訪ねれば、あの無残に殺された男たちの主人が顔を出した。腹に脂肪をたくわえた、いかにも成金といった風情の男である。揉み手のまま妙に低い姿勢で何度もラシードに感謝するので、こういったことに慣れていない彼はどうにも困ってしまった。


「それではそちらの奴隷はわたくしどもが引き取りますので……」


 それは当然の流れであったが、ラシードは一瞬躊躇した。だが奴隷の所有権はこの主人にあるわけで、ラシードに否やと言ういわれはない。そう思いながら少女を見下ろせば、彼女は不安げな表情のままラシードの腰にぴたりと寄り添っていた。


「こらこら、騎士殿に迷惑をかけるでないよ」


 奴隷商の男の声は奇妙に優しかったが、その垂れたまぶたの奥にある小さな目は笑っていない。それは少女にもわかるのか、怯えたように肩を震わせてますますラシードの陰に隠れてしまった。


「騎士殿、申し訳ありません。聞き分けのない奴隷で……」

「いや、いい」


 ラシードはちょっと間を置いてから、ゆっくりと息を吐き出した。


「俺が買い取ろう」



 ほこりっぽさはないものの、妙に冷えた家の中でラシードは取っ手のついた油器の口に火を灯す。床に敷かれた絨毯の上に座った少女は、それをじっと大人しく見ていた。


 あのあと、奴隷商の男は驚いたような顔をしたものの、商談とあれば否やはないらしい。奴隷を持つことに慣れていないラシードは内心で戸惑いはしたが、身銭を切って少女を保護するのだと自身に言い聞かせて彼女を買い取った。


 いや、本当はわかっている。恥ずかしい話だが、ラシードは少女に惚れてしまったのだ。当年二十四歳。そろそろ妻を娶ってもおかしくはない歳ではあるが、ラシードはそれを意識したことはなかった。心惹かれる女には出会ったことはあるが、心奪われるという経験は初めてである。それも、十をいくらか超えたくらいの少女に惚れるなど。


 頭を振ったラシードを見て、少女は首をかしげた。そんな彼女に「なんでもない」と言ってラシードはくりやへ向かう。


 食事は外で取るつもりだった。飯炊き女はあとで雇い入れるとしても、今日は料理をする気にはなれないほど疲れていた。しかし少女を連れて街を歩いている途中で気づいたのだ。そもそも奴隷と共に食事ができる場などないことに。そういうわけでラシードは仕方なく市場へ赴いて食材を買い込んだ次第である。


 料理と言ってもたいそうなものは作れない。せいぜい切って焼いて味をつけるか、切って煮て味をつけるかの違いである。


 そうして包丁を持ったラシードは、うしろに少女がついて来ていることに気づいた。


「どうした?」


 その手首から枷は取り払われている。奴隷商から買い取ったときに外してもらったのだ。服は途中の古着屋で買ったものだが、少女にはいささか大きかったらしく布があまっている。


 口の利けない少女はその大きな瞳にラシードを映してなにかを訴えかける。戸惑いがちにまな板と包丁を指差すのを見て、ラシードはやっと少女の言わんとしていることを理解した。


「手伝いたいのか?」


 少女がうなずく。だがラシードはすぐに「わかった」とは言えなかった。


 どう見ても少女は料理などしたことがないように見える。いや、家事のいずれもしたことがあるようには見えなかった。石膏のように白い手は傷ひとつなくすべらかで、腕は明らかに最低限の筋肉しかついていない。これで立派な身なりであれば、どこからどう見ても深窓の令嬢と言った風情である。


「……できるのか?」


 ラシードが恐る恐る尋ねれば、少女はややあってからうつむいてしまった。


「申し出は嬉しいが……お前も疲れてるだろう」


 慰めるようにそう言うが、少女はふるふると首を横に振る。疲れていないはずはない。あのような惨劇の場を生き残ってしまったのだから。ラシードですら思い返せば気が滅入ってしまう。戦場で死体を目にするのとは勝手が違うのだ。


 それでもなお主人となった男に取り入らねばならない少女の胸中を思うと、ラシードはなんとも言えない気分になった。


「お前は攫われたのか?」


 少女は首を横に振る。


「……売られたのか?」


 少女はうつむいて、肯定も否定もしなかった。その瞳が悲しみに揺らめいているような気がして、ラシードはかすかに胸を締めつけられた。


「俺は……お前にひどいことはしないからな」


 それは完全な善心からの言葉ではなかった。そこには下心が隠れていることをラシード自身もよく理解していた。この少女の気を引きたい、よく思われたい……。そういう思いがないかと言えば、それは嘘になる。だがそれを彼女に言う必要はないだろう。今はただ、少女の平穏が得られるのならばそれで良かった。


「お前に出会えたのもなにかの縁だ。これからよろしくな」


 剣だこのある節くれ立った手で少女の頭をそっと撫でる。指の腹にさらさらと触り心地の良い髪が当たった。最初は驚きに瞳を丸くした少女も、次第に心地よさげに目を細める。ラシードの手が離れればそれを名残惜しそうに目で追う姿は、どこか犬のようにも思えて微笑ましい。


 同時に少女のこの警戒心のなさはあまりにも危ういとラシードは思った。生まれながらの奴隷のような諦観に満ちた目もしていなければ、自分以外のあらゆる物事に神経を張り巡らせる様子もない。恐ろしいほどに無防備な姿は、少女がそれまで憂いもなく大切に育てられてきたことの証左であろう。


 売られたにしてもどこか勝手がおかしい少女の素性は謎に包まれている。だが少女がどこのだれであれ、今や彼女はラシードの資産であった。


 それを思うとラシードの心は奇妙に疼いた。その疼きの正体が綺麗な感情ではないことはたしかで、無防備にラシードに心を許そうとする少女の無垢さと比べると、その浅ましさにはため息しか出ない。

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