第49話 ヒヨコの受難

 そろそろ昼休みも終わる頃。ほんの少しざわめく窓の外を横目に、俺は準備室をあとにした。そしていつものように渡り廊下を過ぎ、中二階の踊り場から二階へと続く階段に向かう。しかし踏み出そうとしたその足がふいに止まった。


「……」


 目の前で手摺りの陰に隠れながらも、無防備に二階を見上げる背中。あまりにも背後への警戒がおろそかなその姿を、若干呆れつつも眺めていた俺は、興味本位でその背中を指先で押してみた。


「ひっ! わっ!」


 最近見慣れたその背中、もとい黄色い頭は、悲鳴を飲み込みつつも面白いくらい飛び跳ねた。


「神楽坂、なにをしてるんだこんなところで」


「……びっくりした。藤堂か」


 一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、相手が俺であることを認識すると、がっくりと力尽きたように床へ両手をつき神楽坂はうな垂れる。その様子に首を傾げれば、盛大なため息がそこから聞こえた。


「もー、藤様。一体いままでどこに行ってたのさ」


「……あのなぁ、いい加減やめろよその呼び方。俺は歌舞伎役者かなにかか。しかも、既に俺の名前じゃなくなってる」


 身体を起こして階段に腰かけた神楽坂に顔をしかめ、俺は目を細めた。しかし、へへっと子供っぽい表情で笑うその反応に肩の力が抜ける。

 下級生辺りから広まったらしい妙なあだ名が、近頃三年の女子にまで広がり始めてきた。藤堂の藤だけとって――フジ様。最近はそれに乗っかり、女子だけでなく神楽坂を筆頭にクラスメイトが面白半分でその名で呼ぶ。


「いいじゃん藤様、高貴な感じで」


「……」


 嫌がる俺を無視し、神楽坂は思いきりよく口角を上げて笑った。無性にその無邪気過ぎる顔に腹が立ったので、とりあえず緩んだ口の端を指先でつまんで引き伸ばしてみた。


「いでででっ、頼むから笑顔でそういうことすんの止めて、藤堂ってなに気に黒いオーラが怖いから! 実はドSでしょ」


「勘のいい奴って、面倒くさいな」


 顔をつまんでいた手を勢いよく払い落とされ、思わず眉をひそめると、神楽坂の顔がさっと青褪めた。


「ひー、ごめんごめん。なにも見なかったし知らないから」


 慌てて上り階段を這うように上がっていく神楽坂の後ろ姿を見ながら、ふいにいつも神楽坂をからかう峰岸の気分がわかってしまった気がする。反応が大袈裟過ぎて見ているのが面白い。


「もー、まじで藤堂って二面性あり過ぎ。ニッシーの前だとデレデレなのにさ」


 しかし神楽坂の言葉でぴくりとこめかみが震えた。これだけ能天気そうなのに、なぜこうもこの男は鼻が利くのか、甚だ疑問だ。


「なにも見なかったし、知らないって言ってなかったか?」


 ため息交じりに出た声は、思いのほか感情の抜けた平坦な声音になっていた。そしてそれを聞いた神楽坂は目を丸くしたまま固まる。


「ええっ? こっちも地雷!」


「いや、悪い。別に脅すつもりはない」


 あまりにも怯えた顔をする神楽坂を見ると、さすがにやり過ぎたと自身にため息が出てしまう。意外とあの人は俺にとって鬼門になりえることがある。


「い、言わないって誰にも。だってニッシーといる時の藤堂ほんと幸せそうだし」


「え?」


 自分の言葉に俺があ然としていることなど、まったく気づきようがないくらい神楽坂はぶんぶんと顔を左右に振る。そしてなぜか両手を前に出して俺を遮ると、再び階段に腰かけた。


「なんかさ、こないだ見た時。ああ本気で好きなんだなぁって思ったんだよ。藤堂って誰に対しても気配り屋さんだけど、いっつもどっか冷めてんじゃん? けどニッシーと一緒にいる時はほんとに陽だまりみたいな感じで暖かくてさ、雰囲気……あ、れ? 顔が赤いよ、藤様」


 ふいに顔を上げこちらを見た神楽坂が急にニヤニヤとし始める。そしてそれと共に口角がぐっと上がり、俺を見る目に悪戯の色を含んだ。そんな表情に思わず、というよりも無意識に、俺は神楽坂を踏み倒していた。


「ちょっと、まじ勘弁! 俺はそっちの気はない。踏まれても嬉しくないから!」


「神楽坂、うるさい」


 足を避けて悲鳴の如く大声を張り上げる神楽坂の口を押さえると、なぜか背後から悲鳴が聞こえてきた。


「お前が騒ぐから人が集まっただろ」


「藤様がいたいけな級友を足蹴にするから悪いんじゃん。って言うか、いまの俺って貞操の危機的シチュエーション?」


 舌打ちした俺に軽過ぎる笑い声を上げた神楽坂にイラッとしながら、その軽そうな黄色い頭を叩いて仰向けの身体を跨ぎ越した。


「最近女子に毒されてきたな」


「自分が餌食にされない為には、自ら色に染まっとくと擬態がしやすいでしょ」


 一応これ処世術――そう言って反動をつけて勢いよく起き上がると、神楽坂は制服の埃を叩き笑う。


「ふぅん、ところでだいぶ人が集まったけど……お前なにから逃げてたの?」


 神楽坂の処世術とやらを聞きながら、手摺りにもたれた俺は一番初めの疑問を思い出す。きょとんとした表情を浮かべる神楽坂に首を傾げると、その顔が見る見るうちに青褪めていった。


「元はと言えば藤堂が委員会をサボるのが悪いんだからな!」


「は? サボってないだろ。もともと出る予定じゃ」


 急にジリジリと後ろへ下がり始めた神楽坂に眉をひそめるが、突然くるりと方向転換をして脱兎の如く逃げ出した。


「ダブル鬼畜なんて望んでないから!」


 よくわからないことを大声で叫びながら、神楽坂は人込みをかき分けて走り去っていった。


「……意味がわからない」


「まったくだ」


 神楽坂の後ろ姿を見ながら呟いた俺の独り言に、極自然に応える声――その声に振り返ると背後から伸びた腕が首に絡みついた。

 もれなく耳に痛い黄色い悲鳴も聞こえた。


「峰岸、暑苦しい。それとお前、あまり神楽坂を苛めるな」


 おぶさるように体重をかけてくる峰岸に一瞬だけ身体がよろめく。邪魔だと顔を押し退けるが、それでもなお峰岸は張り付いて離れようとはしない。


「つまらねぇんだから仕方ないだろ。お前が来ないとセンセも来ないし」


「あのな」


 いつだったかあの人がこいつを大きな猫だと称していたけれど、そんな可愛いものでは済まないだろう。遠慮もなくのしかかる重みに苦笑してしまう。


「お前は友達がいないからな」


「ほっとけ」  


 ため息交じりに肩をすくめると、ふて腐れたような声がぼそりと聞こえた。


「相変わらずだな、ほんとにお前は」


 実際に友達がいないわけではないが、峰岸が率先して誰かと一緒にいるところをいままで一度も見たことがない。


「俺は、お前がいるだけでよかったんだけどな」


「ん?」


 急に離れた腕を振り返る。しかし峰岸の言葉は鳴り響いたチャイムで、はっきりと耳には届かなかった。


「なにがよかったって?」


「お前が」


「二人とも、チャイムが鳴ったぞ」


 再び口を開きかけた峰岸を遮るように、ふいに階段下から声がかかる。その声に俺たちは、揃いも揃っていち早く反応を示した。


「藤堂、峰岸、授業が始まるから教室戻れよ」


「先生」


 ほんの少し首を傾げながら、ゆっくりとした足取りでこちらへ向かってくるその姿に、自然と頬が緩んだ。ついさっきまで一緒にいたはずなのに、それでも顔を見ただけでふっと胸が軽くなる。


「なあ、センセいまのってわざとだろ?」


「……」


 珍しく彼に対し眉をひそめた峰岸を訝しげに見れば、なぜか慌てたように彼は俺の背を押した。


「ほら! 早く戻れ」


「ま、いいけどね。俺はセンセ好きだし」


「……」


 目の前で肩をすくめる峰岸と、後ろで背を押す彼の合間で、俺は意味がわからず首を捻った。そして――先ほど走り去っていった神楽坂とあずみの取り合わせを階下に見つけ、さらに首を傾げた。


「かぐちゃん、なんか面白いフラグが立ってるよねぇ」


「俺は、なんかもう……死亡フラグなんだけど」


 二人の会話はさすがに聞こえはしなかったが、放課後に再び峰岸に追い回されている神楽坂の姿は見かけた。

 なんだかんだと神楽坂は峰岸に気に入られているようだ。



[ヒヨコの受難/end]

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