第三章:黒き進撃

第四十節:大渦と薔薇の密やかな語らい

 『ハッハッハッハッハッハッハッハ』

 

 闇の中に笑い声だけがこだまする。

 果たしてそれは、どれだけ途切れる事無く続いているのか。

 鋼の玉座に身を沈めたまま、魔王カリュブディスは肉の無い喉で笑い続けていた。

 海底から呼び出した巨大蟹を屠り、病毒の魔剣を携えた蒼褪めた騎士をも討ち滅ぼす。

 その様をカリュブディスは見ていた。

 何とも無様でみっともない、「英雄的」と呼ぶには泥臭過ぎる戦い。

 しかし、だからこそ見応えのあるその一戦に、魔王は腹の底から笑い続ける。

 

 『だがまぁ見事、見事と言う他あるまい』

 

 あの状況、一人の死者も出す事無く勝利した事は正に見事だった。

 死すれば配下の列に加え、仮に全滅したならば病の風は一帯の都市を呑み込んでいただろう。

 これで狂乱の赤と、病毒の青が潰えた。

 残る札は二枚。そのどちらも都市一つを蹂躙して余りある脅威。

 既に一体は動き出し、をしている最中だが。

 

 『さて、それだけで十分か……』

 

 蒼褪めた騎士は、あの化け蟹も送り込んでも敗北したのだ。

 やはり更なる試練こそが必要ではないか――と。

 そう考え、手元に髑髏の杖を呼び寄せるカリュブディスだったが。

 

 『…………』

 

 不意に、その手が止まる。

 遊興に耽っていた空気は一変し、冷たい死の気配が闇の中を満たす。

 もしこの場に魔王の崇拝者達がいたならば、恐怖と戦慄に震えながらすぐさま平伏した事だろう。

 だが今この場で、《死の大渦》に平伏する者はいない。

 在るのは鋼の玉座に君臨する当のカリュブディス本人と、もう一人。

 

 『何者か』

 

 カリュブディスの口から厳かに発せられる、誰何すいかの声。

 一瞬の間を置いて、それに答えるように小さな足音が響く。

 カツリ、カツリと。

 闇の奥から滲み出るように、その人物は姿を現した。

 

 『……ほう?』

 

 見る。眼球無き眼が、その者を捉える。

 白い。闇に差し込んだ光のように白い少女だった。

 背は低く小柄で、年の頃は十代半ば程にも見えるが。

 煌く星々のように美しい容貌が、年齢や性別を超越した独特の雰囲気を帯びている。

 肌は白く、長くのばされた髪の色もまた白い。

 身に付けた軽装の鎧や、羽織った外套の色も白。

 そして、

 最近何処かで見たモノに似た角と、細く長い尾。

 それらの色もまた白く、魔王を真っ直ぐ見つめる瞳だけが宝石のように紅く輝いていた。

 

 「――ご無礼をお許し下さい、カリュブディス殿」

 

 鈴の音にも似た愛らしい声。

 白い少女はそう言いながら、慣れた仕草で玉座の前で跪いた。

 一見するなら忠臣の如き振る舞いだが、カリュブディスは気付いていた。

 もしこの場で攻撃を仕掛けたなら、少女は即座にそれに対応してのけるだろうと。

 どころか、下手に隙を見せれば逆に此方の首を狙ってくる。

 そんな剣呑な雰囲気を隠そうともせず、白い少女は形だけはカリュブディスに跪いていた。

 

 『ハッハッハッハ。あぁ許そう、今は特に愉快な気分故な』

 

 笑い、その手元から髑髏の杖を一旦消し去る。

 確かに、この油断ならぬ少女とこの場で一手踊ってみるのも悪くはなかった。

 だが今は別の遊戯の最中であるし、少女自身が其処までやる気がない事も一目で分かる。

 そして何より――。

 

 『予想は付くが、一応問うておこう。誰の遣いだ?』

 「赤き薔薇」

 

 短く。

 これ以上なく短く端的に、少女はカリュブディスの問いに答えた。

 やはりか、と。《死の大渦》は笑う。

 懐かしき同胞。今やこの地に留まり続ける数少ない同類の一人。

 狂気の薔薇帝――《帝国》を支配し、神話の時から今に至るまで終わらぬ戦を続ける魔王の一柱。

 

 『で、薔薇は息災か?』

 「はい。今も帝都の玉座にて、心穏やかに在られております」

 『結構。旧友の無事は我が喜びよ』

 「お心遣いに感謝を、カリュブディス陛下」

 

 何とも白々しい言葉であったが、全くの虚偽というわけでもない。

 かつては敵としても相対した事はあった。

 同じ魔王と言っても――いやだからこそ、魔剣の理に従い争い合う仇敵同士。

 カリュブディスにとって、あの薔薇の女はいずれ討たねばならぬ相手で、それは向こうも同じ事。

 けれど遥かな時が流れ、自らの事情や状況も激変した今。

 「この地上に僅かに残された同胞である」という、そんな感傷に近いモノをカリュブディスは感じていた。

 

 『……それで?』

 

 とはいえ、そんな感情一つで絆される程に魔王カリュブディスも鈍ってはいない。

 骨と皮だけの身で、その力は全盛期とは比較にならぬほど衰えていても。

 彼は魔王、《死の大渦》と恐れられたカリュブディス。

 身に纏う死の気配で圧しながら、薔薇の遣いを名乗る少女に問いかける。

 

 『此度は如何なる用件だ? よもや挨拶の為だけに寄った、などと言うまい』

 「――我が主、赤き薔薇の御意思を陛下にお伝えしたく」

 『申せ。何を言いに来たのか、大方の予想は付くが』

 

 促された少女は、更に深くこうべを垂れて。

 

 「――“今一度、余と手を携える気はないか。古き同胞はらからよ”」

 

 その唇から漏れ出た声は、少女のものとはまったく異なっていた。

 懐かしき声だ。

 肉の脳を持たぬカリュブディスは、その永久とこしえに長らえる魂で思い出す。

 美しい女の姿を。それが永遠に失われた時を。

 魔王は笑う。過去を偲ぶなど、かつての自分ならば考えられぬ事だ。

 そしてその時だったならばこの申し出も特に迷わず受け入れただろう。

 大事なのは「いつ裏切るか」で、それ以外の事はさして重要ではないからだ。

 

 『断る』

 

 しかしカリュブディスは、薔薇の誘いを一蹴した。

 

 「“……何故だ?”」

 『それが分からぬのであれば、ますます頷く理由はないな。赤き薔薇よ』

 

 白い少女は――正確には、彼女を基点に此方に語り掛けている薔薇は困惑を滲ませる。

 まさか直接的に断られるとは考えていなかったのだろう。

 それが可笑しくて、カリュブディスは少し笑った。

 

 「“何が可笑しいのだ、カリュブディス”」

 『気分を害したのであれば、それについては謝罪しよう』

 「“……カリュブディス、《死の大渦》よ。この世に七柱しかおらぬ同胞の一人よ”」

 『さて、「この世」とやらに残っている者は、我ら以外にどれほどいるか』

 

 言葉を交わす間も、苛立ちの感情が伝わってくる。

 最初は意味が分からず困惑し、今は思い通りにならない事に怒りが沸いてきたのだろう。

 最早かつての面影など、お互い微塵も残していないだろうが。

 そういうところだけは、何も変わらない

 

 「“カリュブディス”」

 『まだ何か言い足りぬのか? 赤き薔薇よ』

 「“あぁ足りぬ、足りぬとも。そも余はそなたの言葉に納得したわけではない”」

 

 隠そうともしない怒気を言葉に乗せて、赤き薔薇は言葉を続ける。

 

 「“そうだ、そなたの言う通り。

  今この地に残り、満足に力を振るえる魔王は我ら以外にはおるまい”」

 

 神々と魔王達が争った《剣の大戦》。

 それから途方もない年月が過ぎ、神々が地上を去ったように、魔王の多くも世界から姿を消した。

 ある者は、神々を残らず討ち滅ぼさんとその後を追いかけ。

 ある者は、世界の果てで「真なる巨人」と終わりなき闘争に入った。

 ある者は、長い戦いに倦んで姿を消し、ある者は――。

 

 「“カリュブディス、不完全極まりないとはいえ、そなたが目覚めた事は我が喜びだ”」

 『身に余る光栄だな、薔薇の皇帝よ』

 「“なればこそ、我らが手を結ぶのは必定。天の運命とそなたも思わぬか?”」

 『我としては、その話の結論を早めに聞きたいのだがな』

 

 皮肉のつもりで言ったわけではなかったが。

 言われた薔薇の皇帝は、明らかに気分を害したようであった。

 しかし、それで癇癪を起こすような真似はせず。

 跪いていた少女の身体をその意志で操り、躊躇なくカリュブディスの前に立つ。

 それから、何処か芝居がかった動作で右手を差し出した。

 

 「“二度目だ。三度はない。余と手を結べ、カリュブディス”」

 『剣の導きで争う他ない我らが、手を結んで何とする?』

 「“決まっていよう、この地の全てを支配するのだ”」

 

 はっきりと。

 神々に宣誓を捧げるかのように、少女を操る薔薇の皇帝は断言した。

 悠久の時の果てより抱き続ける、己の大望を。

 

 「“全て、全てだ。其処に例外はない。

  余は全能の支配者。神々を玉座より追い落とし、その冠を戴く者である”」

 『お前が全てを支配するなら、ますます我がお前に協力する理由がないように思えるが』

 「“余は万物の頂点に立つ。しかし余は光輝き、あらゆるものが煌き満たされる世界こそ愛する”」

 『ほう? つまりそれは……』

 「“そう。余は光が、光さえあれば良い。闇の底はそなたの領分であろう?”」

 

 世界の半分をお前にやろう――つまり、これはそういう話だった。

 

 「“明るき世界は余が支配しよう。暗き世界はそなたが支配すればいい。その権利を余が許そう”」

 『…………』

 

 カリュブディスは沈黙する。

 先ほどまでは、薔薇の皇帝の言葉に淀みなく切り返していたが。

 薔薇の声が笑う。その沈黙は、《死の大渦》が思い悩んでいるが故と思ったからだ。

 なればこそ、もう一押しが必要だろう。

 薔薇が操る少女は、その右手を差し出したまま。

 

 「“さぁ、悩む必要など何処にもあるまい。そなたと余が結べば、この世界に敵などない”」

 『……成る程、確かにそれは真実だろう』

 

 歌のような誘い文句に、カリュブディスは吐息混じりの言葉を吐き出した。

 それから、少女の方へと改めて視線を向ける。

 其処に、見えるはずのない女の姿を幻視しながら。

 

 『赤き薔薇よ、七つの魔王の同胞よ。お前の言葉の多くは正しいが、一つだけ偽りがある』

 「“偽りだと?”」

 『そうだ。それが何か分からぬか?』

 「“……無礼であろう、カリュブディス。余は常に公正であり、真実のみしか口にせぬわ”」

 

 確かに、そう言い切る言葉は当人にとって真実だったろう。

 しかし薔薇の皇帝が語る事には、どうしようもなく欠けている事がある。

 カリュブディスは、ただ事実としてそれを突き付けた。

 

 『お前は強欲な女だ、クラウディア』

 

 一つの名を呼ぶ。

 誰もが恐れ、歴史の彼方に忘却してしまった女の名を。

 薔薇帝は応えず、カリュブディスは言葉を続ける。

 

 『昼の世界を支配したならば、必ず夜の世界も欲しくなる。お前自身が口にしていた通り。

  お前は、この世の全てを支配せねば気が済まぬ女だ』

 「“……カリュブディス”」

 『故に、お前の口にした取引は意味がない。今語る言葉が真実でも、必ずお前自身がそれを破るからだ』

 

 沈黙。白い少女を操ったまま、赤い薔薇は黙り込んだ。

 カリュブディスもまた沈黙を返す。

 必要な言葉は全て口にしたと、そう言わんばかりに。

 果たして、どれだけの時間をそうしていたか。

 次に口を開いたのは、薔薇が操る少女の方だった。

 

 「“カリュブディス”」

 『何だ?』

 「“どうしても、余と共に歩むつもりはないと申すのだな”」

 『同じ事を、三度は口にせぬのではなかったか?』

 「“……そうか、それが答えか。旧き友よ”」

 

 旧き友。白々しい響きだが、同時に胸に響きものもある。

 その感覚を共有しているのか――それだけが、ほんの少しカリュブディスは気になった。

 けれど、赤き薔薇は感傷など微塵も感じさせない、底冷えするような声で。

 

 「“つまり、そなたは余の敵となると、そういう事で構わんのだな?”」

 

 味方にならぬのであれば、切り捨てるべき敵だと。

 凍てつくような敵意と、焼け付くような憤怒を同居させた声で薔薇は告げる。

 それを真正面から受け止めるカリュブディスは、あくまで穏やかに。

 

 『確かに、お前の帝国と争うのも一興ではあるが、今は先約がある』

 「“……は? 先約?”」

 『そうだ。我は今、この時代を生きる英雄豪傑共と戯れるのに忙しくてな』

 

 言っている意味が分からないと、やや困惑している薔薇に、カリュブディスは笑う。

 

 『もしその者らが我を討ち取れず、この地に再び死の国が開かれる事あらば。

  その時は、改めてお前の敵となろう。赤き薔薇、我が旧き友。七人しかおらぬ同胞よ』

 「“……そなたは、それを本気で言っているのか?”」

 『無論。お前も一度、挑戦者の刃を受けてみれば、我の心を理解できるぞ』

 「“くだらぬ。《死の大渦》は、一度の敗北で狂したと、そう言うのだな”」

 

 吐き捨てる。

 期待した答えは得られず、その上理解の及ばぬ事まで一方的に語られる始末。

 赤き薔薇は失望を隠そうともせず、カリュブディスに言う。

 

 「“なれば勝手にするが良い、愚かな同胞よ。

  余の言葉に従っていれば、この世の全てが思いのままであったというのに”」

 『儘ならぬからこそ愉快な事もある。それもまた一つの真理だと、そう悟ったまでの事だ』

 「“その無様な有様で語るのは、成る程確かに滑稽な話よ”」

 『さて、お前も人の事は言えぬ状態ではないのか?』

 

 肉の無い喉で笑い、薔薇帝が目覚めて間もない自分に同盟を持ち込んだ、その真意を密かに突く。

 それに対し、答えは返ってこない。

 だからカリュブディスも、それ以上追及する事はしなかった。

 女の秘密に下手に触れば、痛い目に遭うのがどちらかぐらいは弁えていたからだ。

 

 「“さらばだ、《死の大渦》よ。今度こそ、二度と目覚めぬ闇の底へと還るがいい”」

 『さらばだ、赤き薔薇よ。お前の望みが果たされる時が来れば良いが』

 

 その言葉は、果たして皮肉か本心か。

 お互いにそれを明らかにする事はなく、二柱の魔王の邂逅は幕を閉じる。

 後には鋼の玉座に在る死者の王と、消耗して床に膝を付く白い少女だけが残された。

 消耗し、呼吸を荒げる少女をカリュブディスは見下ろして。

 

 『依代の役、ご苦労であった。奴ほど強大な存在の受け皿となるは、命を削る行為であろう』

 「……私は、陛下の忠実な剣であれば」

 『ふん、良い部下を持ったと答えるべきか』

 

 言いながら、カリュブディスは玉座から立ち上がる。

 それからゆっくりと骨の足で歩き、少女の傍らを横切って。

 

 『どの道、薔薇の命で我の監視の役目も負っているのだろう?

  ならば好きに見物していけ。休む為の寝台の一つぐらいなら、用意してやっても良いぞ』

 「……お心遣いに感謝します、カリュブディス様」

 『良い、久々の語らいで我も少し気分がいい』

 

 そう言って、カリュブディスは改めて呼び出した杖を軽く振るう。

 すると、窓を遮っていた大きく分厚いカーテンが触れても無いのに動き出す。

 光。差し込む輝きが、闇に満たされていた玉座の間に注ぎ込む。

 死者の王は、陽光を我が身に迎え入れるように両手を広げながら、一人呟く。

 

 『夜明けだ』

 

 死者の夜明け。

 日は上り、それが過ぎればまた夜が来る。

 果たしてこの鋼の玉座に辿り着く者が現れるのか――魔王は夜明けを嘲笑いながら、その時を待つ。

 

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