りざーどまんのおよめさん
駄天使
第一部:大鬼達の要塞
序章:彼女が一人ぼっちだった頃
第一節:少女と地の底
横たわった石床は、さながら虚無の穴底が如く冷たかった。
時間の感覚はとうに喪失している。
かろうじて思い出せる記憶は、果たして数時間前のものなのか、数日前のものなのか。
呻く。身体に無事に動く箇所など残されていないが、喉はかろうじて潰されてはいなかった。
それは単に、喉を裂いては苦痛の悲鳴を上げられないという、加虐者側の都合に過ぎなかったが。
「ッ……ぁ……」
それでも、まともに声を紡ぐ事は困難だった。
掠れた音を唇の端から漏らしながら、渾身の力で眼球を動かす。
古びた遺跡の壁には、赤く燃える松明が光源として幾つか設置されている。
暗闇を完全に照らし出すには心許ないが、近くのものを見る程度なら十分だった。
そう、「彼」はそれを見た。
赤い炎の下に照らし出される、仲間“だった”者達の姿を。
「ぐ……ぅ、ぁ……ッ……!」
何を言おうとしたのか。多分、死者の名前を呼ぼうとしたのだろう。
その行為には何の意味もなかった。仮にどれだけ声が出ようとも、応える者はもういない。
都市部に出てきたばかりで、右も左も分からない自分達の面倒を見てくれた、元盗賊の男がいた。
他のメンバーより少し年配で、皮肉屋で酒好きの彼は、今や原型も分からぬ肉塊となっている。
最初の仕事で関わり、その縁で仲間となった魔術師の少女がいた。
人より優れた知識を持ち、人との繋がりに少し無知だった彼女は、散々弄ばれた挙句に生きたまま首を斬られた。
そして、幼い頃に見聞きした冒険譚に憧れて、共に同じ道を志した司祭の少女がいた。
幼馴染であり、未熟な感情でもほんの少しだけ、互いを意識していた彼女は――。
「ぁ……ぁ、あぁっ……」
震える声を、絞り出す。
眼を背けたくとも、背けるだけの力がない。
かつては勇猛な戦士だった青年は、既に五体を切り刻まれて指先一つ動かせない。
流れる血は命の総量であり、彼はその大半を既に流し尽くした。
死の帳から彼を現世に繋ぎとめているのは、ただ激しい悲憤のみ。
……何故、こんなことになってしまったのか。
切欠はそう、とある集落の近くにある遺跡を、
臆病であるが凶暴であり、愚鈍であるが狡猾でもある。
「混沌の神々」が生み出したとされる《混沌の仔ら》の内、最も数が多いとされる醜悪な魔物。
《混沌の仔ら》としては弱小とされながらも、その数が故に人類種にとって特に身近な脅威。
だから彼らは、決して油断などしていなかった。
事実、過去に小鬼の巣穴を駆除した事は何度かある。死ぬような目にも当然あった。
それを地力と、幾許かの幸運に恵まれた事で切り抜けた。
いつだって現実は万全とは程遠い。
それでも冒険者達は、可能な限りの準備をした上で、遺跡の小鬼退治の依頼を引き受けた。
恐れはなく、油断もなかった。
けれど運命の落とし穴は、そんな彼らの事情とは無関係なところで口を開けていた。
「っ、が……は……」
胸の奥から込み上げてきた血の塊を吐き出そうとし、失敗する。
ゴボゴボと不快な音を自らの内に聞きながら、終わりが近い事を青年は悟る。
そう、終わりだ。輝ける冒険譚は、彼らの前には存在しなかった。
仲間を無惨に殺され、弄ばれ、そして遺跡の隅っこに打ち捨てられて屍を晒す。
こんなものが運命か。「始原の神々」は何処で眠りこけているのか。
意識は掠れ、認識は世界から乖離していく。
どれほど醜悪な魔物達への憤怒を燃やそうと、肉体は物理的に生命活動を維持できない。
これが終わりだ。始原と混沌の神々、そして魔王らが争った《剣の大戦》より幾度となくあった悲劇。
何も特別な事などない。零れ落ちた魂は、ただ大いなる蛇の循環へと還るのみ。
「…………?」
だから青年は、松明の光を何かが暗く遮った時、それは今際の幻覚に過ぎないと思った。
小鬼ではない。ぼやけた視界に写る姿は確かに小柄ではあったが、小鬼よりは上背がある。
黒い、暗く佇む影のような姿は、さながら死神のようにも思えた。
「……まだ、息があるのね」
囁くような声は、驚くべき事に歳若い少女のものだった。
死神――いや、黒い外套で全身をすっぽりと覆った少女は、横たわる青年の傍に膝をつく。
その背には、何か長く大きな物を背負っているようだったが、青年の目にはよく見えない。
「この遺跡に巣食う小鬼達……その首魁が《魔剣持ち》なのは、確かみたいね」
「ッ……!」
《魔剣持ち》。
そう、そうだ。死の感触を一瞬忘れる程の憤怒が、頭の中で弾ける。
アイツだ、あの小鬼だ。赤く、捩じくれた剣を手にしていた、あの小鬼。
アイツのせいで、俺達は……!
「貴方は、もう助からない」
少女の声。気付けば、吐息が感じられるほど近くに唇を寄せている。
既に殆ど死んでいる青年の耳には、そうしなければ声が届かないと察しての事だった。
距離が近づいた事で、失われかけた視界にも少女の顔ははっきりと写る。
……嗚呼、やはり彼女は死神だ。
美しい、そんな陳腐な言葉でしか出てこないぐらい、その少女は美しかった。
生の最後に迎えとして現れる死神は、末期に恐れを与えぬようにと美しい乙女の姿を取るという。
ならばやはり、この少女は青年にとって死神に他ならなかった。
「貴方を助ける術を、私は持っていない。だからせめて、選ばせてあげる」
囁きながら、少女はその細い指で背に負った物を抜き放つ。
黒い、まるで光を吸い込んでいるかのような、黒い剣。
夜の一部を切り取って、それを鋼として鍛えたが如くの、黒い大剣。
少女の言葉は続く。
「このまま、全てを諦めて死を受け入れる。後に残るのは、死後の安息だけ」
それは自然の摂理だ。
生を終え、死を受け入れる。そして魂は大いなる蛇の循環に還り、再び何処かで生命として芽吹く。
本来ならば誰にも抗い難きその理に、死神たる少女は別の選択肢を示す。
「けれどもし、もし貴方が、それを拒否してでも報復を願うなら」
触れる。空いた手で少女は、血の気が失せた青年の顔に触れる。
その指が血肉で汚れる事も厭わずに、自分の眼を正面から見られるように。
金色の瞳が、死に逝く者の顔を映し出す。
「私が、それを叶える。あの小鬼共に、貴方と同じ地獄を見せる」
さぁ、すぐに選んで。赦された時間はもう尽きかけている。
囁く少女の声は、物理的な距離とは無関係に遠ざかりつつあった。
死の淵に沈んだ身体。もう首は愚か、顔の大半さえも水面の底に消えつつある。
時間はもうない。機会は残された一瞬だけ。
だから青年は、迷わず答えた。
「……そう、分かったわ」
もう音にすらなっていないその言葉に、少女は大剣を振り上げる事で応じる。
明らかに少女の細腕一本で振るえる代物には見えないが、そんな事は疑問にも思わなかった。
頭上から落ちる、黒い刃。
その死神の鎌の一振りを、青年はいっそ安らかな心で受け入れる。
そして。
* * *
打ち捨てられた遺跡の奥。
過去に誰が、如何なる用途で使っていたかも分からない大広間。
その空間を埋め尽くすように、無数の小鬼達は耳障りな歓声を上げ続けていた。
「ギィ! ギャッギャッギャ!」
食んでいるのは、近くの集落から奪い取った家畜の肉。
呑んでいるのも、同じく奪い取った麦の酒。
ロクに火を通していない肉や、逆に殆ど炭になったような肉を頬張る。
管理が杜撰で土やゴミが入っているような酒を、小鬼達は構わず飲み干した。
ギャアギャアと喚く言葉に意味はない。
いや仮に意味があったとしても、その意味を読み取る必要がなければ、やはり意味などないのだ。
「小鬼の語る言葉に耳を傾けるなかれ」という、古い諺がそれを示している。
ただただ醜悪な魔物達は、他者から奪い取ったモノで享楽に耽るだけ。
「ギギャッ!?」
不意に、驚きと苦痛に満ちた声が響いた。
何を思ったのか、一匹の小鬼が他の小鬼らに抱えられ、広間の真ん中にある篝火に放り込まれたのだ。
燃え盛る炎の中に投げ込まれればどうなるか、そんな事は幼子にも明白だ。
盛大に火の粉を上げながら、全身を炎に捲かれた小鬼がのたうち回る。
それで周りの小鬼――投げ込んだ当の小鬼達にも火を浴びせ、火傷を負わせる事となるが。
そんな事に頓着する者は、この場には誰もいない。
「ギィィィィ!?」
「ギャッ、ギャギャギャギャ!」
「ギギャギャ!」
火の熱さに叫ぶ者、その滑稽さを哂う者。
それは正に
――そんな小鬼達の饗宴を、一段高い場所から見ている者がいた。
瓦礫を雑に組み上げて作っただけの、余りにも粗末な玉座。
これに満足げに腰を掛け、濁った麦酒を旨そうに煽る一匹の小鬼。
体格などの見た目上、ソイツは他の小鬼と大きな差はない。
稀に現れる《
何処にでも転がっているような、ただの小鬼の一匹。
違うのは、ただ一点。
彼が自慢げにその手に持っている、赤く捻じれた一本の長剣だ。
「ギャッ!?」
玉座の小鬼――
無造作に振るわれた赤い刃が、鮮やかに小鬼の細首を切断する。
その断末魔に反応した他の小鬼達の前に、小鬼剣士は木製のカップを投げ捨てた。
先ほど、入っていた麦酒を飲み干したばかりのカップを。
「酒が無くなったから注いで来い」。
その意図を読み取った小鬼が、すぐさまカップを拾って酒樽の方へと走っていく。
小鬼剣士は、その滑稽な様を眺めながら笑った。
笑いながら、カップを拾い損ねた別の小鬼の喉笛に、赤い刃を突き刺した。
喉を裂かれた事で声も上げられず、ぶくぶくと血の泡だけが噴き出す。
しかしその血もすぐに、まるで刃に呑み込まれるように消えていく。
……いや、それは「まるで」ではなく、真実赤い刃が斬られた小鬼の血を飲み干しているのだ。
「ギ、ギヒヒ」
笑う。嘲笑う。
小鬼剣士は、無能で愚鈍な同胞達の恐怖を、心地よく全身に浴びる。
堪らない。この享楽に比べれば、どんな酒も水に等しい。
弱者を搾取し、己の都合のまま全てを奪う。
手にした剣を振るうだけで、その切っ先が向いた相手の人生全てが、一瞬で台無しになる。
心地良い。嗚呼なんと心地良い事か。
数日前に現れた冒険者達もまた、小鬼剣士にとっては極上の玩具だった。
希望を信じ、自らに明日が訪れる事を疑いもしない彼らに、これ以上ない絶望を叩きつけた。
思い出すだけで、笑いが零れる。
男を切り刻み、息を残したままにして、その目の前で女を犯しながら切り刻む。
楽しかった。その手の快楽は実に久しい事だったため、ついついヤり過ぎてしまった。
女の方はもう少し生かしておいても良かったかとも考えたが、直ぐに思い直す。
――あんなものは、家畜や酒樽と同じだと。
欲しいのならば、また何処からか奪ってくればいい。
「ギッ、ギヒ」
小鬼剣士は、その手にした「力」とは異なる、小鬼特有の都合の良い思考を大回転させる。
そうだ、欲しいモノは奪えばいい。何を堪える必要がある?
自分にはその為の「
何やら「
此処にいるのは自分と、自分に逆らえない馬鹿な同族達だけだ。
今までは最低限、群れの維持に必要な補給のみに止めていた略奪。
次からは「狩猟場」をもっと広くし、そして徹底的かつ根こそぎに奪い取ってやろう。
それでまた、自分に楯突く人間どもが現れるなら、むしろ都合がいい。
小鬼剣士は、手にした赤い剣に残った血を、歪に長い舌でベロリと舐め取った。
奪う機会と、享楽の時間が増える。ならばむしろ都合がいい。
「ギヒッ、ヒャヒャヒャヒャヒャ!」
笑う。笑う。聞くに堪えない醜悪な声で笑う。
都合の良い妄想に耽る小鬼剣士は、まだ気付いていない。
酒を取りに行ったはずの小鬼が、未だに自分のところへ戻ってきていない事に。
大広間を満たす喧噪が、酒宴のモノとは別の色を帯びつつある事に。
ビチャリ、と。滑稽な玉座の足元に、小鬼の血がぶちまけられる。
同時に転がる首の数は、一つや二つではなかった。
「ッ!?」
「……ようやく気付いたの? 馬鹿みたいに眠りこけていたのかと思った」
炎。血。悲鳴。怒号。武器がぶつかり合う音。
一瞬にして小鬼どもの宴会場は、死神の舞踏場へと塗り替えられる。
我に返った小鬼剣士は、その姿をようやく目にする。
燃える炎を背に、赤く散らばった小鬼達の亡骸を踏みつけて。
黒い外套を纏い、黒い大剣を携えた、その麗しい死神の姿を。
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