第113話 帰ってきたら、ちゃんと
「離れたく、ない……」
小さな呟き。
でもそれは、僕の鼓膜を確かに震わせた。
鼓膜以外にも、日和の肩が、頬が、唇が、小刻みに震えていた。
その面持ちは、涙と悲しみでぐしゃぐしゃだった。
なんで、そんな顔……。
理解が追いつく前に日和は、叫んだ。
「治くんと離れたく、ない……!!」
その言葉が皮切りだった。
わああああっと、日和は子供のように咽び泣き始め、僕に再度抱き付いてきた。
僕の肩に顎を乗せ、縋り付くようにして日和は泣いた。
頭の中に、どうして良いか分からず呆然とする僕と、冷静に状況を分析する僕がいた。
後者の僕が問う。
どうして、日和は泣いているのか。
さっきまであんなに笑顔で、楽しそうだった日和が……いや、まさか、だからこそ、なのか?
鈍感で察しの悪い僕に直感めいた予感が過ぎる。
それを言語化する前に日和が、涙混じりの言葉を吐き出す。
「ごめんっ……ひっく……本当にごめん……こんなこと言ってもっ……うぅ……治くんを困らせるだけって、わかってる……だけど……」
すぐ耳元で、悲痛の叫びが響く。
「……帰って欲しくないっ……治くんと、離れたく……ないっ……」
ぎゅううっと、僕の背中に回された腕に力がこもる。
「……これからもずっと……ずっとずっと、治くんと一緒に……居たい……だって……!!」
これが一番伝えたいことだと言わんばかりに、一段と大きな声量で、日和は、言葉を放った。
「治くんの事が、好きで好きでもう、どうしようもないくらい大好きだから!!」
────。
────────ああ、そうか。
そう、だったのか。
そういう感情を持つべきタイミングではないとわかっていながらも、僕の胸の中は温かさと嬉しさでいっぱいになる。
対する日和は言葉を終えてから、再びわんわんと、感情に任せて泣きじゃくった。
僕の腕が、自然な動作で動く。
片方は日和の背中に回して、もう片方を日和の頭にそっと乗せる。
そのまま、優しく撫でる。
びくりと、日和の身体が小さく震えるも、慟哭が止まる気配はない。
それでも、子供をあやすように、落ち着かせるように撫でる、撫で続ける。
その傍らで、俯瞰的な僕は鉄骨でぶん殴られたかのような衝撃を受けていた。
どうやら僕は、勘違いしていたようだ。
日和の、僕に対する想いの深さを。
日和が、僕の事をどう想っているかという推測を。
──日和ちゃん、絶対お前に気があるって。
涼介の言葉を、僕は一度も肯定しなかった。
自分に対する自己評価の低さが、自分なんかが人に好かれるわけがないという思い込みがそうさせていた。
でも今こうして、感情を露わにして、離れたくないって、ずっと一緒にいたいって。
そして、好きだって、どうしようもなく大好きだって、誤魔化しようのない言葉を大にして叫ぶ日和の気持ちを否定することはもう、できない。
僕が日和を想っているのを同じように、いや、きっと僕以上に日和は想ってくれていたのだ。
自惚れだろうか?
そうは思わなかった。
自覚すると同時に、大きな後悔に苛まれた。
僕は……なんてことをしてしまったんだ。
寂しいけど、大丈夫だって、お別れまで楽しまなきゃねって明るく振る舞う日和の言葉をそのまま受け取ってしまっていた。
明るい笑顔の裏に潜む本心に気づけなかった。
日和が人一倍繊細で、寂しがり屋な女の子だって事、少し考えてればわかったはずだ。
僕が気持ちに気づけなかった、いや、正確には気づいていながらそれを受け入れることをしなかったばかりに。
大好きな人を、一番大切な人を、こんなにも悲しませてしまっている。
日和みたいに感情主体で他人のことを考えることができれば、こうして大切な人を悲しめることもなかっただろうに。
日和のそういう部分は、改めて尊敬する。
それに比べて僕は……。
自分に欠けている部分を自覚し、自己嫌悪に陥る。
「ごめん……取り乱しちゃって」
頭の中でグレーな感情をぐるぐる回している間に、日和の慟哭は落ち着いていた。
泣き尽くした、と言うよりも、身体がストップ機能として泣き止んだ、といった表現の方が正しい。
身体が解放される。
日和との間に、距離が生じる。
見ないで、とでも言いたげに俯かれた表情には、悲しみが色濃く浮かんでいた。
深く思考するまでもなく、ハンカチを差し出す。
「……ありがと」
ハンカチを受け取り、目元に当てる日和。
「また、ハンカチ汚しちゃったね、ごめんね」
「……気にしないでいい」
「ありがとう……明日、洗って返すね」
「いや……」
「さっきはごめん、どうかしてた」
言葉を被せられる。
「いきなりあんなこと言われても、困るよね、重いよね……本当に……ごめんね」
僕に返答のタイミングを与えたくないと言わんばかりに、言葉が断続的に繋がれる。
「ごめんね、本当にごめんね」
声が、震えていた。
「とっても楽しい1日にしてくれたのに、最後にこんなことしちゃって、本当にごめん」
せっかく拭った目元が、また湿り気を帯びていた。
「ごめんなさい」
そんな、謝るのは僕の方なのに。
「さっき、私が言ったこと」
短く、しかし、やけに長い間のあと、
「全部、忘れてください」
そう言って、日和は笑った。
いつもの明るくて快活な笑顔で、違う、そんなわけないだろう。
唇は震えていて、冬空のように澄んだ瞳は何かに怯えるように揺れている。
僕の反応を恐れている事は、すぐにわかった。
以前にも同じシチュエーションがあった。
日和が初めて、父親と母親のことを明かしてくれた夜。
あの時みたいに、何を言えば正解なんだろう、なんて事に脳のリソースは1バイトも割かなかった。
まずは理性じゃなく、感情を動かした。
今度は僕の方から日和の身体を、力一杯、抱き締めた。
「……おさむ、くん?」
「もういい」
驚きを含んだ声に、言葉を被せる。
「全部、わかったから」
日和が息を呑む気配が、耳元から伝わってくる。
「僕の方こそ、ごめん」
謝罪のあと、間髪入れず、今の自分の気持ちを、率直に告げる。
「ありがとう。こんなにも僕を、想ってくれて…… 本当に、嬉しい」
「……うん」
嬉しみの成分が詰まった声とともに、日和の方からもぎゅっと抱きしめられる。
言葉は不要だった。
お互いに何を考えていてどういう気持ちなのか、全部わかってる、心が通じ合っているような感覚。
そのまま、言おうとした。
日和の告白に対する返答を。
僕も日和が好きだ、大好きだって、言おうとした、
しかし、僅かに残っていた理性がそれにブレーキをかけた。
違和感を、察知したのだ。
感情に関して僕よりも大先輩である日和は、僕が自覚するずっと前から、自身の気持ちを認識していたはずだ。
なのになぜ、日和は今の今まで僕に想いを告げなかったのか。
それに関して、違和感を覚えていた。
単純に恥ずかしかったから?
それもあるかもしれない。
でも本質は、もっと別のところにあるような気がしてならなかった。
ここからは完全に推測だ。
間違っている可能性も大いにある。
ひょっとして日和は……「僕との関係性がより深いものになること」に対して、何かしらの理由で踏み切れなかったのではないだろうか。
そしてその理由は……僕が地元に帰ってしまうことにあるような気がする。
クリティカルな根拠はない。
ただの直感だ。
直感の答え合わせをするために日和に直接尋ねる、という選択も浮かんだが、そうはしなかった。
今の今まで口にしなかったことを考えると、そうしない方がいい気がした。
これも直感だ。
しかしそれらの直感に対する確信は、相当なものだった。
5ヶ月間、誰よりも日和のそばにいて、日和のことを見てきて、日和のことを考え続けた故に導き出された感覚。
その感覚を、信じる事にした。
今ここで、返事を口にするべきではない、そう結論づけた。
順番が、きっと逆だ。
今、そしてこれから僕がするべきことは、日和に告白の返事をすることではない。
日和を、安心させることだ。
「ごめん、本当に」
「なんで治くんが謝るの」
涙混じりの、笑い声。
「たくさん、悲しい思いをさせた」
「ううん、気にしないで……全部、私の自業自得だから」
胸にちくりと痛みが走る。
ああやっぱり日和は、何かを抱えている。
ずっとずっと、抱えている。
その確信が深まった。
「忘れるなんて、そんなこと、絶対にしない」
強い言葉と決意とともに、日和から身体を離す。
丸めた目で、僕を見上げてくる日和。
星空のように奥の深い瞳を真っ直ぐに捉えてから、息を吸って、言葉を紡ぐ。
「帰ってきたら、ちゃんと返事、するから」
言うと日和は、手を胸の前でぎゅっと握ってから、
「……はい、待ってます」
細められた瞳から、一筋の光がキラリと落ちた。
今度は歪みのない、港区の夜景よりも冬空に打ち上がる花火よりも綺麗な笑顔だった。
──後になって、わかった。
僕はこの時、大事な部分を省いたせいで日和に勘違いをさせてしまった。
この時言った『帰ってきたら』は、『来週の短い帰省から帰ってきたら』という意味合いのつもりだった。
日和は、そうは受け取ってはいなかった。
『大学を卒業してこっちに帰ってきたら』という意味で捉えていた。
やっぱり僕はまだ、自分の発言が相手にどのように受け止められるかという、客観的な視点が足りていなかったらしい。
でも、後になって思えばこの勘違いは……良い作用をもたらした。
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