第53話 彼女は関係ない
足を棒にしてやってきた温泉宿は、純和風のお城のような外観をしていた。
開店してまだ日が浅いのか、全体的に小綺麗な印象を受ける。
ホテルも兼用しているらしく、ちょっとした規模感だった。
「なんかすごそう」
「でしょでしょ? ここ、露天風呂がすごく豪華なんだって!」
「へえ」
彼女が、事前に入手した知識を得意げに話す。
「それに、大広間が広くて入った後にゆったりできるの! あと今、来たお客さん全員にコーヒー牛乳がプレゼントされるキャンペーンやってて」
「めちゃくちゃ調べてるね」
僕なら絶対、「箱根 日帰り温泉ランキング」とか検索して、一番口コミが良かった温泉をチョイスしていただろう。
予想外の坂道によって気力と体力を一気に持っていかれた僕だったが、彼女の話を聞いていると気分が舞い戻って来た。
中に入ると新築の匂いがした。
木と化学物質の匂いが混ざり合ったような匂い。
やはり、オープンして日が浅いのだろう。
「ここ、オープンしてまだ1年くらいしか経ってないんだって」
まるで、僕の心を読んだかのようなタイミングで彼女が言う。
「エスパーなの?」
「なんの話?」
「こっちの話。まあ、この匂いは嫌いじゃない」
「あー、なるほどね。もしかして、ガソリンの匂いとか好きな人?」
「言われてみれば確かに好きかも」
「うへえ、私あれ無理なんだよねえー」
「まあ、無理な人は無理だけど、好きな人はとことん好きって匂いだよね」
「私、美味しいものの匂いなら大好き!」
「それ嫌いの人いるの?」
他愛の無いやりとりを交わしながら受付へ。
料金は前払い制とのことだったので、僕が二人分支払った。
自分の分は払うと彼女が喚いていたが、断った。
普段夕食を作ってもらってるうえに、今日の旅も段取りしてくれたのに払わすのは忍びない。
という説明をしたのだが、彼女は釈然としない顔をしていたので、来週のどこかの夕食でハンバーグをメニューにするという協定を結び折り合いをつけた。
結果的に僕の方が得をしている気がしたが、それで彼女の気が済むというのなら改めて御相伴に預かろう。
僕と彼女は性別が違うので、脱衣所の前でお別れである。
1時間後を目処に休憩処の大広間で落ち合うことを決めてから、藍鉄色(あいてついろ)の湯暖簾(ゆのれん)をくぐった。
脱衣所で生まれながらの姿になり、家から持ってきたタオルを持って温泉に臨む。
まずはかけ湯で身体を清め、軽くシャワーを浴びた後、大浴場に身を委ねた。
全身を熱い湯に浸すのは久々だったためか、一瞬、意識が遠のいた。
息を吸い込み、気を持たせる。
ほうっと、思わずため息が出た。
久しぶりの温泉は、想像以上に極楽だった。
身体に溜まった疲労とか、穢れ的なモノとかがじわじわと昇華されていく感じ。
僕は心を無にして、その感覚を楽しむことにした。
しばらく経ってからふと、思った。
僕は今、女の子と一緒に旅行に来ているのかと。
あまり実感が湧かなかった。
今日は一人で温泉に来たと思った方がまだしっくりくる。
他人に興味を持たず、1人を好んでいた僕が誰かと一緒に温泉旅行に来ているだなんて、3ヶ月前の生活を考えると信じられない事だ。
自分のプライベートが侵食されることを忌避し、部屋に入れる入れないで押し問答をしていた最初の頃が懐かしい。
今ではすっかり、彼女がプライベートに一部になってしまっている。
つくづく、慣れとは恐ろしいものだと思った。
気づく。
これだけ関わっているにも関わらず僕は、彼女の生い立ちや、あの力に関して何も知らない。
なぜ私の力について訊いてこないのか。
出会って初めの頃、彼女に尋ねられて僕は「関係値的に聞くべきではない」と答えた。
今はどうなのだろうか?
今なら訊いても大丈夫なくらいには、彼女とそれなりの関係値を積んでいるような気がする。
いや、多分論点はそこじゃ無い。
──僕自身、聞きたいと思っているのか?
たぶん、それ次第なんだと気づく。
果たして、どうなのだろう。
自分の胸に尋ねるも、回答は後ろ向きだった。
言語化できないもやもやが、彼女の見えない領域に踏み込むことを躊躇っていた。
人の関わりが乏しい僕には、そのもやもやの正体がわからなかった。
考えているとのぼせてきたので、大浴場を出た。
そういえば露天風呂が有名なんだっけ。
せっかく来た以上はその姿を拝んでおこうと、外に出る。
冷たい風が濡れた身体を撫でて、思わず身震いした。
「おお」
露天風呂は、思わず感嘆の声を漏らしてしまう豪華さがあった。
広々とした湯船に、日本庭園を模したセット。
冬にも関わらず若葉の香りが漂って来て、まるで大自然のオアシスに来たような気分になった。
湯船に浸かる。
冬風に晒された身体に温泉は格別だった。
外風呂ということで湯加減は大浴場よりも低めだが、のぼせてしまっていた身体にはちょうど良い。
足を伸ばし、肩まで浸かって、しばらく露天を堪能した。
「あと、3ヶ月か」
ふと、呟く。
最近こうしてゆっくり考える時間がなかったからつい忘れそうになっていた。
僕はあと、3ヶ月で東京を離れる。
地元に帰って、大学生活に戻るのだ。
その事実を再確認すると、胸の奥から自問が湧き出て来た。
──本当にいいのだろうか、それで。
東京を離れたい、地元に帰りたい、という気持ちがあって現状の結論に達したわけでは無い。
親に対する後ろめたさとか、そのうち大学に戻れなくなるんじゃないかという不安が、そうさせていた。
母は言った。
僕のしたいようにしろと。
僕は、どうしたいのだろうか。
人生を振り返る。
大学を休学するまでずっと、僕は自分が保守的で安定志向を望む人間である事を信じて疑わなかった。
両親や教師に言われるがまま勉強をし、受験をし、地元の大学に入学。
よくある、テンプレートなレールを歩んで来た。
多分、そのまま行けばそこそこの企業に就職して、平凡なキャリアを歩んでいたことだろう。
そうはならなかった。
入学して2年後、僕はレールを外れて先の見えない森へ飛び込んだ。
僕の中に存在していた変化を望む性質が、20年間押さえつけて来た反動と共に一気に炸裂した。
上京してからは、自分が今まで学んだ事が全く役に立たない環境に身を置いた。
最初は慣れない一人暮らしと社会の波に揉まれ死ぬかと思ったが、上司にも恵まれたこともありなんとかやってこれた。
今でも大変な時はあるけど、仕事は充実しているし、それなりに楽しい日々を送れている。
中身のない教授の自慢話を聞くより、今の会社でバリバリ働いてるほうが何十倍も充実していることは紛れ無い事実だった。
それがあと3ヶ月で終わってしまうのだと思うと、胸に冷たい寂寥感が芽生えた。
──ふと、彼女の顔が頭を過ぎった。
明るくて可憐で、お節介なお隣さん。
東京を離れるということは、彼女とも会えなくなるということ。
その事が、胸が研磨で削られるような痛みを生み出した。
頭を振る。
彼女は、この件に関しては関係ない。
これは自分の問題だ。
胸に問いかける。
僕は、どうしたいのだろうか。
再びのぼせるまで答えを探し続けたが、結論は出なかった。
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