l'incube
第1話
パリはモンマルトル、場末の廃劇場。星が遠ざかる満月の夜。
温厚にして潔白、泣く子も呆れる人畜無害の吸血鬼――便宜上はこう名乗らざるを得ないが僕はこの屈辱的な呼称が嫌いだ――たる僕ことルイは、そんな美しい夜を書類整理に費やして燻っていた。同居人である魔女ステラに言いつけられて、彼女が部屋中にばら撒いた走り書きを整理しているところだ。
もう随分前のことなのに、ステラは自分の身体が少女の身体に縮小している事実に混乱することがあるらしい。本を取ろうとして踏み台から落ち、足を捻挫してしまった。これをお茶目に済ませればよいものを、やれ片付けが面倒だの不自由だのと一日中キレ散らかされていい迷惑だ。おまけに几帳面な幽霊がそうじゃないそれではだめと僕のやることにいちいちダメ出しをしてくるので、余計に片づけが進まなかった。
夜までかかってようやく糸を通し終えた膨大な記録を何とはなしに捲っていると、一、二、三、四回、楽屋の入り口を規則正しくノックする音が聞こえた。誰かがステラを訪ねてきたようだ。
「ごめんくださいまし」
扉の向こうにしっとりと艶を帯びた若い女の声を聞きつけ、僕は俄に浮足立った。自分で言うが僕の見目は実に品の良い端正な美青年だ。牙を憚らずキスできる恋人を目下募集中。現在の住まいでは圧に押されがちだし、優しく僕の味方をしてくれる人がいい。
階段をほとんど一気に飛び降りて、僕は勢い良く扉を開ける。
「ようこそマドモワゼル! ステラの支度が整うまで、僕とお茶で……も?」
「ちっ」
僕がお誘いを切り上げたのは、目の前に立っていた女がフードを目深に被った長身の美女だったからでもなければ、女が荒々しい舌打ちをしたからでもなかった。彼女の放つ人外の独特な匂いが見知ったものだったからだ。
長く生きていると思いがけない再会というものは少なくない。しかしながら記憶に残るいけ好かない
フードを上げて美しい顔を中心に皺寄せしたその女は、苦々しげに唇を歪めて装っていた高い声音を一気に下げた。
「……また会ったな、ルイ」
◆
「だははははは! なんだよ
「ええい煩い、笑うな!」
淑女にあるまじき開脚で長椅子にひっくり返った美女は、手にした仕込み傘を振り回しながら吠えた。纏った喪服は防犯の目的だとしても、その仕立ては長身痩躯に古着を通したのが丸わかりの不格好さだ。高い位置で一つに結い上げた灰褐色の長髪が床に着きそうで、部屋の隅に浮かんだヘレンが実にもどかしげに揺れている。反り返ったままカバンから引っ張り出したワインをラッパ飲みしつつ、女は憤慨して鼻の穴を膨らませた。
「話には聞いてたが、パリってのはロクでもない街だな! どいつもこいつも風紀の乱れた奴ばかりで反吐が出る!」
「男の子になりたい女の子だったの?」
「男だったんだ! クソ、どうりでやたらと膂力が強いと思った」
「暗いと美人な子っているよねえ。おかげで加齢臭が消えたじゃないか」
「黙れ吸血鬼」
「怒っても美人だよ♡」
「黙れ!」
化粧っ毛がなくとも目の覚めるような美貌の主は、これを少しも慮らぬ邪悪な表情を浮かべて僕を睨み据えた。
一体どうやって身を堕としたか、この夢魔は礼儀正しい教師のような性格をしている。思考、言動はこの時世稀に見る誠実の鑑であり、実に潔癖かつ厳格である。その性格ゆえに夢魔としては落ちこぼれで、なかなか己の本性を許せずいつも四十代の壮年の姿をしている。今は誤って若返ったせいで自棄くそになっているらしいので口調もやさぐれているが、人の精力を吸わず老化していくほどその難儀な性格は濃縮される。同族嫌悪とステラに揶揄されるが、僕とは昔からなんとなく反りが合わない相手でもある。
喧嘩が始まるのではと心配そうに部屋を飛び回っていたヘレンが、長椅子でニヤニヤ顔を保っていた僕の横に来てやめてと首を振った。その気がなくとも僕たちが本気になって暴れればこのおんぼろ劇場など一瞬で瓦礫の山になる。
大仰に肩を竦めて意地悪な笑みを引っ込め、僕はヘレンに向かって片目を瞑った。
「ごめんごめん。紹介するよエレン。彼は、いや今は彼女は、人の精力を吸って生きる夢魔って奴らさ。名前はヴィクトール。今は女だからヴィクトリアって呼んであげてね」
「これは失礼した、ヴィクトールだ。この喧しいのと暮らしてるのか?」
夢魔は軍人じみた挙措でさっと立ち上がり、右手を差し出した。ヘレンは物を触れないので、困ったように右手を出して夢魔の手の上をすっと通過させた。
「よろしく、ヴィクトール……早速で悪いけど、脱いだものはきちんと掛けてくださる……? 私、嫌になるくらい几帳面なの……触れないから、気が触れちゃう前に、お願い」
「彼女が先住民だよ、敬意を払うように」
「なるほど、失礼した。彼女とこれの住まいにしちゃガラクタ置き場になってないのは君のおかげという訳か」
生えなくなった仮想髭を触りつつ、ヴィクトールは学者よろしく頷いててきぱきと外套を壁に掛け、丁寧に裾を払ってから、どうかね、と幽霊の方を振り返った。几帳面なところが響き合うのか、ヘレンはご満悦だ。文句を垂れながらやる僕とは大違いの反応だ。彼女が輝くばかりの笑顔を僕に見せたのは、僕とステラがここに住み着いて最初に大掃除した日以来だ。あれほどの上機嫌ではないにしても、僕はちょっと悔しかった。
ヘレンは慎み深い修道女のような顔立ちで、儚げな白い影姿がなんとも映える可憐な幽霊なのだ。別に惚れているわけではないけれど、他でもない落ちこぼれの夢魔に女性に関して遅れをとるのが、僕としてはおもしろくない。
「彼女はここの先住者で、女優の卵の幽霊だ。僕たちに快く住まいを提供してくれてる。失礼のないよう頼むよ。エレンは英国風に言うとエ、ンエ──」
「ヘレンよ。よかった……わたし、あなたと上手くやれそう」
「光栄だね、ヘレン」
「…………ちぇっ」
◆
さて、その落ちこぼれの夢魔、自室から億劫そうに出てきた魔女を見るなり、彼女が絶世の美女から幼女に変身していることにも気づかず足元に平伏してこう叫んだ。
「抱いてください!」
二月だというのにステラの菫色の瞳は冬の湖のように冷ややかである。煤や薬品で汚れたドレスを持ち上げ、ステラは小さな爪先で這いつくばった夢魔の顎を蹴り上げた。
「……二度目をやらかすとは思わなかったよ」
「助けると思って、何卒お慈悲を……!」
茶渋だらけの汚いカップで暖かいワインを啜りつつ、ステラは僕の部屋の上座に据えられたアンティークの肘掛にどっかと座った。ストーブと同じく僕が気に入って競り落とした豪奢な一品だが、痛んでいて大人の男が座ると不吉な音がするお子様席である。夢魔はその足元まで節足動物を思わせる気持ち悪い動きでカサカサと移動し、恥もなく額を床に擦り付けた。
ステラは大仰に溜息を吐き、ちらりと僕の方を見遣る。その薔薇の蕾のような小さな唇は実に意地悪くつり上がっていた。
ウィ、マダム。僕もそのつもり。
「お前はしっかりしているようでいて、たまに大ポカをやらかすねぇ。お断りだよ。今のあたしの身体は十二歳の生娘なんだ。破瓜が身内だなんて夢がない」
「いやぁ、よっく言うよ! 僕らを足しても掛けても足りない色情魔のくせに。顔の綺麗な男見つけるたび甘ったるい声で幼女の芝居を打つの、見てて恥ずかしいからやめてよね」
「お黙りルイ。不摂生だから初潮が遅いのかねぇ。忌々しい」
手近にあった爪やすりで爪など整え始めたステラを情けない顔で見上げ、夢魔は悠長な口を挟んだ僕を八つ当たりに睨みつけ、もどかしげに魔女の足元に縋った。彼の気高い性格を知っている僕たちからすれば実に滑稽だ。素描でも残しておきたい。
「ステラ、ちょっと手伝ってくれるだけでも……!」
「ちょっとももっともあるかい」
その昔、カストラートの美少年を抱いて女の子になってしまったヴィクトールに、ステラは不純同性交友という裏技を与えてやった。男性性に戻った上に全盛期の魔女を抱いて若返ったヴィクトールは、大いにステラに可愛がられた。一体何回相手をさせられるか知ったことではないが、少女の姿に不満のステラとしても吝かでない話なのだ。実際、事には及ばずとも今のステラは幻覚を伴う薬を用いていかがわしい触れ合いを楽しんでいるから、生娘などとは実に不遜な物言いなのである。
ヘレンにそんな事情を話してやりながら、実に不自由な夢魔だと僕は少しばかりの同情を抱いていた。吸血も性交も僕たち逸脱者の本性だ。これに抗って生きるには、僕たちの余生はあまりに長すぎる。
「気が向かないねぇ。手早くバカ同士重なったらどうだい?」
「「それは、絶対、無理!」」
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