月光夜

彌生 幸

le vampire

第1話

 パリの雨は美しくない。


 南仏にいた頃は、金色の小麦畑に雨が染みていくにおいを吸い込みながら傘も差さずに歩いたものだ。雨音に交じる教会の鐘の音、水車の回る音、家畜の鳴き声。それらを煩わしく感じたことなど一度もなかった。

 風通しが悪くゴミと糞尿とごった返す人の臭いで、都会の方が余程野生じみた悪臭を溜めている。舗装された石畳を行き交う人々の靴の鋲が叩く音、馬車の車輪が回る音、苛立ったパリの住人達の声で、雨音はおろか教会の鐘の音さえ遠ざかる。少し前から始まったオスマン化計画によって外見上美しく整えられた地区と、追いやられた浮浪者や娼婦が詰め込まれた地区が混在し、路地ごとにがらりと治安が変わるのだ。


「……、……」


 灰色の雨をたらふく吸い込んでぎいぎい軋む靴の爪先は、無意識のうちに住処と逸れた方へ向かっていた。僕の鋭敏な嗅覚は、耐えがたい悪臭の中に嫌悪と飢餓を掻き立てる鉄錆の臭いを嗅ぎ取っていたからだ。鼻腔から脳の奥へと駆け抜けた甘美な衝動に、身体がかっと熱くなる。嗅覚を頼りに見慣れぬ路地を折れ、場末の娼婦をやり過ごしながら差しかかった安宿の裏のゴミ溜めの前で、僕は立ち止まった。


 野犬が群がって残飯を漁っている。いや違う。彼らがしゃぶりついているのは痩せ細った少女の足である。でたらめに投棄されたゴミの中に、少女の白い躰が沈んでいた。牙を立ててもほとんど食う所のないそれをゴミ山から引っ張り出し、五匹の野良犬が襤褸(ぼろ)い服を容易く引き裂いていく。

 飢えた犬たちに彼女が真っ赤な血肉を晒す様を、僕はじっと眺めていた。





「――で? 日暮れまで道草食ってようやく帰ったと思ったら、買ったパンを落として豚にくれてやった上、財布もスられて失くしたって? 五つ六つのガキでももう少しマシな仕事をするってもんだよ!」

「痛ったぁ!!」


 モンマルトルはソル通りの路地を入ってすぐ、錆びすぎて緑色に見える鉄柵を開けて急な階段を登ると、そこが僕の住処である旧ヴィユー劇場だ。一時物好きが集ったこともあったらしいが、今や幽霊の噂が絶えない廃墟である。


 べちゃべちゃの靴から不快な音を発しながら階段を上がりきった狭い楽屋の廊下で出迎えてくれたのは、床まで届く長い金髪の美少女だ。陶器人形のように儚げな美貌を凶悪に歪め、階段の上で仁王立ちして待っていた。僕は今濡れ鼠のまま、罪人よろしく冷たい床に座らされている。それもブリキの塵取りで幾度となく殴打されながら。


 べこべこに変形した塵取りを手に菫色の美しい瞳の嵌った眼を吊り上げ、少女は今にも僕を階下へ蹴り落としかねない。


「ごめんよ、ステラ。薬草は無事だから。ホラ!」


 彼女、ステラの機嫌を取るべく、僕はしどとに濡れた外套から袋を引っ張り出すと、献上品よろしく捧げ持った。彼女から薬草を買ってくるよう頼まれていたからだ。が、僕の手は無慈悲な塵取りによってしたたかに打たれ、ゴミと判別のつかぬ紙袋は廊下の隅へ飛んで行く。


「乾燥してなきゃ意味ないんだよこのグズ! あたしの部屋に湿気を持ち込むんじゃないよ、裸になって毛布でも被ってな!」


 少女はこうがなり立てるなり弾け散らんばかりの勢いで部屋の扉を閉め引っ込んでしまった。狭い通路に飾られた絵がガタガタ揺れ、所々釘の緩んだ床板まで激しく軋んだ。朽ちかけの階段に安全ルートを見極めながら僕はとぼとぼと足を引き、楽屋の細い通路を抜ける。


 僕たちが住んでいる旧ヴィユー劇場は、変貌するパリでも随一イカした地区、モンマルトルにある小さな劇場だ。熱狂的なシェイクスピア信奉者である元の支配人が古典的な演目に執着したため、新しい物好きの都会人たちから無慈悲なまでに見捨てられて多額の負債を抱え、一家無理心中の悲劇で閉幕した。いや、これでは語弊がある。シェイクスピア自体は今でも大いに人気だし、毎日どこかしらの劇場で演じられている。問題は支配人が十六世紀の演出、つまりは最低限の小道具と舞台装置に悪趣味な衣装を着せた役者を立たせるスタイルにこだわった点にある。要は、時代遅れで興行下手だったのだ。僕とステラは彼の義理の息子とその娘を装って名義をぶんどり、二階と三階部分を改装して勝手に住んでいる。所有者である貴族にはこれ以上ないほど怪しまれているが、たまりにたまった負債を地道に返してやる代わりに見て見ぬふりをしてもらっている。


 楽屋と衣裳部屋をぶち抜いて作った空間が僕の主な生活スペースだ。一昔前の没落貴族風の薄汚れた家具や壊れて動かない時計、動物の剥製なんかで飾ってある。ステラは自分の部屋に籠ってほとんど出て来ないので、使うのは僕しかいない。


 部屋の隅でびしょぬれの服を全部脱ぎ、たらいに放り込んでからバスローブを羽織り、ステラが放り出してあるストールを失敬して羽織る。それから湿気たマッチに苦戦しながら火を点け、燃料式ストーブに火を放り込んだ。ウィーン風の洒落た拵えで、一昨年大枚をはたいてオークションで落札したお気に入りだ。ステラは産業革命を憎悪してやまないが、僕はこういう人の技術で生活を補う道具は嫌いじゃない。


「お帰り……なさい、ルイ」

「ただいま、エレン」


 部屋の隅から声がして、立ち昇った白い影がすうっとこちらへ寄って来た。

 彼女は英国から来た女優の卵で、この劇場の元出演者だ。名前はヘレンというが、元フランス人の僕には発音が難しく、フランス風の呼び方で許してもらっている。


 彼女は美人だったせいで女優達にいじめられ、自殺に見せかけて舞台から突き落とされて死んでしまったそうだ。今は演じられなかった姫君の白いドレスを着て、誰もいない劇場を彷徨う幽霊である。自分が死んだことは理解しているが、神の御許へはまだ行けないらしい。


 彼女が舞台でデスデモーナの役を稽古する声が漏れ聞こえようが僕たちは一向に構わなかったし、物に触れられない彼女も雑然とした楽屋を掃除する者が来たことを喜んでくれた。彼女と僕は演劇の趣味も合うし、彼女のために脚本を捲ってやったりもする。つまるところ旧ヴィユー劇場の幽霊は噂でもなんでもない、ここは本物の怪異劇場なのだ。


 ヘレンはふわふわ漂いながら、死んだ拍子に折れて頼りない首を手で押さえつつ嫌々と横に振った。


「ルイ、服をぐちゃぐちゃに置いておかないで……皺を伸ばして干さないと……臭くなるわ」


 彼女の唯一の欠点は病的な几帳面さだ。生前からして定規を持ち歩いていないとヒステリーを起こすほどの強迫神経症で、言ってしまえば彼女がいじめられていた理由の一つでもある。僕はストーブの前に椅子を引っ張って行きながら同じように嫌だと首を振った。


「髪が乾いてからでもいいだろう。僕の自慢のプラチナブロンドが見てよ、トウモロコシの髭みたいだ。君、臭いなんてわからないだろ?」

「駄目……すぐやって……じゃないとわたし……悪霊になっちゃう」

「みんな僕に冷たいよ……」


 教師みたいに定規を振り回している幽霊の言いなりに、僕は胸まである白金髪を握って雨をしごき出してから立ち上がった。脱ぎ捨てた服一式を捻じって絞り、彼女の指示通り念入りに皺を伸ばして物干し竿に掛ける。ついでに床のモップかけまでさせられて、床の埃痕が消えたヘレンは満足そうに僕の周りをふわふわ飛んだ。


「ルイ、買い物に行ったんじゃなかったの……夕食にしないの?」

「うーん。まあ、今日はもういいや」

「血を飲まないと、困ったことになるんじゃない……?」

「平気だってば」


 ヘレンは心配そうに首を傾げたが、再びストーブの前を陣取った僕が断固動かないつもりとわかると、舞台側の壁の中に消えていった。


 背徳的な寄り道のことは、神にしか懺悔するつもりはない。別に野犬のおこぼれにあずかったわけではないのだ。ただ食物連鎖の位階から転落する孤児を観察しながら、雨と一緒に石畳の間を流れる血の臭いを堪能し、人間が酒に酔うような陶酔を味わったにすぎない。僕は今でも敬虔な神の僕のつもりだが、嫌が応にも抗えない習性で人間の血の臭いには惹かれてしまう。


 僕はいわゆる、吸血鬼ってやつなのだ。


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