この国の不寛容の果てに 読了

今回は、2020/10/09に読んだ『この国の不寛容の果てに』の話を少し。

ロスジェネの若者たちは、年寄りに対して怨みつらみがあるそうです。

自分たちの老後は、もう絶望的なのに、

年寄りは自分たちの給料で支えてもらっている。

一部の年寄りは、若者の一年の給料分をひと月で消費するとかしないとか……。

そして、医療費は年寄りが増えれば増えるほど増加する。

国の借金も増えますね。

で、障碍者や女子どもは利益を出さないと言うことで、

「死んでよし」

という論説がまかり通っている、それは問題だというのが、だいたいの論旨でした。


利益という点から見るなら、カネを儲けない人間は生きている価値がない……

ということになりますよね。

でも、実際に世の中を見てみると、労働需要は減っております。人があぶれてる。

生産性から人を見るのは、限界がある。必要性という面から人を見よう、と呼びかけるこの本。

一理あるように見えるけど、「必要性」ということを深く考えると、

それはそれで怖い気もしますねえ。


生産性は見えやすいし、評価もしやすい。なにをどれくらい作ったのか、品物がしっかりあるからね。

必要性というのは、だれが、なにを、どのくらい必要としているかということだから、

不要なものにはカネを出さなくていいことになる。

そこで思い出すのが、昭和70年代前半までの、映画などの媒体のことです。


あの時代では、たいていの映画は2本立てで、ほんとに見たい映画と同時に、

どうでもいい映画も同時上映されておりました。

すると、暇もあるしどうせだから見ちゃお、となって、不要な映画も見る。

その映画から、学ぶことがある。


あるいは、辞書の例もある。

いまは電子辞書があって便利ですが、紙の辞書は、目的とする語彙の周囲をパラパラめくり、

なんとなく、見てしまう。不要だけど、見てしまう。

そして、雑学を手に入れる。


ということを考えると、「必要性」ということはなにか、という考察が

足りてないかもしれないと思うのですよね。

まえほど経済的に豊かな人間が、巷に溢れている時代じゃないだけに

人の心も狭くなる(貧すれば鈍す)。

まずは、豊かということの尺度を変えるべきじゃないかと思うんだが。

コロナで経済活動がままならなくなっている昨今、

根本的に、「資本主義」とか「自己責任」とかいう言葉を考え直す時期が来てるんじゃなかろうか。


自分の利益は年寄りに剥奪された、と思う若者たち。

やり場のない怒りを、弱者に向ける。

魂の飢えを満たすものが必要だと思うけどね……(宗教的な意味じゃなくてね……)

お金がないから、売れるものが世の中を席巻するけど

ほんとうに価値のあるものがなにか、みんな忘れてませんかね。


面倒くさいことを避けて、対話を避けて、目の前にある回答に飛びつく。

やっぱり教育が問題だな。答えのある問題ばかり解かせてるからだよ。

自分で考えることって面倒だけど、面白いんだよ。


今日は説教臭いお話でした。

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