4章 プリンセス・マーメイド
遠くで波の音を聞いていた。
心を揺さぶる心地よいリズム、水の上をたゆたう懐かしい感覚。
まどろみの中、礼一は記憶の中の出来事の、一体どこまでが実際に起きたものだっただろうかと、ぼんやり考えていた。
ほっぺたを優しくつつく慣れ親しんだ感覚に、ゆっくりと目を開ける。目の前のつぶらな瞳に短く「おはよ」と告げてから、礼一は両腕でなんとか身体を起こした。外はもう明るい。まだ身体が重いのは、疲れが完全には取れてはいないからだろう。
両腕をベッドについたまま、頭に血が巡るのを待つ。そのまま横目で隣のベッドに目をやったが、礼一とは逆方向に頭を向けているブランケットの塊は、まだ口をきいてくれる気はないようだった。すでに目が覚めているのは呼吸と気配で分かったが、頑に寝たふりを続けている。
そんなハオランの様子を見て、礼一は実感せざるをえなかった。
——記憶にある昨日の出来事は、すべて現実に起こったことなのだと。
礼一はため息をひとつつくと、何とか自分のベッドから起き上がり、隣のベッドに腰掛けた。
「ハオラン、おはようございます」
ブランケットの塊をぽんぽん、となでる。手のひらの下で、ハオランが身じろぎをするのが分かったが、返事はなかった。
礼一が続ける。
「まだ許してはくれませんか?」
しばらく待っていたが、やはり返事はなかった。放っておくのは簡単だが、昨晩、礼一が船に戻った時の、あの表情を見てしまってはそうもいかない。気をもみながら待っていてくれたのだろう。不安に陰っていた三人の顔がほっと緩むのを見て、自分がどれだけ彼らに心配をかけていたか、礼一は痛感させられていた。
もっとも、すぐに顔をしかめたハオランは、クリスとターニャに抱き潰される礼一をひと睨みしてから、ぷいっと部屋に帰ってしまったのだが。そしてそのままずっと口をきいてくれていない。
ラフ過ぎない程度にカジュアルな服に着替え、礼一は再びハオランの様子を覗き込む。
「——せめて朝食には顔を出しませんか?」
そう声をかけてみたが、青年はぎゅっと目をつむりながら、更に枕に顔を埋めてしまった。彼のそんな様子に小さくため息をつくと、礼一は静かに立ち上がり、ひとり朝食会場に向けて部屋を出る。
ルームサービスのメニュー表を枕元においてはきたものの、やはり気がかりではあった。きちんと食べてくれるといいのだが。 ダイニングに足を踏み入れた礼一は、すでに席に着いてメニュー表を眺めている二人を見つけて「おはようございます」と声をかけた。
「やあ、レーイチ。昨晩はゆっくり休めた?」
さすがに昨晩の疲れが残っているのだろう。薄く隈ができた目元を細め、にっこりと笑いながらクリスが聞いた。
「ええ、とても良く眠れました、ありがとうございます」そう返してから、礼一はためらいがちに付け加える。「ただ、ハオランが起きてこないんです。声はかけたのですが……」
「大丈夫よ。レーイチを心配してた自分が恥ずかしくて、拗ねたふりしているだけなんだから」若さなのだろう。疲れを感じさせない笑顔で、ターニャが口を挟んだ。「ああ見えて体力はかなりあるみたいだし、心配するだけ無駄よ」
そう言って、ターニャがにこにことメニュー表を差し出してくる。
なんだか二人とも機嫌がいいみたいだ。礼一はやや困惑交じりにありがとうと言って、それを受け取った。ターニャはともかく、クリスは朝が苦手なはずなのだが、こちらもにこにこと笑顔が絶えない。
「ちなみに、この店の一押しは何と言ってもトマトでね。ぜひ生で召し上がってほしいな」クリスがすばらしく艶っぽい流し目を礼一に送りながらそんなことを言った。
クリスの勧めに、以前説明しなかっただろうかと内心首を傾げながら礼一は答える。
「クリス、ごめんなさい。実はぼくは、生のトマトが苦手なんです」
火を通したら食べられるのですが、と言いかけた礼一の言葉を遮って、クリスが続けた。
「もちろん知っているよ。さあ、この生トマトたっぷりのサラダはどうだろう。シンプルに塩とオリーブオイルで頂くメニューなんだけれど、トマトはオーガニックのものだし、塩にもオリーブオイルにもこだわった、人気の一品でね」
にっこり笑いながら言葉を重ねるクリスにつられるように、礼一も引きつった笑顔を浮かべる。
まずい。今まで気がつかなかったが、彼は大変ご立腹でいらっしゃるようだ。
助けを求めるようにターニャを見ると、その視線に気づいたターニャがにっこり笑って言った。
「なま絞り100%トマトジュースっていうのもあるみたいよ」
「…………」
どうやら自分は、考えていたよりもずっと三人に心配をかけてしまっていたらしい。それを朝から痛感させられっぱなしで、礼一は胃が痛くなってきた。
二人の笑顔の圧力に礼一が冷や汗を流していると、レストランの入り口から長身の男が姿を現した。無駄のない、俊敏ながら優雅な動きは地上でも健在で、その動作一つ一つにとにかく目が惹き付けられた。
礼一の視線に気づいたのだろう。長身の男——エドがぱっとこちらを振り返る。そして無愛想な顔を心持ち緩めると、礼一に向かって軽く片手を上げた。
考えてみると、ヒゲのない彼の顔を明るい場所で見るのはこれが初めてだ。礼一は笑顔で片手をあげながら、そういえば彼は、ターコイズブルーの目をしていたのだったと思い出す。
そんな礼一の様子を見守っていたクリスが、おもむろに店員に目配せして言った。
「なま絞りトマトジュースを二杯、彼に」
「——すみません、それキャンセルで」
昼食後にはダニエルとの時間が控えている。
それまで、自分の気力は持つだろうか。
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