3章・海上の邂逅 1
ブリズベン港は中心街から約二十四キロメートル、ブリズベン川の河口部にあるフィッシャーマン島に位置している。
国立海洋公園に指定されたモートン湾内にあり、周辺にはジュゴン、クジラ、ウミガメ、イルカが生息し、島内にも緑の多く残る保護区が設けられている。クレーンやサイロの設置された物流用の島に、多数の鳥が行き交う様子は、なかなか印象深い。
そんな風景を一望してから、再度時計を確認し、礼一はため息をついた。半ば予想通りとはいえ、時間通りにやってきたにもかかわらず一番乗りだ。全く、待ち合わせ場所を喫茶店にすべきだと主張して正解だった。この気候の中、こんな格好で外に突っ立ってなどいられない。
そんなことを考えながら、礼一は傍らに置いたダークスーツのジャケットをうんざりと見やった。
絶対にオーストラリアでは着まいと思っていたスーツを、まさか飛行機を降りてたった二週間程度でまた買い直すことになるとは。この国にやってきてからというもの、本当に予測のつかないことばかりが起こっているが、スーツに腕を通す瞬間はその中でも飛び抜けてうんざりさせられる類いのものだった。この堅苦しい装いに身を包んでいると、日本を出る直前の自分を思い出さずにはいられず、礼一は大いに気を悪くしていた。
そんな気分の悪い中にあったからだろうか。奥の席に座った長身の男が、店員の女性と親しげに会話をしている光景が嫌に目についた。軽そうな男だ、と思った所でさすがに反省をする。ただ見かけただけの人間に対して、一体、なにをイライラしているのだろう。
心を落ち着けようとアイスティーに手を伸ばした礼一の目の前に、鈍い金髪の男が滑るように席に着いた。心持ち乱れた前髪の奥から、美しい造形とそれを和らげる甘めの瞳がのぞき、その視線が礼一をとらえた瞬間、さらに穏やかに緩む。
「ハイ、レーイチ。遅れてごめんね」
映画から飛び出してきた様な、いっそ笑える程に現実感のない美形。仕立ての良さそうな艶のあるダークスーツに身を包んだクリスが、あざとい程に艶やかな笑顔を見せた。
「いえ、ぼくの次に来たのが、あなたで驚いています」
そう言いながら、さりげなく彼のスーツに目を走らせる。うっすら茶色を帯びたスーツに、ワインレッドのネクタイ。夏の時期には暑苦しくなりがちなコーディネートが涼しげに見えるのは、一体どんなセンスなのか。悔しいが文句なしに格好良かった。
ところが当のクリスは礼一を見て「フォーマルな装いも素敵だ」だの「とてもセクシーだ」などと言うものだから、礼一はもう少しでアイスティーを吹き出すところだった。この物怖じせずに相手を褒める彼らの文化には、まだまだ慣れそうにない。
礼一は控えめな笑顔で「どうも」と返し、話題を変えた。 「今朝お会いした時に、今日は後から合流するって言っていませんでした?」
礼一がそう尋ねると、クリスは「もっと遅くなるかと思っていたんだけどね」と言いながらアイスコーヒーを注文する。
「予定より早く抜け出せたんだ。季節の代わり目だったら、こうは上手くいかなかっただろうけれど」
「抜けてきていただいたのに、結局待つはめになりましたね。なんだか申し訳ないです」
「問題ないよ、想定内だから」そう言って、さらりと付け加えた。「君とゆっくり話ができるのも嬉しいしね」
「同じ家に住んでいるのに、なかなかゆっくり話す時間がありませんね」
「とても残念だ。せっかくルームメイトができたのに」そう言いながら男が肩を落とす。「色々な話ができると思って、ぼくは君の入居を本当に楽しみにしていたんだ」
「例えばゲームの話とか?」彼の趣味が表れたリビングの棚を思い出し、礼一はくすりと笑いを漏らした。「あなたのゲームは、ぼくの知っているものばかりでした。あなたとは話が合いそうです」
クリスが目を輝かせながら、口を開きかけ——そのまま、心持ち顔をしかめた。
「二十分遅刻だ、主催者殿」
彼の言葉に振り返ると、これまた顔をしかめたハオランが、メニューを片手に歩いてくる姿が見えた。カンフーの修行中というのは伊達ではないようで、革靴を履いているはずなのに、その動きはしなやかで無駄がない。光沢のある薄い水色のネクタイは、彼の淡い亜麻色の瞳を上手く引き立てており、スーツの似合う長身と相まって、彼を驚くほど爽やかな好青年に見せていた。
「あんたは早えな。仕事はどうしたんだよ、オーナー」
「早めに抜け出せたんだよ」
短く告げたクリスの仏頂面を見て、ハオランは爽やかなコーディネートを台無しにするような、人の悪い笑みを浮かべた。
「そんなこと言って、今日の話の内容が気になってしょうがなかったんだろ」
「……そう思うのなら、少しくらい内容を話してくれ」
「確証を得るためには、ダニエルに会う必要があるんだよ」ハオランがジンジャエールを注文しながら言った。「おれは話の断片から推測しただけ。あんたがいろいろ話してくれてりゃ、もうちょっと話が早かったんだぜ」
「悪かったよ。ただ、気軽に口にできない事情も理解できるだろう」
ハオランはそれには答えず、ただ肩をすくめながら礼一の隣に腰を下ろす。そしてジャケットから二枚のチケットを取り出し、そのうちの一枚を礼一に渡した。
「ほら船の乗船券、あんたの分」
「ありがとう」
「いーよ。金はダニエル持ちだし。あ、クリスの分は預かってねえぞ」
「ああ、こっちはこっちで買ったから大丈夫だ」
「それにしても、豪華客船に乗る機会が自分に訪れるとは思っていませんでした」
チケットを眺めながら感慨深げに礼一が言うと、ハオランが「おれもだよ」と返した。
「興味を持ったこともなかったから、全く中の様子が想像つかねえ。タイタニックの映画みたいな感じか?」
「船ではありませんが、ぼくはオリエンタル急行殺人事件のイメージです」
「ぼくはあれだな、少年探偵アニメの映画版」
三人三様に、不幸な事件が起こる映画のタイトルを挙げたところで、約束の時間から三十分が経過し、礼一とクリスは首を傾げた。
「ターニャ、遅いですね」
「……おかしいな、ここまで時間にルーズな子ではないはずなんだが」
何か連絡が入っていないか、と端末を手に取ろうとした二人に向かって、ハオランがこともなげに言った。
「あいつなら直接船に乗るって言ってたぜ」
「…………」
「なんかヒールで待つのがいやだから、直接乗船場に向かうんだと。もう船着いてる時間だし、先に乗ってるんじゃねえの」
「君な、そう言うことは——」クリスの声が、低く地を這う。「先に言え! なに平然と注文しているんだ!」
礼一は突っ込む気にすらなれず、無言で席を立った。
何か言い合いながらレジへと向かう二人の後ろを歩いていた礼一は、誰かの視線を感じ、何とはなしに振り返った。そして振り返った先で、先ほど目に入った長身の男がこちらを見ていることに気づき、とっさに目を伏せる。
なぜか胸がざわめいた。嫌な感じだ、とそう思った。
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