5話
今日から住めばいいと勧める住人たちの誘いをなんとか断り、その場にいる三人全員と連絡先を交換させられ、ホテルの場所を吐かされた後で、礼一はようやく帰路へ着いた。どうせならあと三日くらいゆっくりホテルで過ごしたかったが、残念なことに、明日の午前中にクリスが車でホテルまで迎えにきてくれるらしい。
だがまあ、トランクを引きずって歩ける距離ではない。助かるのも確かだ。
なんとか自分を納得させようと試みながら、オーストラリア用端末にホテルまでの道を表示させる。
その時、ふと礼一の目に、ブリズベン河を進んでいく小さな船の姿が飛び込んできた。
確かガイドブックに、無料の船が河を行き来していると書いてあったが、もしかしてあれのことだろうか。
船越しに感じる水の感覚が、ふと蘇る。その瞬間、礼一はいてもたってもいられず、急いで停船場の方へときびすを返していた。いつの間にかほとんど日も沈んでしまい、薄闇の中でライトアップされた街並みが、水面に映っていて幻想的だ。
そんな水面の街を眺めながら船を待っていると、程なく赤い色をした小型の船が目の前に止まった。肩章つきの白い制服を身につけたヒゲの船員が降りてきて、手早くロープを停船場に括り付けていく。そして彼が船の扉を開けた途端、礼一の想像よりも遥かに多い人々の波が、小さな船から溢れ出してきた。
そして、全員が降りきったところで、先ほどの船員が乗船を待つ人々の前へ進み出て、オーストラリア人にもこのような人がいるのかと感心するほどの無愛想さで、乗船のお願いを淡々と述べる。
曰く、船の二階部分は観光客用なので、通勤通学の人は出来るだけ一階に座ってほしい、とのことだった。そういうことなら、この国に着いたばかりの自分には、二階に座る権利があるはずだ。
そう考え、乗船者の数を数えているのだろう、計数カウンターが船員の手元でカチカチなるのを聞きながら、礼一はさっと二階部分へと上がった。そして早々にベンチに腰を下ろすと、船が徐々に速度を上げながら水上を走り出すのを、船の中からぼんやりと見つめる。
対岸から眺める街並もすばらしかったが、水上から見る景色もまた格別だった。心地よい船の揺れを体で感じながら、ため息とともにそっと肩の力を抜く。
嬉しそうに船からの景色を写真に収める若いカップルの様子を見ると、なんだか現実世界に帰ってくることが出来た気がしてほっとした。
やはり先ほどの出来事は悪い夢だったのではないだろうか。——このまま逃げてしまえば夢で済みそうだな。
やはり逃げてしまおうか、と考え始めた瞬間、水面ぎりぎりを半透明の魚が泳ぐように飛んでくのが見えた。水しぶきにしては大きい、魚の形をした光が遊ぶように船に並走し、溶けるように夜の闇の向こうに消える。結局、これが現実なのだ。
そう言えば、イルカも先ほどの魚も、水に関連する生き物だ。
船のモーター音を聞きながら、ふと幼少期のことを思い出す。
海辺の街で育ったため、夏も冬もよく海で遊んでいた。防波堤から海に飛び込むのはもちろん、近所のおじさんにヨットの操縦を習ったり、漁船に乗せてもらったりもしていた。大学進学とともに家を出たが、選んだのはやはり海辺の街だったし、東京に出てからはきれいな海恋しさに、しょっちゅう沖縄の離島へと足を運んでいた。
特に何かを考えての行動ではなかったが、もし、自分と海との関係が思いのほか深いのだとしたら……。
そこまで考えて、頭を振った。よくわかってもいないことに、適当な推測を当てはめるのは、あまり賢明とは思えない。
とりあえず、様子を見ることにしよう。そもそも今優先するべきことは、この街できちんと生活していくことなのだから。
船に揺られる懐かしい感覚に、ようやく礼一はそう思えるようになったのだった。
次の日の朝、早めに起きて一時間をほど街を歩き、考えをまとめた。その後、バイキング形式のホテルの朝食をゆっくりと食べ、荷物をまとめて約束の時間に正面入り口へと向かう。
すでに礼一を待っていたらしい秀麗な男が、にっこりと微笑んで助手席を開けるのを見て、礼一はわずかに苦笑した。
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