献身的な女

紫 李鳥

前編

 



 小田晃佑の妻、蓉子は良くできた女房だった。晃佑の健康を考え、運動や食事にも一工夫していた。


「急激に走っちゃ駄目よ。競歩みたいな歩き方がいいの。分かった?」


「ああ、分かってるよ。今朝もアベベみたいな走り方でジョギングしたよ」


 親子ほど年の離れた蓉子に、晃佑は頭が上がらなかった。


「ほんとは朝のジョギングより、夕食前のほうがいいのよ」


 肉野菜炒めを食べながら、晃佑を一瞥した。


「かもしれんが、仕事柄そうもいかんよ」


 鱈の西京漬けを食べながら残念そうに言った。


「来年の定年までは無理しないでね。病気でもして倒れたら、これまでの努力が水の泡よ」


「ああ、分かってるって。ごちそうさん。あ~、旨かった。さて、風呂に入るか」


「ほんとは食事の前に入ったほうがいいのよ、お風呂」


「分かってるが、長年の習慣は一朝一夕いっちょういっせきじゃ直せんよ」


「………」


 蓉子は諦めると、食事を続けた。



 後片付けを終えると、掛け時計を視た。普段から長風呂だが、それにしても一時間は長過ぎる。心配になった蓉子は、浴室に向かった。



「あなたーっ!」


 晃佑が浴槽に沈んでいた。救急車を呼んだが手遅れだった。脳梗塞で呆気なく逝ってしまった。



「――主人は熱い風呂が好きでした。私が温めにしても、自分で熱くしてしまい、主人の後に入ると、いつも熱くて、水を足してました。何度注意しても聞かず、それ以上、私にはどうすることもできませんでした。――」


 俯いて話す蓉子は、美人というよりはコケティッシュな面持ちで、その華奢きゃしゃな体を更に小さくしていた。


 事件性はなかったが、状況を聴くため取り調べることにした柳生は、良識を絵に描いたような口振りの蓉子に、いぶかしげな表情を向けた。



 柳生は、蓉子の過去を探ることにした。結果、蓉子に疑惑を抱かざるを得ない事実が浮上した。


・二年前にも夫を亡くている。それも、浴室で。死因は心筋梗塞。夫の年齢は当時、73歳。


・今回同様、見合い結婚。


・両者とも入籍して一年後の冬に死んでいる。



 高齢者のヒートショックを狙って、結婚相談所に登録しては、カモを漁っていた。それが、柳生の見解だった。



「――二年前にも、ご主人を亡くしていますね? それも、今回と同様の風呂場で」


「はい。前の夫も熱い風呂が好きでした」


 蓉子は悪びれる様子もなく、瞬きのない目を柳生に据えた。


「お二人とも高齢者だ。お年寄りがお好きですか?」


 柳生は皮肉を込めた。


「はい。幼い頃に父を亡くしてますので、たぶん、ファザコンかもしれません」


「…………」


 柳生は、蓉子に強かなものを感じながらも、結局、殺しの証拠を挙げることはできなかった。



 蓉子は、多額の保険金を手にすると、小田の家を売り払い、悠々自適ゆうゆうじてきといった具合に海外旅行に出掛けて行った。



 数週間の後に帰国すると、また結婚相談所に登録して、カモを漁っていた。


「わしゃな、もうすぐ80になる隠居じじいじゃが、あっちのほうは、まだまだ若いもんには負けんじょ。ガッハッハッハ!」


 相談所が主催するお見合いパーティで、古谷興太郎は、達者なのをアピールした。


「ええ。とっても若々しくて素敵ですわ」


 小紫の付け下げに、銀糸の袋帯をした蓉子は、細い指先で口元を隠すと、しとやかに微笑んだ。


「あんたみたいな若い別嬪べっぴんさんと第二の人生を歩みたいもんじゃ。金は腐るほどある。無いのは嫁さんだけじゃ。ガッハッハッハ!」


 興太郎は資産家を匂わすと、豪快に笑った。言わずとも、先々の二人の姿が想像できた。



 親類縁者のすくない二人は、興太郎の豪邸で二人だけの式を挙げると、入籍も済ませた。




 蓉子は良くできた女房だった。血圧が高めだという興太郎の食事には特に気を配った。塩分控えめに、出汁だしで味を濃くしていた。だが、塩気の強い料理に慣れている興太郎の舌は、蓉子の薄い味付けに満足できなかったのか、蓉子の目を盗んでは、食塩を足していた。


 興太郎もまた、熱い風呂が好きだった。冷えきった脱衣所で服を脱ぎ、その冷えた体で、直ぐに熱い風呂に入る。この温度差が血圧の変動を激しくする。いわゆる、ヒートショック現象だ。


 ましてや、全身浴は愚の骨頂。血圧の乱高下が心臓に大きな負担をかけることになる。

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